29、死を受け入れられる人はすごいと思う
すごい人ってどんな人?
この質問の答えも、歳を取るにつれ、どんどん変わっていきました。
子供のころは純粋に「有能な存在」をすごいと言っていました。
スポーツ選手とか芸能人と言った具合です。彼らを憧れの目で見て、自分もあんなふうになりたいと感じていました。
思春期のころになると、敗北を経験し、言い訳を考え始めるようになりました。
自分はスポーツ選手とかにはなれない。けれど、自分にしかない何かがあるんだ。
20歳を過ぎてくると、それが顕著になりました。
自分は王道ではダメだけど、何か自分にしかない人生の意味とかそういうものがあるはずだからと、いわゆる自分探しが始まっていきます。
それで、あれこれ暗中模索するのですが、何を手に取っても気に入らないと投げ出し、だんだんと虚しさに包まれ荒廃していきました。
そうした虚しさに後押しされて、何度も自殺を考えるようになりました。
たしかな「死にたい」という願望が沸き上がってきて、何度も自殺決行を試みました。
しかしどうしても踏み出せない。死ぬってこれほど怖いことなのかと感じるようになりました。
子供のころというのは、実はそれほど死の恐怖を感じていなかったと思います。
死の恐怖というのは、それにある程度近づいてみて感じるものだったのです。
それからというもの、私にとってすごい人は「この死の門をくぐった人」になりましたね。
今でも素直にそう思います。
人はいつか死ぬ。それは常識です。
この常識、思い詰めて考えるとまるでホラー映画のような恐ろしさを感じます。
意識すればするほど、こう思うようになりました。
すべての生命が恐ろしい死に引きずり込まれていく。そのような光景を目の当たりにしていると、この場所が地獄以外の何物でもないものに感じる。
人生は素晴らしいでしょうか?
この世界は素晴らしいでしょうか?
たしかに、この世界、人生の素晴らしいところに近づいた人はそう感じられるのかもしれません。
この世界というのは、どこに近づくかによってとらえ方が変化する世界なのだと思います。
苦しい経験が永遠と続くならば地獄に見えるでしょうし、良いことが次々と経験されていく人には天国に見えるでしょうし。
私はこの世界の恐ろしいところに近づきすぎたのかもしれません。
自殺を考えたりすることは、いわばこの世界の恐怖の根源に触れようとするようなことなのです。
火に触れなければ熱い思いをしなくて済むというのに……。
けれど、人は触れたくて火に触れるわけではありませんし、自ら望んで死にたくなるわけではありません。
自然災害、戦争、飢餓、病、貧困、劣等感、嘆き、虚無感……誰もが望まないことを掴まされてしまうのです。
そうして掴まされたら、それは呪いのように付きまといます。個人の努力ではどうにもなりません。
ワンパンチでミサイルを跳ね返せるでしょうか、祈りを捧げて地震を止められるでしょうか、目を閉じれば満腹になるでしょうか、踊れば病が治るでしょうか、立ち上がれば劣等感や虚無感が消え去るでしょうか。
この世の精霊の所行に、人間など無力と私は感じています。
私が思うに、死を受け入れた人というのはそうした神なるものがとても近いところで捉えられた方々ではないかと思いました。
それが統合失調症に見られる幻覚や錯覚であったとしても、近くに神を感じ、それにゆだねようと決意されたのではないかと思うのです。
苦しみの果てに、迎えに来てくれた神様に手を取られて、ようやく人は死を受け入れることができるのかもしれません。
それはもはや現実を超越した境地です。理屈をも超越していますから、およそ現世に生きる我々には理解の及ばないことなのでしょう。
私自身もいつか死ぬ日が来ます。
そのときに、私のもとに神様が迎えに来てくれたなら……。
人生で経験したあらゆる苦しみ、嘆き、憎悪、劣等感、虚無感、悲しみすべてを手放せる気がします。
私の願望です。
すべての命にとって、死が唯一無二最良の結末であってほしい。
そうであれば、人生がどれほど苦しいものであっても、すべてを受け入れ呑み込むことができると思いました。




