北辺の布石、熱砂の異動
昭和五年(一九三〇年)十一月。
『桜会』による前代未聞のクーデター計画は、一発の銃弾も撃たれることなく電撃的に鎮圧された。
主犯の橋本欣五郎や長勇、裏で糸を引いていた二宮治重中将らは、特設軍法会議によってことごとく軍籍を剥奪され、無期懲役の判決を受けて監獄の奥へと消えていった。
だが、その厳罰者たちのリストの中で、ただ一人だけ、別の運命を辿った男がいた。
参謀本部少佐――根本博である。
「根本博少佐。貴殿を、参謀本部付から『駐蒙古特務機関』への転任を命ずる。これは陸軍定期人事異動に基づく、正式な辞令である」
軍事課長・永田鉄山中佐から渡された辞令の紙を、根本は手錠を外されたばかりの両手で震えながら受け取った。
他の同志たちが一斉に監獄へ送られる中、自分だけが減刑され、しかも「定期異動」という形で軍に残される。
根本にはその理由が全く分からなかった。
「永田中佐……なぜ、私だけが不問に付されるのですか? 私は橋本らと共に、国家の改造を信じて……」
「勘違いするな、根本」
永田は眼鏡の奥の目を冷徹に光らせ、冷たく言い放った。
「貴殿の罪が消えたわけではない。ただ、上におわすお方が、貴殿の『別の資質』を評価され、特赦を下されたのだ。……これ以上の詮索は無用。ただちに北辺の地へ赴き、帝国の盾となれ」
同夜、吹上御所の執務室。俺は榊少佐から、根本博が異動命令を受け入れ、東京を離れる準備を始めたという報告を受けていた。
「陛下、よろしいのですか? 根本少佐は確かに桜会の核心メンバーの一人。いくら彼が現地調達の火薬に関わっていなかったとはいえ、甘い処分を施せば、軍内に示しがつかぬとの声もございますが……」
榊の懸念はもっともだった。
だが、俺には現代の経済アナリストとしての「未来の記憶」がある。
根本博という男は、史実において数々の謀略に関わりながらも、昭和二十年の終戦時、内蒙古の駐屯軍司令官として、ソ連軍の猛攻から在留邦人四万人を命がけで守り抜いた「稀代の侠客」であった。
さらに戦後は、恩義のあった蒋介石の台湾を救うため、密航して金門島大戦を指揮し、共産党軍を撃破した不屈の軍人でもある。
(根本博は、私利私欲や権力欲で動く男じゃない。ただ『国を良くしたい』という熱情が強すぎて、橋本欣五郎らの甘言に一時的に惑わされただけだ。この男を監獄で腐らせるのは、国家の大損失だ)
俺は窓の外の暗闇を見つめながら、静かに語りかけた。
「榊よ。根本は、組織の泥仕合には向かないが、国境の最前線に立たせたとき、誰よりも凄まじい執念と責任感を発揮する男だ。これから先、ソ連の脅威が北から迫る。その時、モンゴルの地で現地の人々と信頼関係を築き、防波堤となれるのは根本しかいない」
「……それで、あえて『定期異動』という形で、軍人としての名誉を残されたのですね」
「そうだ。お前たち憲兵の防諜網で、根本の動きは徹底的に監視し続けろ。だが、彼が現地で真摯に職務に励むなら、予算も資材も潤沢に与えてやれ。彼は必ず、私の期待に応える」
数日後、東京駅。霙が混じる寒い朝、根本博は一人、満州経由でモンゴルへと向かう列車のホームに立っていた。
かつての華やかな参謀本部のエリートコースからは完全に外れた、最果ての地への左遷。
しかし、その表情に悲壮感はなかった。ポケットの中に、永田鉄山から手渡された、差出人のない一通の極秘の「御手紙」が入っていたからだ。
そこには、若き天皇(主人公)の、凛とした文字でこう書き記されていた。
『根本よ。満州の闇に惑わされるな。お前が守るべきは、大日本帝国の軍紀であり、そして国境の外に生きる数千万の同胞の命である。北辺の地にて、真の愛国を示せ』
「……陛下」
根本は手紙を胸のポケットに深くしまい、御所の方向へ向かって、誰も気づかないほど深く、頭を下げた。
「この根本博、命に代えても、北の盾となってご覧に入れます」
ガタゴトと音を立てて、列車が動き出す。
史実ではテロの泥沼に身を投じたはずの天才軍人が、俺の介入によって、全く別の「正しい場所」へと配置された。満州の闇を払い、東京の膿を出し切った。
そして、北の防衛線には根本博という楔を打ち込んだ。内憂を完全にコントロールした大日本帝国は、ついに世界恐慌の荒波を逆手に取り、世界のトップへ躍進する




