38、幸せになる恐怖
幸せになることに恐怖を感じているという人は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
私はその一人です。
最初に断っておきます。別に不幸がいいわけではありません。不幸だって嫌です。
この世界には心から安心して好きでいられるものなんてないのです。
そのうえで、幸せになるということもまた恐怖なのです。
ざっと簡単に理由を挙げてみます。
幸せに慣れるという呪いに晒される。
そこからさらに幸せになるのはさらに難しいことになる。
慣れてしまったその幸せを失うという借金を背負うことになる。
不幸なことが本当に不幸なことに感じられて、躁うつ病になったみたいに気分の上下がひどくなる。
幸せを維持するために無茶なことをしなければならなくなる。
たしかに幸せは幸せです。そのときはたしかに幸せを感じているのです。
しかしその後にやってくる黒い波は容赦なく幸せに浮かれている人を海に引きずり込みます。
まるで薬物の後遺症です。
こんなことなら幸せになんてならなければ良かった。
私がこれまでに経験してきた幸せはささやかなものしかありませんが、幸せになるたびに後にやってくる罰とも言える代償を支払わされてきました。
永久に続く幸せはありません。幸せは薬物のように即効性があり持続性に乏しいものです。
幸せの正体はドーパミンとされていますが、ドーパミンは薬物のような作用があることが知られています。
科学的根拠もある話なのです。
では幸せにならないほうがいいのかと言われると、そうでもありません。
不幸は幸せとは真逆。慣れることがないのです。
私はこれまで色んな不幸を経験してきました。そのたびに、慣れることがなかったです。それどころか右肩上がりに伸びることさえあります。
不幸は苦しみに慣れない底なし沼。
幸せは薬物依存症の危ない世界。
ではその間がいいという結果になるのでしょうか?
平凡な結論ですが、たぶん幸せでも不幸でもないあたりにポジションを置くのがベストなんだと思います。
普通と言えば聞こえが悪いですが、安定と言えば良く聞こえるでしょうか。
確かに普通というのは虚無に晒され、何か刺激が欲しくなってしまうものです。
ちょうど禁断の果実に手を出したアダムとイブの心境と言いましょうか。
安定というベストポジションにあったからこそ禁断の果実を欲したのです。
そして、その果実を手にした代償は薬物依存症です。
神話の話は科学的にもうなずけるものです。
楽園を追放されたという話は要するに薬物依存症になってしまったことを意味しているのではないでしょうか。
安定からバランスを崩すと底なし沼か薬物依存症のどちらかに転落してしまうのです。
にもかかわらず、安定でいると虚無感に襲われます。
幸せもダメ、普通もダメ、不幸もダメ。全部ダメ。
これも平凡な結論でしょうか。
そうなんです、この世界は全部ダメです。何もかもすべてダメなものを掴まされる世界です。
ひどい世界です。あんまりだ。神様の残酷さを恨むばかりです。でも神は助ける気持ちなんて微塵もありません。
蜘蛛の糸の1つも授けてはくれません。
けれど、それがもしかしたら救いかもしれないのです。
何をしてもひどいものしかないという状況のほうが「自分以外は幸せで、自分だけ沼に沈んでいる」と考えるより平和です。
幸せな人は薬物の禁断症状に襲われ、不幸な人は底なし沼で苦しみ、普通の人は虚無感に喘いでいるのです。
どこに行っても苦しみ嘆くしかない世界と思った方が、自分の立ち位置を正当化しやすいです。
それに苦しみしかないと考える方が死にやすいです。
どうせ死ぬなら、できるだけ死ぬことを肯定しておきたいと私は考えます。
生きることが苦しければ苦しいほど、死は救い、希望に変わっていくわけです。
そして、死ぬことでようやく幸せでも普通でも不幸でもない新しい世界に行ける。それだけが生きることを頑張る希望です。
そのようなことを言うと、おかしな人と言われてしまう世の中です。
でも考えてみてください。
食べ物がない世界、戦争や病が溢れた世界では、きっと私が語っていたことを語って何とか残酷な運命を受け入れていたはずなんです。
食べ物があって自由で豊かな社会で、そういうものをおかしく言うのはまさに傲慢というものではないかと私は思います。
はっきり言います。今の人は傲慢です。死を希望に残酷な運命を受け入れるのをおかしいと思った時点で、恵まれた環境を当たり前と思っている証拠なのです。
人々の歴史が見えていませんし、思いやりも感じられません。
私はそれは甘えだと思いました。
何かをおかしいと感じてそれに対して改心しない姿勢はいつかしっぺ返しを受けることになると思いました。
時代が進んだって人は人であることに変わりありません。
過酷な運命を受け入れる方法を探すことに、時代など関係ないでしょう。
生き物が残酷な運命の中で生きているのを別の世界から嘲笑するような姿勢には必ず天罰が下ると思います。
それはその恵まれた立場が崩されるという天罰です。
経済危機で、病で、事故や事件で。そのときに罪に気づかされます。
人はみな苦しんでいます。
その中で何とかその運命を受け入れようと必死に色々な模索をしています。
少なくとも私はそういう姿勢を嘲笑したくないし、哀れと思いたくもありません。私自身が必死に模索して這いずり回るような存在ですから。
みな必死なんです。必死に救いを探しています。
余裕の立場なんてあるわけないです。余裕と思ったら、それは錯覚。その後に神の天罰が下され、分からされます。
楽をしていても、やがてやってくる困難。死ぬほどの病や自然災害。そして死ぬのです。
この世界に余裕なんてありません。神に救いを求めないとどうにもならない残念な生き物が蠢く世界です。
私はこの世界をそのように見ています。今後もその立場が変わることはないと思います。
余裕を持った時点で負け。そう思います。そんなものないのですから。
ただただ救われる日を信じて待つしかないのです。
ものすごく恐ろしい世界に生まれてしまったとひしひし感じる毎日です。
それでもですね、明るい話はあります。
この世界が神様が用意した修行のためのプログラムと思ったらやっていられますから。
修行を越えれば、懐石料理が食べられるプログラムぐらい用意されていると信じて歩めば、希望は常にあります。
死だって希望の光になります。
けれども、神を信じられなかったら、光はありません。
弱い修行の立場にある生物です。それを自覚して神を信じて歩むべきと思いました。




