海からの来訪者、航空主兵への転換
昭和五年(一九三〇年)一月。
満州の不穏分子を一網打尽にした「皇姑屯事件の早期鎮圧」と、主犯たちの軍法会議による厳罰処分は、陸軍の鼻柱を完全にへし折った。
だが、歴史の波は休むことを知らない。
次なる激動の舞台は「海」だった。
この年、世界は「ロンドン海軍軍縮条約」の締結を巡り、激しい外交戦を展開していた。
史実の日本海軍は、対米7割の補助艦保有率を求めるも、米英の圧力により一部妥協して調印。
これが国内で「天皇の統帥権を侵した」とする『統帥権干犯問題』へ発展し、首相が暴漢に襲撃されるなど、国内が右傾化する決定的な引き金となった。
その嵐の前夜。俺は御所の奥深い一室で、一人の海軍少将と対峙していた。
丸刈りの頭に、引き締まった頑強な体躯。左手の薬指と小指がない。
後の連合艦隊司令長官――山本五十六である。
現在は、ロンドン軍縮会議の次席随員として、まさに英国へ赴く直前だった。
「面を上げよ、山本」
「はっ。……陛下におかれましては、このたびの陸軍の不祥事における迅速なる御聖断、帝国海軍を代表し、心より敬服の至りにございます」
山本は頭を下げたが、その声には海軍内部の「条約反対派(艦隊派)」との板挟みによる、深い苦悩が滲んでいた。
(分かっているさ、山本。お前は条約締結に賛成する『条約派』として、これから海軍内の狂信者たちから命を狙われることになる)
「山本。お前に、これからの世界の『形』を話しておこうと思う」
俺は眼鏡の奥の目を静かに細め、現代の軍事知識という名のチートを発動させた。
「ロンドンでの交渉、海軍内には『対米7割』を死守できねば国難が訪れると騒ぐ者が多い。……だが、私はそうは思わん。これからの戦争の主役は、戦艦ではない。――『航空機』だ」
山本が、ハッと目を見開いた。
この時代の海軍の主流は、未だに巨大な戦艦同士が大砲を撃ち合う「大艦巨砲主義」だ。
山本自身は航空機の有効性を早くから説いていた一人だが、天皇の口からその言葉が出るとは夢にも思っていなかったのだ。
「戦艦を何隻並べようが、空からの爆撃と魚雷の前に、巨大な鉄の塊はただの標的と化す。
山本、お前の見識は正しい。
日本が取るべき道は、無駄な戦艦の建造競争で国力をすり減らすことではない。
軍縮条約に大人しく調印し、余った予算と資材をすべて『航空技術の発展』と『航空母艦(空母)の建造』、そして『無線・電波探知』の研究に注ぎ込むことだ」
「電波……探知、にございますか?」
「そうだ。暗闇や霧の中でも、敵の航空機や艦船の動きを察知する技術だ。これがなければ、どれほど優秀な兵器があろうと目隠しで戦うようなものだ。さらに、航空機のエンジン開発のため、民間企業にも潤沢な補助金を出すよう、すでに浜口首相と井上蔵相には話を通してある」
圧倒的な未来の予言。
マレー沖海戦での航空機による戦艦撃沈、そしてミッドウェー海戦での空母戦――それらすべてを「知っている」俺の言葉は、山本の魂を激しく揺さぶった。
「陛下……。そこまで、未来の戦の形を見通していらっしゃったとは……。この山本、不明を恥じるばかりにございます」
山本の目に、これまでにない鋭い光が宿った。
彼は海軍内の反対派を抑え込むための「理論」と「大義名分」を、天皇自身から授かったのだ。
「海軍内の強硬派が『統帥権干犯』などと騒ぎ立てるなら、私が直接、条約を裁可する。軍令部の一部の暴走で、国交を断絶させてたまるか。山本、お前はロンドンで、米英と堂々と渡り合ってこい。日本は戦争をしない。経済と技術で、世界のトップに立つ。それが私の願いだ」
「……御意にございます!」
山本五十六は、畳に拳を突き、涙を流さんばかりの勢いで平伏した。
彼の中にあった「戦争への恐怖」は消え去り、「科学技術による防衛」という新たな確信へと変わっていた。
彼が退室した後、俺は一人、静かに微笑んだ。これで山本五十六という不世出の傑作を、完全に味方に引き入れた。海軍の暴走ルートも、これで大きく軌道修正されるはずだ。
しかし、歴史の修正力は凄まじい。
陸と海、両方の強硬派を抑え込んだことで、彼らの怨嗟の矛先は、ついに宮中へと向かい始め。
昭和の闇は、さらに深く、静かに蠢動していた。




