#05.
ルシラが公爵の城に到着したのは、夜の帳が世界に降り下りる頃だった。
公爵の城砦の向こうに魔物の国があるからだろうか、吹きつける風は妙な生臭さを孕んでいた。
ルシラは公爵の城を見上げながら、浅い息を吐き出した。まだ松明を灯すには早い時間。けれど立ち込める暗闇に一寸先も見えない時間。
ルシラがゆっくりと公爵の城砦の前へと向かうと、入口に立って居眠りをしている警備兵が見えた。
(公爵の城を守る警備兵が、こんな時間から居眠りをしているなんて……)
ルシラの目が細くなった。ルシラが目と鼻の先まで近づいても、警備兵は起きなかった。仕方なく彼の肩をポンと叩くと、男はそこでようやくビクッと肩を震わせ、顔を上げた。
「うわっ!? 何だ……え?」
「良い夜ですね、警備兵さん。私はルシラ。ファルゲル公爵様にお会いするために訪ねてまいりましたの」
「え、え? 今なんて……」
「ユルケン・ド・フェルキリオン。ファルゲル公爵様を訪ねてきたとお伝えしましたの」
ルシラがにっこりと笑いながら言葉をかけたが、警備兵はルシラの言葉を理解できないといった表情を浮かべた。
正確には、彼女の左目に見入るあまり、ルシラの口にした言葉が耳に入っていなかったのに近かった。
じっと見つめてくる視線を穏やかに受け流したルシラは、もう一度。今度は少し強い口調で言った。
「ファルゲル公爵様を訪ねてきたとお伝えしましたの。案内をお願いしたいのですけれど」
「あ、いや。おい。その……公爵様を訪ねてきたって?」
「はい」
「お前はその、もしかして……何の用だ?」
警備兵の抜け作のような顔に、ルシラの顔から笑みが消えた。冷たく凍りついた彼女の表情に、警備兵は息を呑んだ。
「私はファルゲル公爵様を訪ねてきたとお伝えしましたはずですが。公爵邸の警備兵は、私が何度も同じ言葉を繰り返さなければご理解いただけないのかしら?」
「あ、誰も彼も公爵邸に入れられるわけがないだろ! 公爵様を訪ねてきた理由を明かせ!」
「理由?」
理由、ね……。
警備兵の制止に、ルシラは再び口元を歪めて笑みを浮かべた。ルシラは言葉を続けた。
「そうですわね。理由ですわね。そうね、私は公爵邸で働いてくれる人を募集していると伺いましたの」
「それ……つまり、お前はメイド募集のお触れ書きを見て来たってやつか?」
「はい。ですから公爵様にお会いしたいのです」
ルシラの答えに警備兵は怪訝そうな表情を浮かべたが、彼女がじっと見つめ返すと、やがて頷いた。
「わかった、分かったよ。公爵様のもとへ案内する。だからそうじろじろ見るな」
体を翻した警備兵が扉を押すと、けたたましい音とともに城砦の門が開いた。
(警備兵ひとりの手で開く城壁だなんて……)
それだけではない。城砦を守るべき警備兵が自らルシラを案内している。その間、城砦はがら空きになるということではないか。
どう見ても要塞としての機能は作動していないようだった。
ルシラの目が細くなった。
(手を入れるべき場所が山ほどありそうだわ)
城内へと案内する間中、警備兵は無口だった。
枯れ草と雑草が茂る庭園と、整備されていない道。城の扉すら油が差されていないのか、蝶番がギシギシと軋む音を立てた。
開かれた扉の向こうには、夜の帳と同じくらい暗く沈んだホールが見えた。
最小限の灯りだけがつけられたホールは、今にも魔物が飛び出してきそうな不吉な光を帯びていた。
黒ずんだ赤い絨毯はふかふかだったが、鼻腔をくすぐる埃の匂いからして、まともに掃除されていないようだった。
そして……。
(腐った血の匂い)
ファルゲル公爵領は王国の北方に位置する領地であるため、他の地域よりも気温が低い。
公爵の城もまた換気よりは保温を中心に建てられたため、空気中に留まる空気は非常に濁っていた。
ルシラはゆっくりと足を進めながら、石造りの堅牢な城の内部を観察した。暗くてよく見えないが、あちこちに黒ずんだ血痕が見えた。
(掃除の状態も惨状ね。城のすべての場所がそうなのか、それとも公爵が歩く廊下だけがそうなのか分からないけれど)
まあ、見なくても城のすべてがそうなのだろうけれど。
一言の言葉もなく警備兵の後をついていくことどれほどだっただろうか。
長い廊下の行き止まり。他の場所よりもさらに暗く見える部屋の前で警備兵は立ち止まった。
かなり長い時間を歩いたにもかかわらず、使用人の姿は一人も見当たらなかった。
「公爵様は執務室の中にいらっしゃる」
「案内してくださってありがとうございます」
「じゃあ俺はこれで失礼する。城砦を長く空けるわけにはいかないからな」
言い終えた警備兵は、ルシラを連れてきたときとは比べものにならない速度で駆け去っていった。それほど公爵のもとへ来たくなかったということか。
(よくもまあ、あんなのを雇い人として使っているものだわ。まったく……)
ルシラの口元が吊り上がった。笑いが込み上げてきそうで、ルシラは口元を押さえて笑みを抑え込んだ。
指一本躊躇することなくドアノッカーを叩いた。静寂を破るノッカーの音が廊下に殊更大きく響き渡った。
固く閉ざされていた扉がゆっくりと開き始めたのは、ノッカーの音が響いてから少し時間が経った頃。
ルシラが扉を開けて足を踏み入れると、廊下よりもさらに暗い部屋が彼女を迎えた。最初は部屋の中に誰もいないのかと思った。
しかしよく見ると、広い机の向こうに誰かが座っているのが見えた。
黒いフードを目深に被った人物はうつむいていて姿が全く見えなかったが、フードの大きさからしてかなりの体格の良さが伺えた。
「何の……用だ?」
ひどくかすれた声が低い音を紡ぎ出した。ルシラは答える代わりに机の向こうの人物へと近づいた。
止まることなく近づいてくる足音に、伏せられていた顔がわずかに上がった。
そして。
「……!」
ルシラは躊躇することなく彼のフードを容赦なく剥ぎ取った。隠されていた銀色の髪がフードの下からこぼれ落ちた。
見開かれた瞳の色は、春の花に似た透明な桃色。
ファルゲル公爵と視線を合わせたルシラが口元を歪めて笑みを浮かべ、挨拶を交わした。
「ごきげんよう、ファルゲル公爵様。私はルシラ。あなたを愛するために、ここまでやってまいりました」




