7、幸せと不幸のアンバランスについて
幸せと不幸は同じ数だけ存在しているわけではないと感じます。
というのも、仮に幸せと不幸が同じ数だけ存在していたとしても、幸せは慣れるのがとても早いです。慣れてしまうとそれは幸せではなく当たり前に感じてきます。
ところが不幸というのは慣れるのがとても遅いです。
私は禿げました。笑
ハゲに慣れるまでには1年以上かかった気がします。外を歩くたびに髪のことを気にしていたのです。
それでも1年ほどすると、ハゲという現実を受け入れている自分がいます。
ところが幸せって数日で慣れてしまいます。いいえ、数時間ということも珍しくありません。
私は胃腸が悪いのですが、胃腸の不快感なんて毎回のことですが、いまだに慣れません。
毎回斬新な苦しみを覚え続けています。
毎日のことでも、決して慣れることがないのが辛いことです。
幸せというのは不幸に比べて100倍ぐらい数が多くないと、バランスが取れないように感じます。
他に考えられる要素として、認知できる割合の違いというのもあるでしょうか。
SNSを巡っていると、私のようなネガティブなことを発信している人よりポジティブな発信をしている人のほうが多いです。
すると、自分より幸せという人がより多く目に留まるようになり、結果として自分の感じている幸せが幸せではなくなってしまいます。
そして、うまくいっていない人よりうまくいっている人に注目が集まるので、誰かの不幸を目にする機会が損なわれ、同じように不幸な人同士という仲間意識がなくなります。
私は不幸なときは同じ不幸を見るほうが元気が出ることが多いです。
自分と同じような苦しい立場でも頑張って何とかしようとしているのを見て勇気をもらいます。
そういう人は決して少なくないと思います。
それでも、この世界はうまくいった人にスポットライトを当て続けますから、自分とかけ離れた何かを見せられ続けて、目の前にあるささやかな幸せがすべて色を失っているように思います。
極論を言うつもりはないですが、人はもう少し不幸を見るほうがいいのではないかと思います。
例えば、死刑囚というのは自分がいつ死刑になるかわからない中で生きるのでとてもつらいのです。
ところが、いつ死ぬかわからないという意味では私たちも死刑囚と変わらない立場です。
では死刑囚と私たちは何が違うのでしょうか?
私は仲間の数だと思うのです。
もし、死刑囚が100人ぐらいの共同生活をしていて、「今日はあいつが死刑執行されたよ。みんなで花を手向けよう。次はおれかもな。そのときはおれにも花を手向けてくれ」と仲間内で話をしていれば、独房でただ死刑を待っているのに比べて運命を受け入れやすいのだと思います。
私たちがいつ死ぬかわからない中で平生を保っていられるのは、その点においてはみな同じで、みな仲間だからなのだと思うのです。
どんなに不幸なことでも、仲間がいれば、立ち向かっていけるのかなと思うのです。
そういう意味で、仲間を見つけやすい環境が大事と思いました。
それは交流の場を作るというようなことではなく、SNSで発信しているほうが負担なく発見できると思いました。
そういう意味で、不幸な立場の人がSNSの発信をすることは大事と思いました。
SNSは依存症など問題点が指摘されていますが、その問題点の多くは盛られすぎたポジティブすぎる発信にあると思います。
現実離れしたものがあふれるとSNSは悪さをしますが、人々と同じ目線にあるSNSは人々に勇気を与えるものになると感じています。




