閑話:吹上御所の密談
榊少佐はオリジナル人物です。
東京に冷たい霙が降り注ぐ、昭和四年(一九二九年)十一月の深夜。
一般の立ち入りが厳しく制限された吹上御所の一室で、俺は一人の若き憲兵少佐と対峙していた。
男の名は榊。
史実の歴史表舞台には名が残っていない、地方の憲兵隊から俺が直接抜擢した男だ。
身元が確かで、何より「軍の派閥」に染まっていない実直さと、高い知性を備えていた。
「榊、急に呼び出してすまないな。寒かったろう」
「滅相もございません。陛下におかれましては、夜更けまで政務に追われ、御身お労しゅう存じます」
直立不動の姿勢から深々と頭を下げる榊に、俺は手元の温かい茶を勧めた。
「楽にしてくれ。今夜は公式の場ではない。……榊、お前に、命を懸けてもらう任務がある。他言は一切無用、陸軍大臣にも参謀総長にも、絶対に知られてはならん」
部屋の温度が一段下がったかのように、榊の身体が緊張で強張る。
「はっ……。この榊、命などとうに陛下に捧げております。いかなる密命にございましょうか」
俺はデスクの引き出しから、一通の極秘書類を取り出した。
そこには、満州の皇姑屯の精緻な地図、そして河本大作、東宮鐵男といった、爆殺計画の主謀者と実行犯の「名前」「階級」「当日の配置予測」が狂いなく書き込まれていた。
「これを、見よ」
榊が書類に目を落とした瞬間、その眼の奥に戦慄が走った。
「これは……関東軍の……。陛下、なぜこれほどの機密を……? まさか、宮中の中にまで関東軍の逆スパイが?」
「スパイなど居らぬ」
俺は静かに首を振った。現代の歴史オタクの記憶。
それを神の予言のように語るしかない。
「彼らは数日後、満州の支配者・張作霖氏を列車ごと爆殺しようとしている。現地軍の独断専行だ。もしこれが実行されれば、日本は世界中からテロ国家と見なされ、米国との貿易が途絶える。我が国の原油と鉄鋼の供給は、数ヶ月で干上がるだろう」
俺は、現代の経済・兵站の概念を、榊にも分かりやすい言葉で丁寧に説いた。
精神論ではない、圧倒的な物量のリアリズムだ。
「榊。私はこの国を、焼け野原にしたくないのだ」
その言葉には、未来の東京大空襲や原爆の惨禍を知る俺の、魂の叫びが混ざっていた。
榊は息を呑み、俺の眼鏡の奥にある「すべてを見通しているかのような眼」をじっと見つめた。
彼は、この若き天皇が単なる君主ではなく、国家の破滅の未来を孤独に幻視し、それに一人で立ち向かおうとしているのだと直感した。
「……陛下。現地には、奈良武次武官長の手配で、表向きは『軍紀査察』として憲兵隊が派遣されることになっております。しかし、関東軍の妨害が予想されます」
「だからこそ、お前をその憲兵隊の『実質的な指揮官』として送り込む」
俺は榊の肩に、そっと手を置いた。
「現地に着いたら、爆薬の信管を直前で抜け。
そして、このリストに載っている七人を、現行犯として一網打尽に逮捕するのだ。関東軍が暴動を起こそうとすれば、私の『勅使』の権威を突きつけろ。法の裁きから、彼らを絶対に逃すな」
榊の目に、迷いはなかった。
彼は深く、床に頭がつくほどに平伏した。
「御意にございます。この榊、陛下の視ておられる『平和なる日本の未来』のため、この命、喜んで満州の地へ捨ててまいります」
「死ぬな、榊。生きて戻り、私に報告せよ。……頼んだぞ」
「はっ……!」
数日後、榊は満州へ飛び、完璧な手際で河本大作らの息の根を止める「現行犯逮捕」を成し遂げることになる。
取調室で河本大作を冷たく見下ろした榊の眼光には、あの夜、吹上御所で若き天皇から授けられた「未来への覚悟」が、そのまま宿っていたのだった。




