裏で暗躍する桜会
昭和五年(一九三〇年)十月十四日、深夜。
翌日にクーデター決行を控えた帝都・東京の地下では、俺が現代の歴史知識で完全に把握している「桜会」の核心メンバーたちが、最終作戦会議のために集結していた。
新橋の怪しげな待合「梅本」の一室。タバコの煙が白く立ち込める中、主謀者の橋本欣五郎中佐を中心に、史実で昭和を血で汚した狂信的な将校たちが地図を囲んでいた。
「明日正午、すべてが始まる」
橋本が低く、しかし熱を帯びた声で言った。
「民間側の大川周明が、過激派の農本主義者たちを率いて首相官邸を襲撃する。同時に、参謀本部の不正規部隊が模擬ガス弾と機関銃を持って宮中を包囲。政府を完全に機能停止に追い込む」
その言葉に、熱烈に頷く男がいた。桜会の発起人の一人であり、参謀本部の根本博少佐だ。
史実ではのちに終戦時のモンゴルで邦人を救う英雄となる男だが、この時期は国家改造の熱病に浮かされていた。
「各部隊への伝達は完了しています。近衛歩兵第二連隊の強硬派将校たちも、我らの『昭和維新』の旗揚げに応じると約束しました」
さらに、内政班の責任者である長勇少佐が、酒の入ったグラスを荒々しく机に置いた。
のちに沖縄戦で自決する、桜会きっての武闘派だ。
「もし浜口が引き下がらねば、その場で叩き斬るまでだ。宮中の牧野や西園寺も同罪。奴らの首を並べれば、軍令部で燻っている海軍の艦隊派も必ず立ち上がる!」
彼らの計画は、史実の「三月事件」をベースにしながらも、はるかに凶悪化していた。
なぜなら、満州事変の計画が前倒しで潰され、ロンドン条約も強制調印されたため、彼らは「今ここで国家をひっくり返さねば、大日本帝国は終わる」と本気で思い込んでいたからだ。
そして、彼らの謀略の裏には、民間右翼の巨頭・大川周明や、陸軍上層部で密かに彼らの暴走を「利用」しようと企む、参謀本部次長の二宮治重中将らの影もあった。
二宮らは、若手が勝手に暴れて政府を脅してくれれば、自分たちが「軍部主導の新内閣」を樹立できると踏んでいたのだ。
「……勝ったな。これで日本は生まれ変わる」
橋本欣五郎は、血走った目で不敵に笑った。
だが、その笑みが絶望に変わるまで、あと数時間しかなかった。
「――愚かな。自分たちが陸軍の『主流』だとでも思っているのか」
同時刻、吹上御所の執務室。俺は榊少佐が仕掛けた「最新の無線・電話傍受システム」によって、彼らの会話のログをすべてリアルタイムで読んでいた。
現代の防諜技術の先取りだ。
桜会が暗号のつもりで使っていた独自の符牒も、現代の歴史データを持つ俺の前では、ただの白日の下に晒された文字に過ぎない。
俺の傍らには、前日に全権を委任した永田鉄山中佐と、東條英機中佐が静かに控えていた。
東條は、桜会メンバーの実名と彼らが「天皇廃位」まで口にしている通信記録を耳にし、怒りで全身を小刻みに震わせていた。
「陛下……! 根本少佐、長少佐、さらには二宮次長までもがこの謀叛に関わっているとは……! 陸軍の風上にも置けぬ国賊どもめ、この東條、一匹たりとも逃さず、軍紀の鉄槌を下して見せます!」
俺は静かに告げ、永田に視線を移した。
「永田。桜会が抱き込んだと思っている近衛連隊の将校たちだが、すでに近衛師団長には私から直接、彼らの『拘束命令』を出してある。橋本たちが明日、兵を動かそうとした瞬間、動くのは彼らではなく、お前たちの統制派の部隊だ」
永田鉄山は、眼鏡の奥の目を冷徹に光らせ、深く頷いた。
「ハッ。橋本中佐らは、民間右翼から資金と武器を得て、軍を私物化しようとしました。これは『国家国防』の理念に最も反する売国行為です。二宮次長を含め、裏で糸を引く上層部ごと、明日の正午、合法的に根こそぎ監禁いたします」
史実では、陸軍上層部(小磯国昭や二宮治重など)が身内を庇うためにうやむやにし、その後の二・二六事件への伏線となってしまった桜会の陰謀。
しかしこの世界では、天皇である俺が永田と東條という「統制のプロ」に全権を与え、さらに榊の防諜網で裏のメンバーを完全に炙り出した。
彼らが「昭和維新」の夢を見て眠りについている新橋の夜。
その外側では、東條英機が率いる厳格な憲兵部隊と、永田鉄山が配置した完全武装の統制派部隊が、静かに、そして完璧に網を絞り込んでいた。
「桜会、お前たちの泥仕合の幕引きだ」
俺は、手元の名簿の「橋本欣五郎」「根本博」「長勇」「大川周明」「二宮治重」の名前を、黒いインクで静かに塗りつぶした。
運命の十月十五日。帝都の夜明けが、すぐそこに迫っていた。




