表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/48

31、本当の優しさの正体

 本当の優しさという言葉は良く使われます。

 単に優しくすることが本当の優しさではない。本当の優しさは時には厳しくするものだと。

 愛の鞭という言葉があるとおり、暴力もまた優しさと解釈されることもあります。

 このように、曖昧で具体性に欠ける状態のまま、本当の優しさというものが語られ続けています。


 私は結局、優しさというのは結果論で決まる都合のいいものと考えています。


 愛の鞭が本当の優しさかどうかはそれによって結果どうなったかで左右されます。

 例えば、立派なアスリートになったのなら本当の優しさですし、自殺に追い詰められたのなら、それは虐待なのです。

 そして、それらの結果に対して、本当の優しさが占めるウエイトはそれほど大きくないと思います。

 生まれついての才能や環境などのほうが影響が大きいはずです。

 ですが、まるで愛の鞭がすべてだったという論調になってしまい、結果として都合のいい本当の優しさが醸成されてきたのではないでしょうか。


 優しさというのは結果によって大きく変わる都合のいい存在ということです。

 結局、結果として良い人生にならなければ、優しさは間違っていたと言われてしまうのです。

 それゆえに優しさは千差万別で、各人にそのまま当てはまらないものばかりが溢れてしまいます。

 足が痛いという人に、「走れば治る」とひっぱたいて走らせて、本当にそれで治ったならそれは優しさです。しかし、症状が悪化し、まともに走れない体になれば虐待です。

 その境界線を決めるのは優しさではない要素なのです。

 優しさというのは、優しさではない何かによって生み出される「都合のいい奴隷」みたいな概念です。

 いえ、奴隷ではなく女王様というべきかもしれません。

 どんなときでも、優しさが手柄になるからです。

 優しさに関係なく現れた結果でも、「親や友達の優しさのおかげ」という言葉が紡がれれば、優しさは何もせずただサッカーコートの中央で立ち尽くしていても、ハットトリックを決めたメッシみたいな扱いになるのです。

 優しさほど自由や自分がない存在はありません。何にでも変身できるまるでメタモンみたいな存在です。


 存在がメタモンみたいだから、優しい人間になろうとすると大変です。

 相手の都合次第で、ワルビルにもなれば、ピカチュウにもなるわけです。

 まるでギャンブラーですよ。

 そして、優しさギャンブルには必勝法があります。

 それはうまくいくと分かっている場合にだけ優しさを披露することです。

 乞食にお金を渡しても何も得られません。

 被災地に募金したりすれば、多くの人から称賛されます。

 みなの前でいい子を演じれば優しさで勝利できますが、乞食のような存在はどんどん見捨てられていきます。


 例えば国の制度に「生活保護」があります。私も利用させていただいてます。

 生活保護はたびたびバッシングされます。税金の無駄遣いだと。たしかに乞食にお金を恵む制度ですから、何の見返りもありません。

 しかし、乞食にとってはとてもありがたいのです。私からすれば、生活保護は数少ない優しさの1つです。

 けれど、そんな乞食の言葉は無視されますから、生活保護=優しさというイメージが定着することはありません。


 こうして考えると、優しさという概念でさえも、競争なのです。

 面白い小説やエッセイが書けるかも競争ですし、受験も競争です。

 ありとあらゆる競争にさらされます。

 そうした醜い競争から切り離された癒しの場であってほしい優しさでさえ、その癒しの水は競争という黒い毒にさらされてしまうのです。

 生きている限り、この黒い競争から逃れられません。

 競争し、負ければ罵声を浴びます。

 自然界では負ければ死です。

 そして、それはこの世界のシステムによって正当性が保障されています。

 食べなければ死ぬのですから、競争して殺し合うことは世界の基本となっているのです。

 望む望まざるにかかわらず、死の恐怖に突き動かされて、殺生に手を出さざるを得ません。


 そこまで考えて、私なりに本当の優しさというものを定義してみようと思います。

 もし、これらすべてがゲームだったら、それが優しさだと考えます。

 RPGで敵を倒すように、死んだということが単にプログラムでしかなければ、悲しむ必要はありません。

 私のポケモンがかえんほうしゃでビードルやコクーンを焼き殺しても、それがデータでしかなければ問題ありません。

 データなら後で改ざんも可能です。かわいそうな存在はステータスを高めてやればいいですし、恵まれすぎて奪いすぎた者には枷をはめてやればいいのです。

 この世界がそのようなプログラムなら、どんなに不幸でも許されます。次はステータスを高めてやれば救われるのですから。


 輪廻転生には次のような考え方があります。

 輪廻は魂が山と谷を交互に下るように続いている。幸せの次は不幸、強い者の次は弱い者と言った具合に交互に繰り返していく中でさまざまな経験を魂に加えていく。

 こうして考えると、私の前世は強い魂だったのかもしれません。

 私の前世は伊藤博文だったぐらいのサプライズがあってもおかしくはないでしょう。笑

 どんなに苦しい人生でも、来世が世界有数の資産家になっていれば受け入れられます。

 病に苦しんだ人も、来世が老衰まで大病なしなら、何とか頑張れます。

 それが優しさと私は考えます。死後の世界がどうなっているかわからないので、希望的なものでしかありませんが。


 人生はゲームだ。

 そんなこと言うとおかしな人と言われますが、ゲームだからこそ救えるものもあります。

 ゲームだからこそ苦しい人生は戦えます。死んだ後にすごい力が手に入る特殊能力が備わっていたとかだったら、死に向けて希望を持てるじゃないですか。

 だから、「人生はゲームだ」という言葉は本当の優しさにカテゴライズしていいと思うのです。

 見えるものだけがすべてという考えほど苦しいものはありません。

 現実逃避は悪く言われますが、現実とずっと向かい合う苦しみを多くの人が抱えています。

 少しぐらい現実逃避させてほしいですよ。


 幼くして事故で亡くなったり、苦しい病気の中で懸命に生きた人が、死後の世界で魔法の力や神の位を授かれるゲームの世界であってほしい。

 いま私が願うことは人生がゲームであることです。


 私はポケモンで言うと、たぶんスカンプーみたいなやつです。

 次はレックウザぐらいになりたいですよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ