プロローグ:運命の聖断
「――陛下。畏れながら、陸軍の暴走、もはや限界にございます」
重苦しい空気の満ちた御所の執務室。
御簾の向こうで深々と頭を下げる男の声を、俺はどこか他人事のように聞いていた。
(……いや、待て。陛下って誰だ?)
頭が割れるように痛い。
さっきまで、俺は現代の自室で歴史の資料を広げていたはずだった。
昭和初期の政治外交、二・二六事件の首謀者リスト、そして太平洋戦争へ至る物資のシミュレーションデータ。
それがどうして、こんな重厚な木製デスクの前に座っているのか。
視線を落とすと、自分の手が見えた。
白手袋に包まれた、若く、しかしどこか気品のある手。
胸元を見れば、金色のモールが施された見慣れない軍服を着ている。
嫌な汗が背中を伝う。
恐る恐る、デスクの隅にある小さな手鏡を覗き込んだ。
「……っ!?」
鏡の中にいたのは、丸眼鏡をかけた若き日の昭和天皇――裕仁の姿だった。
(まさか……俺が、昭和天皇に転生したっていうのか!?)
背筋に電撃のような衝撃が走る。
歴史オタクだった俺には、この状況が持つ「最悪の意味」が瞬時に理解できた。
これから日本が歩むのは、破滅へのカウントダウンだ。
世界恐慌の直撃。
関東軍の独走による満州事変。
血で血を洗うクーデター。
そして、泥沼の支那事変から、国力が数十倍も違うアメリカとの無謀な戦争――。
その果てに待っているのは、原爆の炎と、焼け野原になった東京だ。
「陛下、いかがなされましたか? お顔色が優れないようですが……」
側近の心配そうな声に、俺はハッと我に返った。
(落ち着け。パニックになったら終わりだ)
大日本帝国憲法下において、天皇は神聖不可侵の「現人神」であり、軍の最高指揮官たる「統帥権」を持つ。
だが、その実態は独裁者ではない。
政府や軍部が決定した方針を、ただ形式的に「裁可(承認)」するのが役割だ。
もし天皇が自分の意志で政治を動かそうとすれば、たちまち「君側の姦(天皇を惑わす悪人)」の排除を大義名分とした、軍部によるクーデターが起きる。
つまり、力任せに歴史は変えられない。
誰も味方がいない、張り巡らされた謀略の糸の中で、俺は立ち回らなければならないのだ。
だが――俺には武器がある。
これからこの国で誰が裏切り、どの作戦が失敗し、どうすれば国が滅びるかという「未来の記憶」だ。
「……何でもない。ただ、少し考え事をしていただけだ」
俺は、自分のものとは思えないほど静かで、凛とした声を出した。
「もう一度、先ほどの陸軍の上奏について聞こう。彼らは『満州の権益は日本の生命線』だと言ったな?」
「はっ……。満州を確保せねば、我が国の経済は立ち行かなくなると」
側近の言葉に、俺はデスクの上のペンを静かに握りしめる。
(いいだろう。生命線だの精神論だの、そんな曖昧な言葉で国を滅ぼされてたまるか)
歴史の歯車を、今ここで狂わせてやる。
数千万の同胞を、そしてこの国を、絶対にあの焼け野原の未来へ連れて行きはしない。
「陸軍に伝えよ。満州の確保に必要な兵站と、それに伴う国際連盟、特に米国との貿易摩擦が起きた際の『原油・鉄鋼の備蓄シミュレーション』を、詳細な資料として明日までに提出せよ、とな」
「え……資料、にございますか?」
面食らう側近を、俺は眼鏡の奥の鋭い眼光で見据えた。
「精神だけでは動かん。戦争とは、物流だ。数字の裏付けのない作戦など、朕は裁可せん」
これが、俺の最初の戦いだった。
歴史の闇に抗い、日本の運命を塗り替えるための、孤独な聖断が今、始まる。




