9、日本国旗損壊罪
日本国旗損壊罪が成立するそうです。
私は外国には損壊罪があって、日本には損壊罪がないという事実を知らないほど、無関心なジャンルでした。
日の丸に対する誇りは、正直言ってありません。
もし、誰かが日本国旗を燃やしてわめいていたら、私にとってはその人は変質者でしかなくて、国を侮辱した許しがたき人とはなりません。
私の人生がもう少しうまくいっていれば誇りを持てたのかもしれませんが。
私が知る限り、私の生活圏に、日本国旗を掲げている人はいません。
今時、国旗を持って何かを成すという人はほとんどいないということです。
形式的なものであって、人々の暮らしの中心に存在しているものではありません。
例えば、目の前に日本人だけど馬が合わない人、外国人だけど仲がいい人がいれば、後者のほうを選ぶと思うのです。
国という枠組みはずっと昔の人が決めたことで、私たちが望んだものではないのです。
私の場合は日本に対する愛はありませんが、外国にもありません。
この世界そのものがあまり好きではないというのが現実です。
底辺の暮らしを押し付けられてそれで世界を愛することができる人なんてそうそういませんよ。
もし、できるという人がいればそれが机上の空論ではないことを証明してほしいです。
ですが、愛国を語る成功者は自分の資産を分配することはありません。
自分の資産が失われると、愛することができないことをわかっているからです。
何かを愛するというのはとても単純なことだと思います。
多くの人から愛されることで自然と沸き上がってくる感情です。
愛されなければ、愛は生まれません。無理やり愛を作っても、それはマインドコントロールでしかなくて、いずれ暴発してしまいます。
結局、うまくいった人が愛国を語り、そうでない人にそれを強要している力による支配の一端でしかないと思います。
彼らが分配を嫌う姿勢は世界の経済格差を見れば明らかです。分配なんて気持ちはさらさらないですよ。うまくいったという事実だけが愛を維持する方法と知っているのでしょう。
ひねくれたことばかり言ってしまいましたが、愛されない愛は怖いです。
片思いの恋はストーカー事件や殺人にまでつながってしまいます。
愛されないと愛は育めないのです。
そして、愛される人は少ないです。
愛を大事にすればするほど、厳しい競争原理にさらされて、多くの人が淘汰されてしまいます。
愛の奪い合いほど醜いものもありません。いいねを欲しがるインフルエンサーの競争も熾烈です。
私なんかが参加しても、1つのいいねももらえないほど、厳しい競争です。
だったら、愛にこだわらないほうがいい。
日本国旗に愛なんか込めなくてもよいと思います。形式的にあればいいと思います。
日本国旗損壊罪も形式的にあればいいと思います。
日本国旗損壊罪に反対している人は、本当に国旗に対する愛があるのだと感じますね。
だって、私はそんな法律どっちでもいいわけですから。どうなろうと、私は日本国旗を燃やすなんて行為はしません。あってないようなものなのですから。
もし、私が多くの日本国民から愛されるパラレルワールドに行ったなら、私も国旗を愛することができるでしょうか。




