世界恐慌の直撃
昭和四年(一九二九年)十月。
朕がこの激動の時代に転生し、若き日の昭和天皇――裕仁となってから、数ヶ月が経っていた。
宮中での立ち振る舞いや、大日本帝国憲法下における天皇の「不言の原則(政治に直接介入しない事)」にようやく慣れてきた頃、恐れていた「その日」がやってくる。
十月二十四日。
米国ニューヨークのウォール街で株価が大暴落した。
俗に言う『暗黒の木曜日』――世界恐慌の始まりである。
「陛下、一大事にございます。米国発の株価暴落の波が、我が国の市場にも直撃いたしました」
御所の執務室。大蔵大臣の井上準之助が、青ざめた顔で上奏に訪れていた。
史実における井上は、財政の緊縮と「金解禁(国際的な金本位制への復帰)」を推し進め、結果として日本経済をどん底のデフレ(昭和恐慌)へと叩き落としてしまう人物だ。
「……そうか。米国市場の崩壊か」
俺は眼鏡の奥の目を静かに細め、現代の歴史オタク……いや、経済知識の記憶をフル回転させた。
史実の日本は、この世界恐慌の最中に最悪のタイミングで「金解禁」を行い、デフレを悪化させた。
農村は困窮して娘身売りが相次ぎ、国民の不満は爆発。その行き場のない怒りが「既得権益の既成政党」や「理詰めの官僚」に向かい、軍部の「力による満州進出」という暴走を熱烈に支持する土壌を作ってしまったのだ。
(経済の崩壊こそが、軍部台頭の引き金だ。ここで日本を救わなければ、確実にあの敗戦ルートへ直進する!)
「大蔵大臣。米国はこれより、長い大不況の時代に入る。我が国が取るべき道は、緊縮ではない」
「は……? しかし陛下、我が国は国際信用を取り戻すため、旧平価での金解禁を断行し、財政を引き締める緊縮財政を行う必要が……」
教科書通りの古典派経済学を語る井上に対し、俺は現代の経済学――まだこの時代には確立されていない『ケインズ経済学』、そして後に米国を救う『ニューディール政策』の概念を突きつけることにした。
「世界中が不況でモノを買わなくなるのだ。そこで我が国まで財布の紐を締めれば、国内の需要は完全に冷え込み、中小企業は連鎖倒産し、農村は飢える。今、国がすべきは逆だ」
「逆、にございますか……?」
「国債を発行し、その資金を大規模な公共事業に投入する。失業者に仕事を与え、国民の懐を温め、国内の需要を無理やりにでも創出するのだ。さらに金解禁は無期延期。むしろ為替を円安へ誘導し、アジア圏への輸出を底上げせよ」
井上は絶句した。当時としてはあまりに異端、かつ大胆な積極財政(リフレ政策)。
史実では、井上の後に大蔵大臣となる高橋是清が数年後に命がけで行う「高橋財政」の先取りである。
「し、しかし陛下、そのような国債乱発は、急激なインフレと財政赤字を招く恐れが……!」
「インフレを恐れて国を滅ぼすか? 物価が上がるのと、国民が餓死するのと、どちらが罪深いと思うのだ。これは『戦争』だ。目に見えない経済という敵とのな」
俺はデスクを軽く叩き、圧倒的な未来のディテールを語り出した。
「米国はいずれ、保護貿易に舵を切り、自国の経済圏(ブロック経済)に引きこもる。英仏も同様だ。持たざる国である我が国が生き残るには、国内市場の保護と、積極的な国家主導の景気刺激策しかない。井上、お前の命を救うためでもある。私の言葉を、よく噛み締めよ」
(史実でお前は、この恐慌の怨嗟を一身に浴びて、後に右翼テロの凶刃に倒れるんだ。ここで政策を変えれば、お前の未来も変わる)
天皇がここまで具体的な経済政策に口を出すのは、憲法違反の瀬戸際だ。
だが、最高権力者である天皇からの「強い示唆」を受けた井上は、その迫力に圧され、深く頭を下げるしかなかった。
「……陛下の深遠なるご洞察、恐れ入ります。ただちに、省内で再検討に入ります」
井上が退出した後、俺は一人、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「ふう……。まずは第一歩、か」
これで史実の「昭和恐慌」は回避の方向へ動き出すはずだ。だが、経済を救うだけでは足りない。
経済が安定すれば、今度は利権を失うことを恐れる陸軍の強硬派が、別の理由をつけて暴走を始めるだろう。
窓の外に広がる、まだ穏やかな東京の街を見つめる。
俺の、歴史の急流をせき止めるための孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。




