破滅の「干犯」を拒絶せよ
昭和五年(一九三〇年)四月。
イギリス・ロンドンにて、世界を二分する海軍軍縮会議の幕が閉じた。
俺が事前に山本五十六少将へ下した「航空主兵への転換」という密命。
そして、それに伴う財政的・技術的バックアップの約束は、ロンドンの交渉団に強い自信を与えていた。日本側は、戦艦や補助艦の保有量を一部譲歩する代わりに、米英から「航空母艦の建造枠維持」と「経済的制裁の解除」という実利をもぎ取った。
そして四月二十二日、ロンドン海軍軍縮条約は正式に調印された。
御所の執務室で、俺は新聞の号外を睨みつけていた。史実を知る俺の身体に、緊張の汗が流れる。
条約調印の報が日本に届いた瞬間、国内の空気は一変した。
海軍内の強硬派である「艦隊派」や、野党・政友会の政治家、そして右翼団体が一斉に牙を剥いたのだ。
彼らが掲げた大義名分は、悪名高き『統帥権干犯』。
「軍令部(軍の作戦を立てる機関)の反対を押し切って、政府が勝手に兵力量を定めた条約を結ぶのは、天皇の軍隊指揮権(統帥権)を侵す憲法違反だ」という屁理屈である。
(この『統帥権干犯』というおもちゃを軍部に与えたことこそが、のちに政府のコントロールを完全に失わせ、国を戦争へと引きずり込んだ最大の原因だ。……絶対に、認めん)
「陛下! 浜口首相らの独断による条約調印は、陛下の神聖なる統帥権を侵す暴挙にございます! 直ちに条約の批准を拒絶し、浜口内閣を更せて更迭されるべきです!」
宮中会議の席上、そう言って青筋を立てて俺に迫り声を荒らげたのは、枢密院議長の倉富勇三郎だった。
その背後には、条約反対を叫び、軍令部を煽り立てていた海軍艦隊派の重鎮たちがずらりと控えている。
軍令部長の加藤寛治大将。
さらに、かつて日露戦争で名声を馳せ、いまや艦隊派の精神的支柱として絶対的な影響力を持つ東郷平八郎元帥。
彼らは、天皇の「権威」を自分たちの都合のいい武器として利用しようとしていた。
史実の若き昭和天皇は、これに対して不快感を示しながらも、立憲君主としての立場を守るために沈黙を選び、結果として政治的泥沼化を許してしまった。
だが、俺は現代の歴史知識と、この国のトップとしての「聖断」の使い方を知っている。
「――加藤。そして東郷の爺。お前たちは、私の名前を語って、国を滅ぼす気か」
俺の低く冷徹な声が、会議室の重苦しい空気を一瞬で切り裂いた。
加藤寛治が弾かれたように顔を上げ、東郷平八郎がわずかに眉をひそめる。
「陛下……? それはいかなる……」
「統帥権とは、国家の生存と国民の安全を守るために私に託されたものだ。加藤、お前たち軍令部が、米英との全面戦争に突入しかねない無謀な軍拡を主張することの、どこに合理性がある?」
俺は立ち上がり、海軍の将星たちを眼鏡の奥の鋭い眼光で見据えた。
「世界恐慌の今、これ以上の軍拡は国家財政を破綻させ、国民を餓死させる。国民が飢え、国力が衰えれば、いかに立派な戦艦があろうとも戦う前に自滅する。これからの戦いは、物量と、科学技術と、経済の総力戦だ。これらを総合的に判断し、条約を結んだ浜口の決定は、私の意志そのものである」
加藤寛治が、悔しさに顔を歪めながら反論した。
「し、しかし、軍令部の同意なき調印は不当であります! 帝国海軍の誇りと防衛力が、米英の陰謀によって削がれるのですぞ!」
「黙れ!不当なのはお前たちだ!」
俺はデスクを強く叩いた。その衝撃音が部屋に響き渡る。
「私の軍隊を、私自身の意志に反して暴走させる口実に『統帥権』という言葉を使うな。加藤、これ以上の利己的な反発は、私に対する『反逆』とみなす。東郷もだ。過去の栄光にすがり、未来の日本の若者を無駄死にさせるような真似は、この私が許さん。条約は、私が責任を持って即座に批准する。文句がある者は、今すぐ軍籍を返上して去れ」
「反逆」という絶対的な一言。
そして、誰も逆らえない聖なる存在であった東郷平八郎への、真っ向からの拒絶。
天皇自らが「条約調印は私の意志だ」と明言し、海軍艦隊派の屁理屈を完膚なきまでに叩き潰したのだ。
部屋を支配したのは、圧倒的な沈黙だった。
加藤寛治は全身を震わせ、東郷平八郎は深く、深く頭を垂れるしかなかった。
数日後、俺はロンドン海軍軍縮条約を正式に批准した。
史実のように、数ヶ月もかけて泥沼の政治闘争が続くことはなかった。
天皇の「超・積極的介入」により、統帥権干犯問題という悪霊は、産声を上げる前に完璧に調伏されたのだ。
「……これで、浜口首相の命も救えたはずだ」
史実では、この条約調印の怨嗟を浴びて、浜口雄幸首相は東京駅で右翼の青年に狙撃され、その傷が元で命を落とす。
しかし、世論の矛先を天皇である俺が「私の意志だ」と引き受け、さらに榊少佐の憲兵網で国内のテロ分子を徹底的に監視させている今、暗殺の隙はどこにもない。
だが、軍部を法と権威で押さえつければ押さえつけるほど、追い詰められた狂信者たちの「最後の暴発」へのエネルギーが溜まっていく。
「陛下、陸軍の若手将校らが、民間の過激派と結託し、お命を狙う不穏な計画を進めているとの情報がございます……」
影のように現れた榊少佐が、静かに報告する。
軍のトップたちを屈服させた俺に対し、ついに「牙」は俺自身の首元へと向けられようとしていた。




