白昼の爆破を阻止せよ
昭和四年(一九二九年)十一月。
世界恐慌への迅速な経済対策を大蔵省に指示した俺は、休む間もなく次の、そしてより巨大な歴史の分岐点に立ち向かっていた。
(満州の覇者・張作霖が、関東軍に爆殺される。史実では去年の昭和三年六月に起きているはずの事件だ……!)
そう、この世界線では、歴史の歯車がわずかにズレていた。
史実の昭和三年、満州の支配者である中国の軍閥・張作霖が乗った列車が、関東軍の高級参謀・河本大作大佐らの陰謀によって爆破された(張作霖爆殺事件)。
しかしこの世界では、張作霖が北京から満州へ退くタイミングが、政情の複雑化により一年半近く遅れ、まさに「今」になろうとしていた。
史実において、この事件は日本の運命を決定づけた最悪の転換点だ。
現地軍(関東軍)が政府の指示を無視して外国の要人を暗殺するという、前代未聞の暴走。
さらに時の首相・田中義一は、犯人を処罰すると昭和天皇に約束しながら、陸軍の反対に屈してうやむやにした。
これに激怒した天皇が「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と田中を強く叱責し、内閣総辞職に追い込んだのだ。
この一件で「自分の発言が政治的混乱を招いた」と悔いた天皇は、これ以降、軍部の暴走に対しても沈黙を貫くようになってしまう。
(軍部の独走癖は、ここから始まった。そして天皇の沈黙もここからだ。なら、答えは一つ。爆殺事件そのものを、発生前に完全に叩き潰す!)
だが、東京の御所にいる俺が、どうやって遥か彼方の満州・奉天での暗殺計画を止めるのか。
直接「河本大作を逮捕しろ」などと言えば、なぜ未来の陰謀を知っているのかと怪しまれ、軍部に警戒される。「……搦手で行くしかないな」
俺は、参謀本部や陸軍省の息がかかっていない、直属の最も信頼できる軍人を呼び出した。
侍従武官長、奈良武次陸軍大将だ。
彼は実直で、天皇への忠誠心が篤く、かつてパリ講和会議の全権随員も務めた国際感覚のある男だった。
「武官長。折り入って、誰にも漏らさずに動いてほしい任務がある。これは国家の命運に関わることだ」
「はっ。陛下、いかなる御用でしょうか。この奈良、いかなる命にも従う覚悟にございます」
奈良武次は直立不動の姿勢で、眼鏡の奥の鋭い目で俺を見つめた。
「我が国の関東軍の一部に、不穏な動きがあるとの情報が、信頼できる筋から入った。奉天近郊の京奉線と満鉄線が交差する皇姑屯付近だ。ここに、陸軍の工兵部隊が大量の黄色火薬を運び込んでいる形跡がある」
「なっ……! まさか、現地軍が独断で何かを企てていると?」
「張作霖氏が近々、列車で奉天に戻る。そのタイミングを狙った暗殺計画の疑いがある。もしこれが実行されれば、満州は火の海になり、我が国は国際社会での信用を完全に失うだろう。それは、大日本帝国の破滅の始まりだ」
俺は静かに、しかし冷徹な声で告げた。
「武官長、直ちに現地へ、私の『勅使』として信頼できる憲兵将校を派遣せよ。大義名分は『満州における軍紀の緊急査察』だ。そして、皇姑屯の交差点周辺の警備を、関東軍ではなく『満鉄公社の警備隊』と『憲兵隊』に直前で切り替えさせよ。河本大佐の動きは、査察の名目で完全に監視下に置くのだ」
天皇の代理である「勅使」の権威は絶対だ。
いかに暴走気味の関東軍といえど、陛下の名代たる勅使の前で公然と爆弾を仕掛けることはできない。
奈良武次は、背筋を凍らせながらも、事態の深刻さを理解して深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ただちに、信頼のおける憲兵を募り、極秘裏に満州へ飛ばします。陛下の仰る通り、軍の独走など、断じて許してはなりません」
数日後。運命の日が訪れた。史実で張作霖の列車が木端微塵に吹き飛んだ、まさにその時刻。
俺は執務室で時計を見つめていた。
手汗でデスクの書類が少し湿る。誰もいない部屋で、心臓の音がうるさいほど響いていた。
チクタクと針が刻み、運命の時間を通り過ぎる。――ガサリ、とドアが開いた。
奈良武次が息を切らせて入ってくる。
その手には電報が握られていた。
「陛下! 奉天より緊急電報にございます! ……張作霖の列車、無事に関東軍の管轄区域を通過。奉天駅へ無傷で到着いたしました!」
「……そうか」
俺は、深く、深く息を吐き出した。
椅子の背もたれに体重を預ける。
「現地からの報告によれば、やはり皇姑屯の鉄道橋に、大量の爆薬が仕掛けられていたとのこと。奈良武官長の手配した憲兵隊の臨検により、仕掛けようとしていた現地工作員をその場で拘束いたしました。首謀者は、陸軍の河本大作大佐にございます……!」
奈良の声は震えていた。もし天皇の予知とも言える警告がなければ、今頃世界を揺るがす大事件が起きていたのだから。
「河本、および関係者を即座に東京へ連行せよ。これは軍法会議だ。陸軍の身内での処分は許さん。国家反逆罪、および独断専行の罪で、厳罰に処す」
史実では「うやむや」にされ、軍部の勝ち抜けを許した事件。
それを、俺は発生前に阻止し、さらに首謀者を「現行犯」として捕らえたのだ。
これで陸軍の強硬派は、大きな後ろ盾と計画を失い、大打撃を受けることになる。
何より、「天皇の目は、満州の闇の奥まで見通している」という恐怖を、軍部全体に植え付けることに成功した。
「一つ目の巨大なドミノは、倒させなかったぞ……」
窓の外の青空を見上げながら、俺は小さく呟いた。
だが、これで終わりではない。テロと暴走の芽を摘んだということは、彼らがさらに陰湿な、あるいはより大規模な反撃を企てる可能性を示していた。
次なる闘いは、国内の不満分子によるクーデターの芽。
昭和史最大の悲劇、『二・二六事件』の足音が、少しずつ形を変えて近づいてこようとしていた。




