桜田門の弾道、歴史の修正力を撃て
昭和七年(一九三二)一月八日。新年を迎えた帝都・東京は、粉雪が舞う凍てつくような寒さに包まれていた。
『桜会』のクーデターを電撃的に鎮圧し、軍部の暴走の芽を摘んでから約一年半。
日本経済は、俺が授けた「ケインズ的積極財政」の先取りによって、世界恐慌のどん底から世界最速で脱出しつつあった。内政も軍紀も、すべてが俺の支配下にある
――そう過信していた俺の前に、歴史の凄まじい「修正力」が牙を剥いた。
その日、俺は代々木練兵場で行われた始観兵式(新年の軍事パレード)を終え、御所への帰路についていた。
乗っているのは、御料車(天皇専用の車)である小移動用の最高級自動車。
窓の外には、日の丸の小旗を振る大勢の熱狂的な国民の姿が見える。
(経済も安定し、戦争の足音もない。歴史は完全に変わったんだ)
そう思った、次の瞬間だった。
御料車が皇居の『桜田門』の手前に差し掛かった時、群衆の隙間から一人の男が猛然と飛び出してきた。
男の手には、手製の黒い爆弾が握られている。
(しまっ――!)
史実の記憶が、脳内で爆音と共に蘇る。
『桜田門事件』。
史実では昭和七年一月八日、朝鮮独立運動家の李奉昌が、観兵式から帰る昭和天皇の馬車に向けて手榴弾を投げつけた暗殺未遂事件だ。
この世界では、俺の改革によって馬車から自動車へと変わっていたが、事件の「日付」と「場所」、そして暗殺の刃が向くという運命だけは、歴史の修正力によって恐ろしい精度で再現されようとしていた。
「天皇、覚悟!」
男が叫び、御料車めがけて爆弾を投げつける。
スローモーションのように見える視界の中で、俺は死を覚悟した。
――だが、爆弾が車体に激突する直前。
横合いから猛烈なスピードで割り込んできた一台の黒いサイドカーが、御料車を庇うようにして爆弾を弾き飛ばした。
ズガァァァン!!激しい爆音と黒煙が、桜田門の白い壁を焦がす。
飛び散った破片が御料車の防弾ガラスを叩いたが、車体は無傷だった。
「陛下をお守りせよ! テロリストを拘束しろ!」
煙の中から叫びながら現れたのは、ボロボロになったサイドカーから這い出てきた、憲兵少佐・榊だった。
彼が率いる特殊憲兵隊と私服警官たちが、すぐさま李奉昌を取り押さえ、地面にねじ伏せる。
「ハァ、ハァ……。陛下! 御無事でしょうか!」
榊が血を流す額を拭いもせず、御料車の窓に駆け寄ってきた。
「私は無事だ、榊。……よくやってくれた」
車内から榊の無事を確認し、俺は深く息を吐き出した。
(助かった……。だが、なぜだ? 憲兵の防諜網は完璧だったはず。なぜテロリストの接近を許した?)
「申し訳ございません、陛下……。陸海軍の不満分子の監視に全力を注ぐあまり、海外の独立運動組織による単独テロへの警戒が甘れておりました」
榊が悔しさに唇を噛む。俺はハッとした。陸軍の『桜会』を壊滅させ、海軍の艦隊派を黙らせ、国内の不満を経済復興で解消した。
しかし、それによって「大日本帝国」という国家自体の力が史実以上に強まり、アジア圏での植民地支配や権益の固定化が進んだ結果、外敵からの憎悪はむしろ増幅していたのだ。
歴史を一つ変えれば、別の歪みが生まれる。
「いや、お前が命がけで防いでくれた。責めはしない。……榊、捕らえた男をすぐに特別尋問にかけろ。だが、拷問はするな。彼らの背後にいる組織の全容、そして国内の『手引き者』がいないかを徹底的に洗うのだ」
「ハッ!」
御料車が静かに皇居の中へと滑り込んでいく。
命拾いした安堵感の裏で、俺の心は冷たく冴え渡っていた。
史実の昭和天皇は、この事件で「自身の徳が足りないせいだ」と深く苦悩し、犬養毅内閣は責任を取って総辞職を願い出た(天皇の慰留により留任)。
そして、この事件による対中感情の悪化が、数ヶ月後の『上海事変』へと繋がっていく。
(上海事変の勃発まで、あと数週間しかない。この事件を、史実のような泥沼の軍事衝突の言い訳にさせてたまるか)
俺は、テロの恐怖に怯えるどころか、この事件を逆手に取るための次なる一手を考えていた。
「外圧」という新たな敵に対し、現代の知識を持つ若き天皇は、銃ではなく「圧倒的な外交とメディア戦略」で報復を開始する。
激動の昭和、第二部。
それは、帝国の内側だけでなく、世界という巨大な盤面を相手にした、本当のチェスの始まりだった。




