暗躍する桜会
昭和五年(一九三〇年)九月。
ロンドン海軍軍縮条約をめぐる「統帥権干犯問題」を、俺が力づくでねじ伏せてから数ヶ月。
表向きは静穏を取り戻したかのように見える帝都・東京の地下では、おぞましいマグマが煮えたぎっていた。
「宮中のリベラルどもめ……いや、いまや陛下ご自身が、国賊に惑わされているのだ!」
東京・三宅坂の陸軍参謀本部近くにある料亭の一室。畳の上に集まった若手・中堅将校たちの目は、狂気的な怒りに血走っていた。
彼らの名は『桜会』。
史実において、この年の九月に陸軍の橋本欣五郎中佐らを中心に結成された、国家改造を企む秘密結社である。
史実の彼らは、翌昭和六年に「三月事件」「十月事件」という未遂クーデターを起こし、軍部独裁政権の樹立を画策した。
しかしこの世界では、その動きが完全に前倒しされていた。
満州で河本大作らが一網打尽にされ、海軍では東郷平八郎すら天皇に一喝された。
既存のやり方では日本が「牙を抜かれた国」になってしまうという焦燥感が、彼らをより過激な、直接暴力へと駆り立てていたのだ。
「張作霖を殺せず、軍縮条約は結ばれた。最早、猶予はない」
上座に座る橋本欣五郎が、拳を机に叩きつけた。
「現状の生ぬるい政府を爆破し、戒厳令を敷く。……そして、宮中の国賊どもを排除し、陛下に『真の国家改造』を迫るのだ」
「橋本中佐、しかし陛下ご自身が条約を強く推進されている。もし、陛下が我らの要求を拒まれたら……?」
一人の将校の問いに、部屋が一瞬、静まり返る。
橋本は冷酷な笑みを浮かべ、声を潜めた。
「その時は……不本意ながら、大義のために『御首』を挿げ替えるまでだ。秩父宮殿下をお立てする」
それは、紛れもない大逆罪――天皇暗殺、あるいは廃位の陰謀だった。
同夜、吹上御所の執務室。
「――やはり、動き出しましたか」
俺は、影のように控える憲兵少佐・榊から提出された報告書をめくっていた。
そこには『桜会』の結成メンバーと、彼らが密かに調達している火薬や武器のリストが克明に記されている。
「首謀者は参謀本部の橋本欣五郎中佐。さらにロシア班の過激派将校たちが同調しています。彼らは民間の右翼活動家、大川周明らと結託し、近く首相官邸と我が御所を襲撃する計画を進めている模様です」
榊の報告を聞きながら、俺は冷たい怒りを感じていた。
大日本帝国の軍人は、天皇への絶対の忠誠を誓っているはずだ。
しかしその実態は、自分たちの思想(軍部独走・ファシズム)に天皇が従わないと分かれば、平気でその首を狙う狂信者たちだった。
「民間人を巻き込んだ大規模なテロか。史実の『三月事件』を、より凶悪にして仕掛けてくるつもりだな」
「陛下、ただちに憲兵隊を動かし、橋本らを拘束いたしますか?」
榊の具申に、俺は少し考えてから首を振った。
「いや、まだ泳がせろ。今捕らえても、陸軍内部の同調者たちが『若き愛国将校が無実の罪で弾圧された』と騒ぎ立て、地下に潜るだけだ。彼らが実際に武器を手に取り、言い逃れの計画書を完成させるその瞬間――『現行犯』でなければ意味がない」
俺は立ち上がり、窓の外の暗闇を見つめた。
「榊、宮中や政府の守りを固めろ。特に、浜口の警護は通常の三倍にせよ。彼らは必ず、東京駅や官邸で浜口を狙う。そして陸軍の良識派、永田鉄山らにも、この情報を極秘裏に共有しておけ。陸軍の手で陸軍の反逆者を裁かせる土台を作るのだ」
「ハッ。……陛下、御自身のお命も危険にさらされます。どうか、御無理はなさらないでください」
榊の痛切な言葉に、俺は自嘲気味に笑った。
「現代の知識を持ってここに転生した時から、私の命などおまけのようなものだ。数千万の国民が焼け野原で死ぬ歴史を変えられるなら、いくらでも賭けてやるさ」
眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、俺は机の上の桜会の名簿に、赤いペンで大きく×印をつけた。
「橋本欣五郎、お前たちの『桜』、咲く前にすべて散らせてやる」
狂信の徒によるクーデターの足音が、帝都の夜に響き始めていた。
日本の運命をかけた、法と暴力の裏の戦いが始まろうとしていた。
榊さんは転生した事を知っています。




