33、幸せのために生きるって苦しい
人生は幸せになるためにあると言われることもあります。
一見正しい意見のように思えますが、冷静になればなるほどこの意見の残酷さを感じるようになっていきました。
大きく考えて、2つの問題点があります。
1つ目は幸せはいったいどこにあるのかという問題です。
毎日の食事や睡眠でしょうか。たしかにそれは1つの幸せの形ではありますが、それで満足できるなら、人は余計なものをたくさん作ったりしません。スポーツなんかせずに家でご飯を食べて寝ていればいいのです。
恋愛でしょうか。恋愛となってくると、3人に1人しかできないという統計データがあります。3人に1人だと競争原理が働いて、蹴落とし合いの争いとなっていきます。不毛な仁義なき戦いが繰り広げられます。
何かに成功することでしょうか。成功となりますと、それこそ1000人に1人かで、その競争は熾烈を極めます。多くのことを我慢してストイックに努力してもなお、才能なんかに打ちのめされてしまうのです。
長生きすることでしょうか。しかし、頑張っても長生きできない人もいます。不治の病は多くあり、しかも誰にでもなります。病にかかると幸せになれないというのはとても残酷な話です。
ただ生きているだけで幸せでしょうか。それなら寝ていればみな満足のはずですが、そうはなっていません。
このように幸せって意外とないということです。あると言う人がいますが、少なくともその人以外は幸せを手にしていません。
2つ目は幸せの旬は短いということです。
食事はたしかに幸せですが、24時間は続きません。
睡眠は8時間近く続くかもしれませんが、見た目には一瞬です。
それに歳を取ると寝苦しくなり、起きるときに全身が痛くてとても辛くなります。睡眠が不快なものになっていくのです。
恋愛も40歳過ぎたら、大金を叩いて若い人に相手にしてもらって、それでも一瞬で虚しくなるでしょう。
成功なんて40過ぎたら宝くじを当てるようなものですが、当たっても一瞬で慣れてしまいます。
何とか幸せを手にしても、すぐに手からこぼれ落ちてしまうのです。
だったら、幸せになるための人生というのは「厳しい競争を賛美し、強制し、ようやく手にいれても一瞬でこぼれ落ちてしまう人生」を提供することになりませんか?
悪気はないとしても、終身刑を強制するようなことになっている可能性があります。
幸せになるための人生という暗示が、辛く苦しい人生の始まりかもしれません。
じゃあ、対案を出せと言われてしまいそうですね。
申し訳ないですが、対案はありません。批判だけして申し訳ないのですが。
対案はありません。探していますけど、見つかりません。申し訳ありません。
探し続けるしかないものなのかもしれません。
こういうときは「仮定」というものが役に立つかもしれません。
何かの人生を「正しい」と仮定してみて、何か矛盾が起これば、それは正しくなかったとなる、数学では背理法と呼ばれています。
では、こんなふうに仮定してみます。
人生は苦しむもの。苦しい人生が正しい人生。
もし、人生が苦しいほど正しいとすればどうなるでしょうか?
とりあえず、子孫を残そうとは思わないでしょう。
苦しいとわかっていれば、もう誰にも経験させたくなくなります。
私の人生はまだ苦しみにおいては序の口かもしれませんが、自分なりに苦しんできて思ったことがあるのです。
少しの苦しみを感じているとき、自分の嫌いな人に同じ苦しみを与えてやりたいと思うようになります。
強い苦しみを感じているとき、たとえ自分の嫌いな人、それこそ死刑囚のような凶悪犯罪者であったとしても、同じ苦しみは経験してほしくないと思うようになります。
ドラマなんかでも復讐ものというのがあります。
復讐の精神というのは、少しの苦しみの時に出てくるものです。
顔をしかめ、頭を押さえうずくまるような苦しみの最中は意識が飛びます。そしてわずかに意識が戻ってきたとき、もう誰にもこの苦しみは経験してほしくないと思うのです。
このとき、人はとんでもなく優しい心を手に入れているのです。
どんな悪でも、この瞬間は更生しています。
「すべての罪を償います。どうか楽にしてください」とどんな極悪人も誓うでしょう。
だからこそ、苦しい人生が正当化されたら、誰も苦しんでほしくないから、子供は生まれなくなるのです。
ですが、良い点もあります。
今まさに苦しい人生を歩んでいる人にとって、苦しみが正当化されることは生きる原動力になります。
まだ少し生きれるという思いになるでしょう。
つまりこのようなことが言えるのではないでしょうか。
幸せになるための人生は理想論。
苦しむための人生は現実論。
幸せになるための人生は理想論としては間違っていないし、苦しむための人生は現実論として間違っていないのだと思います。
この世界が理想的な世界ではないから、多くの人が幸せになれず苦しいのです。
望まないことばかり経験させられてしまうのです。それに対して「自己責任」のような冷たい言葉も飛んできますが、まさしくそれこそが現実です。
野生の世界を見てくださいよ。いきなり食われて死ぬのです。
ひな鳥を守る親鳥がヘビに食われて、帰りを待つひな鳥が餓死します。
ひな鳥に近づく蛇もいます。木を登ってきて、全部丸呑みするのです。
人間の感覚で言うと、理不尽極まりないでしょう。ですがこれが現実です。
ひどい世界です。肯定すべき世界じゃない。こんな世界が素晴らしいと言ってるやつは鬼だ、悪魔だ、畜生だ。
叫びたくもなりますよ。なんてひどい世界なんですか。
結局、私が言いたかったことは何だったのでしょうか。自分でもわかりません。
理想論を現実論みたいに語らないでほしいと言いたかったのでしょうね。
現実論を理想論として語る人はいません。けれど、理想論を現実論として語る人はいます。
私が言いたかったことは、現実論は現実論として語ってほしい。理想論は理想論で語ってほしい。整合性を取ってほしいということだったんだと思います。
現実に生きる者にとって、好む好まざるにせよ、苦しむための人生を歩くよう強制されます。これは現実論です。
ですが、この苦しい人生を歩み切り、死に至ったなら、天国に招かれて本当に幸せになってほしい。これは理想論です。
死が救いであってほしいという意味で、私は人生は苦しむためにあるという現実論を述べさせていただきます。
死んだときには、すべての生命がとびきりの幸せを得られる世界であることを望みます。それまでは我慢しましょう。




