閑話:満州に消えた信管
東京の軍法会議で、河本大作らに無期懲役の判決が下る数日前のこと。
満州・奉天の憲兵隊司令部の一室には、重苦しい沈黙が流れていた。
取調室の椅子に深く腰掛けた河本大作は、手錠のはめられた両手を机の上に投げ出し、いまだに信じられないという風に首を振った。
その対面に座るのは、東京から「緊急査察」の名目で乗り込んできた、侍従武官長・奈良武次直属の密使――若き憲兵少佐、榊だった。
「……どうしても分からん」
河本が、嗄れた声で呟いた。
「我々の計画は完璧だったはずだ。張作霖の列車の運行ダイヤ、皇姑屯の十字路に仕掛けた火薬の量、工兵たちの配置。すべて身内で固め、政府にも、陸軍省の本省にすら漏らしてはいなかった。……なぜ、筒抜けだった?」
榊少佐は表情を変えず、手元の書類に目を落としたままだ。
「お前たちが『完璧』だと思っている時点で、すでに敗北していたのだ、河本」
「何だと?」
「お前たちは、満州の利権という目先の果実しか見ていない。だが、上におわすお方は、この国が歩む『数十年先』の未来を見ておられる」
榊の言葉に、河本は鼻で笑った。
「御上のことか? 宮中のリベラルどもに囲まれ、学問ばかりされている若き陛下に、この満州の泥臭い政情の何が分かるというのだ。満州は日本の生命線だ! 張を消し、我が軍が満州を直接支配下に置かねば、いずれ日本は干上がる!」
榊は静かに立ち上がり、河本の前に一枚の地図を広げた。
それは、河本たちが作戦立案に使ったものとは全く異なる、奇妙な地図だった。
そこには、満州の鉄道網だけでなく、日本本土の「原油備蓄量」のグラフや、アメリカ・イギリスからの「鉄鋼輸入ルート」が、緻密な数字と共に赤線でバツ印をつけられていた。
「これは……?」
河本が目を見開く。
「陛下から、我ら密使に直々に下された資料の一部だ。……河本、お前が張作霖を殺害した後、満州を占領したとしよう。その時、激怒した中国世論はどう動く? 排日運動が激化し、国際連盟で日本は孤立する。何より、我が国の最大の資源供給国であるアメリカが、対日感情を悪化させて貿易制限に踏み切る」
榊は、かつて執務室で若き天皇から直接聞かされた言葉を、そのまま河本に叩きつけた。
「我が国の原油自給率は一割にも満たない。アメリカに蛇口を閉められた瞬間、連合艦隊も、お前たちの自慢の関東軍も、数ヶ月でただの鉄屑になる。精神論で戦争はできん。兵站を無視したお前たちの愛国心は、ただの『自滅への特攻』だ」
「そんなもの絵空事だ! アメリカがそんなすぐに動くわけが……!」
「動くのだよ。数年後、あるいは十年後に、確実に」榊の目は、まるで未来を予言されたかのような絶対的な確信に満ちていた。河本は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
目の前の憲兵少佐が言っているのではない。
その背後にいる「若き天皇」が、すべてを計算し尽くした上で、自分たちの首を絞めに来たのだと理解したからだ。
「……まさか、皇姑屯の爆薬を直前で外したのも、すべて計算の上か」
河本が、震える声で尋ねた。
史実では、東宮鐵男大尉らが仕掛けた数百キロの黄色火薬が、張作霖の列車を木端微塵に吹き飛ばした。
しかしこの世界では、列車が通過するわずか一時間前、奈良武官長の手配した憲兵隊が現場を包囲し、信管を抜いた。
それだけでなく、身柄を拘束された工作員たちは、誰一人として抵抗できなかった。
なぜなら、憲兵隊は工作員たちの「名前」も「配置」も、すべて事前に把握していたからだ。
「陛下は仰せられた。『河本らは優秀な軍人だが、大局を見る眼がない。ここで彼らを処断することは、彼らの命を救い、ひいては数千万の同胞の命を救うことになる』とな」
榊は書類を閉じ、部屋の出口へ向かった。
「貴様たちは監獄の中で、これからの日本を見守るがいい。お前たちが力ずくで奪おうとした満州を、陛下がいかに『別の方法』で、血を流さずに日本の血肉に変えていくかをな」
ガチャン、と重い鉄の扉が閉まり、河本は再び暗闇に取り残された。
彼らが「国家のため」と信じて疑わなかった謀略は、現代の記憶を持つ一人の男によって、発生する前に完璧に無力化された。
満州の夜空に響くはずだった爆音は消え去り、歴史は、誰も見たことのない未知の軌道へと、静かに回り始めていた。




