32、心から欲しいものってなんだろう
大人になると、子供のころに比べて、欲しいものがなかなか出てこなくなります。
欲しいものがないわけではありません。
もらえるなら、私は何でも欲しいと思います。
大人というものは子供に比べて余計なことを多く考えてしまうから、素直に欲しいものが述べられないのです。
手に入れてもすぐに虚しくなるだけだとか、部屋のスペースを取ってしまって後でゴミ処理が面倒だとか、そんなものを手に入れても意味はないとか。
あれこれ考えているうちに、欲しいと思っていたものは手に入れることができる状況だったにも関わらず、結局手に入れずじまいなのです。
それにはいいこともあります。
私がそのようにあれこれ考えるようになったことで、お金がかからない人生になりました。
旅行は面倒くさいしなぁ、車なんてただの鉄の塊なのに維持費がかかるし、家なんて掃除も修繕も面倒くさい。
こんなふうに後のことをあれこれ考えて結局大して欲しくなくなるのです。
欲しいという感情はかなり短い時間しか続きません。
ドーパミンというホルモンは最速15分で効き目がなくなると言われています。
長く持っても1時間半もすれば半減すると言われています。
ショッピングモールを2時間もめぐっていれば、結局何も買わずに家に帰ることになります。
一瞬の衝動で人は無駄遣いしてしまうわけですが、同時に無駄遣いだけが欲しいという感情に素直の行為とも言えます。
けれど、何日経っても何年経っても、欲しいと思い続けることができるものもあります。
それは存在しないものです。
例えば夢や希望です。こんなものは実際には存在しません。
プロ野球選手になりたいとか、大富豪になりたいとか、こういったものは実現することがほぼありません。
実現しないからこそ、ずっと欲しいと思えるのです。
おそらく実際になったら、大変な毎日になるのだろうと思います。
私も売れっ子のエッセイストや小説家になれたらな……と思うことはあります。
しかし、実際にそうなってみたら、それほど幸せでもなかったと思うのでしょうね。
実際に存在しないこと実現しないことだけが、人々に長くその魅力を与え続けるというのは実に残酷です。
実現しないことを思い続けるのは苦しいことだからです。けれど実現すると虚しさに変わっていくのです。
なんて残酷な世界だろうとつくづく思います。
スポーツ選手や小説家というのはまだ実現の可能性がわずかにあるから余計に苦しいです。
その点、魔法の力とか、願いを何でも叶えてくれる未来のロボットなんかは決して実現しませんから、割と純粋に欲しいと思い続けることができます。
こうして、実現しないことを妄想して、欲しい欲しいと言いながら生きるのが、もしかしたら一番の幸せかもしれません。
たしかに妄想にふける毎日は虚しいのですが、実現してしまったときの虚しさに比べればマシかもしれないのです。
宝くじに当たった人はその多くが堅実な暮らしができなくなると聞きます。
そういう大きな成功を掴むと、堅実な暮らしに耐えられなくなるわけです。
しかし宝くじ当選と同等の成功は人生二度目はないでしょう。
だからこそ、宝くじに当たった人生は、なかなか辛いのではないかと思うのです。
ここまで色々考えて、結局「欲しい」という感情は苦しみ、虚しさというバッドエンドが約束された悲恋の物語ではないかと思います。
欲しいという感情からは幸せは生まれないと言いますか、別に「欲しい」ではない感情なら幸せになれるわけではないのですが。
衝動的な感情に乗せられて、それを手に入れて、結果不幸になっていくというのは悲しい物語です。
子供や家庭というのも似たところがあります。
離婚して孤独に落ち込む男性の物語はあちこちから流れてきます。子供の養育費を払い続けて、けれど子供には会えないと嘆く人もいました。
欲しいと思って手に入れて、その手に入れたものに奈落の底に引きずり込まれていくのです。
なんて悲しいのでしょう。
宗教には欲することは罪と説くものもあります。
この歳になってうなずけるようになりました。
では、欲さずして生きるのは正しいのでしょうか?
欲さなければ、生きる意味が見いだせず、それもまた虚しく辛いのです。
結局、生きることを欲して生まれてきたことが罪だったのでしょうか。
それもまたうなずけるようになりました。
ここに私が生きているということが実に罪深きことなのではないかと。
少々ネガティブな話になりましたので、何とかポジティブなものも見つけていこうと思います。
欲して、傷ついて、苦しんで、虚しさに沈んでいくことで、私たちの魂は真に素晴らしいものになるのではないかと思います。
もし、無邪気な子供が大きな力を手に入れたらどうなるでしょうか?
子供たちが核兵器の発射スイッチを手に入れたら、絶対に悪ふざけで押してしまいます。
私も昔は悪ふざけをしました。
学校の掃除時間の時に、水の入ったバケツにチョークを入れて、先生にこっぴどく叱られました。
人は傷ついて、苦しんで、虚しくなって、どんどん魂が育まれ、ようやく大きな力を手にする権利を得るのかなと私は思います。
世界を作る神様の力を子供が手にしたら、むちゃくちゃな使い方をしてしまいますが、たくさん傷ついて、たくさん苦しんだ人は、慈愛に満ちた使い方ができるのだと思います。
これはネガティブかポジティブかわからない話ですが、人生はたくさん欲して、それで傷ついて、苦しんでいくべきなのではないかと思います。そうして魂が磨かれて、死後の世界で、磨かれた魂に神の力が与えられるとかなんとか、これは私の妄想なのですが。
生まれてきて死ぬときに、幸せいっぱいだったとしたら、私は神の器ではないと思うのです。
多くの苦しみ、悲しみを理解していることが神の器だと私は考えています。
だからこそ、欲するという罪から、多くのことを学ぶのです。
私は「罪」というものをおかしな捉え方をしています。
罪は犯してはいけないものではなく、罪を持って苦しみを経験し、ようやく「罪を犯してはならない」とわかるのです。
最初から罪を犯さないことと、罪を犯してわかることでは意味が違うと思うのです。
ですから、私たちは欲するという罪を持って、それにより色々と苦しんで、色々とわかっていき、そして死に至るべきなのです。
私はありとあらゆる苦しみを経験するときに、できるだけ優しさを学びたいと思います。
辛い人生ですが、きちんと魂を磨いて、死後の世界で神の力を授かれるように。そのための人生なら、受け入れられる気がしました。
幸せになるための人生なんてのは、私には受け入れられないことです。




