学問の自由、白亜の砦を守れ
昭和八年(一九三三年)五月。国際連盟総会での『42対0』という圧倒的な外交的勝利から一年。
日本は世界恐慌を最速で脱出し、未曾有の好景気に沸いていた。
しかし、軍部の物理的なテロを完封した俺の前に、今度は思想の画一化を狙う「右派官僚」という別の歪みが現れる。
経済アナリストの俺の脳裏に、昭和八年の不吉な事件が浮かんでいた。
『滝川事件(京大事件)』。
京都帝国大学の滝川幸辰教授の刑法理論が「赤化(共産主義)思想」であると、文部大臣の鳩山一郎や右派マスコミ、貴族院の強硬派が狂信的に糾弾した事件だ。
史実では政府が大学の自治を蹂躙して滝川教授を強制休職に追い込み、これに抗議した法学部の全教官が辞表を提出。
日本の最高学府から「学問の自由」と「批判的知性」が死に絶え、軍国主義へ傾倒する決定的な引き金となった。
(知識を画一化された国に、未来の科学技術イノベーションなど起きるはずがない。学問の自由を殺させはしない!)
「閣下、文部省の鳩山大臣が、滝川教授の罷免を強硬に主張し、京都帝大の小西総長に圧力をかけております」
影から現れた榊少佐の報告に、俺は冷徹に頷いた。
「鳩山か。彼は平沼騏一郎ら国本流の右派世論に背中を押されている。……永田、そして犬養首相を呼べ」
五月二十五日、御所の執務室。
俺は文部大臣・鳩山一郎、そして犬養毅首相を前にしていた。
史実で命を救われた犬養首相は、リベラルな政治家としてこの思想弾圧に内心反対していたが、議会や貴族院の右派の突き上げに苦慮していた。
「陛下! 滝川の理論は、犯罪の原因を社会の構造にあるとするマルクス主義的性質を孕んでおります! 帝国の最高学府にこのような赤化の種を放置すれば、国体が揺らぎかねません!」
鳩山一郎が、自らの正義を信じて疑わぬ目でおろそかにも俺に上奏した。
俺は玉座に深く腰掛け、現代の高度な法解釈と、歴史のリアリズムを突きつけた。
「鳩山よ。お前は刑法学における『近代学派(犯罪原因説)』の本質を理解しているのか?」
「え……? それは、社会の欠陥を突く危険な思想で……」
「愚か者」
俺の低く鋭い声が、執務室の空気を凍りつかせた。
「犯罪を単なる個人の悪とせず、社会的な要因や環境から分析することは、現代の効率的な治安維持と、犯罪抑止に不可欠な『科学』だ。滝川の理論は共産主義のプロパガンダではない。むしろ、社会の歪みを事前に修正し、国家を安定させるためのリフレクション(反省)の知恵だ。これをお前たちは『赤』の一言で片付け、優秀な頭脳を排除しようとしている」
俺は立ち上がり、鳩山を眼鏡の奥の鋭い眼光で見据えた。
「お前たちがやろうとしている大学への政治介入は、日本の知的国力を自ら削ぎ落とす売国行為だ。これからの日本は、科学技術と経済で世界をリードせねばならん。未知の領域を切り拓くには、多様な視点と、権力に屈しない批判的知性が必要なのだ。全員が同じ方向しか向けぬ羊のような国に、革新など起きると思うか?」
「か、革新……? しかし、議会や貴族院の保守派の反発が……」
鳩山が気圧されて声を震わせる。
そこで、俺の合図で犬養首相が静かに口を開いた。
「鳩山君。陛下のご指摘はあまりに深遠だ。すでに政府としては、京都帝大の自治を尊重し、文部省の休職勧告は正式に撤回する方針を決定した。不満のある議会の強硬派には、この犬養が責任を持って説明する」
さらに俺は、あらかじめ永田鉄山の手配で、桜会の処分以降「規律の番人」となった陸軍憲兵隊を動かしていた。
滝川教授を「赤」と煽り立てていた右翼団体や一部のマスコミに対し、榊の防諜網が掴んだ「裏の不透明な資金源や恐喝の証拠」を突きつけ、一斉に黙らせたのだ。
数日後、京都帝国大学。史実のような辞職の嵐も、大学の崩壊も起きなかった。
文部省の圧力が完全に撤回された法学部では、滝川幸辰教授が、いつもと変わらぬ毅然とした態度で教壇に立っていた。
「……我々が守り抜いたのは、単なる一つの椅子ではない。国家の権力といえども侵してはならない、人間の知性の尊厳である」
滝川教授の講義に、集まった学生たちから地鳴りのような拍手が巻き起こる。
「学問の自由」の白亜の砦は、天皇である俺の介入によって、無傷のまま死守された。
「見事な差配にございました、陛下」
御所の窓辺で、榊少佐が深く頭を下げた。
「思想の画一化を狙った平沼らの右派勢力は、陛下の『論理と科学の壁』の前に完全に沈黙いたしました。これで、民間の若い頭脳も、萎縮することなく牙を研ぐことができます」
「ああ。これで本当のイノベーションの土壌が完成した」
俺は御所のデスクに広げられた、一枚の「新産業計画書」に目を落とした。内憂外患を消し去り、国内の知性(学問の自由)をも守り抜いた大日本帝国。




