39、素晴らしいことを評価するという悪夢
素晴らしいことを評価する。当たり前のことですが、その問題点に最近気が付きました。
私自身、素晴らしいことを評価してきたから猛反省です。
反省を活かして、これからは素晴らしくないことを評価していこうと思う今日この頃です。
素晴らしいことを評価するとその瞬間から、人生のどん底に引きずり込まれます。
悪気なく何となくやってしまいがちですが、それによって次のような連鎖反応が起きてしまうのです。
素晴らしいことを評価する。
素晴らしいことが模範的な存在として注目されるようになる。
富と名声が素晴らしいものに集中し始める。
富と名声を求めて、多くの人がそれに群がり始める。
けれど、素晴らしいものはごくわずかしかないから、群がった多くの人は踏まれて撃沈。
素晴らしいことが評価されるから、素晴らしくないものは頑張ってもまったく評価されない。
素晴らしいことができなければ、誰からも相手にされなくなる。
大多数の人は頑張ることがまったく無意味になっていく。
大多数が無気力で生きることに絶望していく。
今に至る。
すべては私が素晴らしいことを評価したことから始まったのです。
素晴らしいことを評価したから、素晴らしくない自分が社会の底辺に引きずり込まれてしまったのです。
もしあのとき、素晴らしくないものをランダムに選んで評価していたとしたら……。
ランダムなら、同様に確からしい確率論によって、だいたいみんな同じぐらい評価されて、みんな同じぐらいの社会的地位になっていたのです。
そうすれば、みなが社会の居場所を失うこともなかったのです。
たしかにそれにはデメリットもあります。
ランダムということは、毎回好きなものが食べられなくなります。
食べたくないものを選ばされてしまうということもあるわけです。
ランダムですから、毒の入った変なものも掴まされることもあります。
面白くもないことも見せられるし、やりたくないことも義務でさせられてしまいます。
究極の選択が生まれます。
底辺に落ちても自由を取るか、ランダムによって不自由になる代わりに底辺を免れるか。
いったいどっちが良かったのでしょうか?
そこまで考えて結局、元の木阿弥となりました。
私は底辺以外にはなれないと思います。仮に中ぐらいの地位を与えられても、その責務をこなせません。
やらなければならない仕事に耐えられず、つぶれてしまうと思います。
残念な結論ですが、私にとって底辺はお似合いだったのです。
底辺には夢も希望もありませんが、そのぶん責任は小さいです。
政治家と違って日本を背負う必要もありませんし、有事の際に自衛隊みたいに命を賭けて戦う必要もありません。
会社の命運を背負っていないから、売り上げ目標なんかもありません。
人気を取るために、迷惑系の配信者になる必要もないのです。結果を出さなくても最低限の暮らしが約束されるのです。
私にとって底辺はベストポジションだったのです。
底辺ではない場所に入ってしまったら、いわゆる場違い。大変な目に遭っていたでしょう。
会社の社長にでもなってしまったら、その会社をつぶしてしまったかもしれません。
素晴らしいことを評価することで、素晴らしくない人に相応の責任が与えられて丸く収まっていると言えるのです。
私のようなろくな仕事ができない者が素晴らしい地位を手にしたら多くの人に迷惑がかかってしまいます。
そうならないようにうまくバランスを取ってくれるのが実力主義だったのです。
でもなんだかな……。虚しいですよね。
底辺がベストポジションって夢がないですよ。すべて自己責任と言われたらそれまでですが……。
底辺でいったい何をしろと言うのでしょうか。夢も希望もあったものではありません。
それに熾烈な競争に勝ち抜いて、仮に素晴らしい地位にたどり着いたとしても、なんだかな……。そんなに素晴らしいことのようにも思えないんですよね。
勝っても負けても、居場所じゃない気がするんですよ。
私はここにいるべき者ではないと言いますか。そういうことをひしひしと感じるようになりました。
私の故郷はここじゃない気がするのです。どこか遠くの世界から修行のために留学してきたような気分なのです。
もし、修行のために留学してきたのなら、ずっとここに定住する必要もないのです。
この世界で学ぶべきことを学んだら、遠くの故郷に戻ればいいのです。
私たちの故郷は別にあって、ここは修行僧が入る銀河の最果てみたいなSFの世界を妄想してしまいます。
でも、そうであれば底辺でも受け入れられるかもしれません。
どんなに大変な人生でも、死をもって修行は終了。そのまま故郷に帰省できるのです。
地球での学びを本当の家族たちに言い聞かせることになるのでしょうか。
遠くの銀河から地球にやってきたとすれば、私の故郷はとてつもなく科学が発達しているかあるいはとてつもない魔法の力が存在する世界ではないでしょうか。
私はこんなふうに妄想しています。
実体がない情報統合思念体で、さまざまな物質やエネルギーにアクセスすることができる存在。
宇宙の大部分を掌握している存在で、神のような全知全能の力を備えている。
このような全知全能の存在がどうして地球なんかにわざわざ低能力な状態でやってきたのでしょうか?
これは情報統合の基本なのですが、情報が莫大になると、凍結化して収納します。
すぐに取り出すことができず、解凍した後に大規模コンピュータに注入しなければならないのです。
おそらく地球ごときの末端の世界観ならば、凍結されて誰も解凍しない状態になっているのです。
それを解凍して注入するに際して、私の意識が末端に現れたのです。
全能な存在にとって、低能な意識は新鮮なものなのでしょうね。おそらく全能な存在の趣味というのは低能になることなのです。
低能な意識を通して地球の情報を解凍して楽しんでいるのか、あえてこういう低能な意識を使って解凍することには有意義な価値があるのかもしれません。
こんなSFを取り出してきてようやく自分の人生を正当化できそうです。
人生って、こうやって必死に自分を正当化する理由を探す旅なんでしょうね。
優秀な人間になろうとすることなんかも自分の正当化現象の1つです。
素晴らしい存在になるか、私みたいに言い訳で塗り固めるか。やり方はさまざまです。
何かによって正当化して、何とかこの人生を乗り切っていくのです。
この人生を終えたら、全能な意識と力でもう一度自分の人生をやりたいと思います。
そのときは何をしようかな……。今から考えてみようと思います。




