23、好みは千差万別、痛みも千差万別
うちの家族は私を除いてみな納豆が好きですが、私はわずかな量でも嘔吐するほど苦手です。
コーヒーの苦みなんかも好きな人はブラックコーヒーをおいしくいただけるそう。
私はミルクと砂糖をかなりの量入れなければ飲めません。
好みの千差万別さは身近なところにあふれています。
千差万別なのは好みにとどまらないと私は考えています。
痛みや苦しみもかなり大きな振れ幅があると思うのです。
昔、家にたこつぼを刺激するようなものがありました。
それに乗るとたこつぼが刺激され健康効果があるとかなんとかそんな話だったと思います。
私がそれに乗ると、不快な痛みしかありませんでした。
しかし、父親が毎日のように暇があれば乗っていて、心地良いと言うのです。
肩叩きなんかもそうです。
肩を叩かれても痛みだけを感じ、私はずっと不快感ばかりでした。
しかし母親は肩叩きが心地良く感じると言うのです。
物理的な痛みは共通して同じだけ痛いのではなく、人によって大きな違いがあるのです。
私はもっと稀有な例を知っています。
子供のころは定期的に予防接種の注射がありました。
その予防接種の際に、なんと失神してしまう子供が出たのです。そのまま救急車が来ました。
みな騒然としていましたね。何だか恐怖を覚えました。
私は嫌だけど、耐えれないほどではないというタイプでした。
ところが、注射の痛みを「良い感じ」とする注射マニアなる存在もいたのです。
注射で刺されるのがなんとも言えない心地があるのだとか。
このような痛みが精神的なものになると、さらに大きな振れ幅を持ちます。
子供のころの同級生が言っていた話です。
「うちのじいちゃんはアニメの絵に耐えられないから、アニメは見れない」
私の子供のころは金曜日の7時にはドラえもん、月曜日の7時には金田一少年の事件簿がやっていました。
多くの子供たちが見ていたようです。
しかし、その同級生は祖父があまりにアニメの絵から不快なものを覚えるらしく、決してアニメを許さなかったそうです。
最近では、CMに出てくるキャラクターが性的だと指摘して、そのCMをやめさせると言ったことも出てきています。
ダメージの入り方が全然違うのです。
私からすると魅力的なキャラクターと思っても、強い不快感を覚える人も出てくるのです。
そして、孤独や集団になってくるとだいぶ顕著になります。
私は孤独でもへっちゃらです。虚しさを感じることはありますが、ずっとパソコン画面を見て過ごせます。
逆に、みんなでわいわいやってるところが耐えられません。会話に入れず、疎外感が増し、こんなにつらい時間はないと思いました。
そんな中で、日本はずっと統一的な教育や社会づくりをしてきた歴史があります。
給食は好き嫌いの考慮なくみな同じ、みな同じことを学び、友達をたくさん作ろうと強要されます。
しかし、これらは合致する人と合致しない人で大きな格差があると思います。
毎回牛乳を残さざるを得ない人がいました。乳糖不耐症という割と先天的でどうにもならない人がいて、そういった人は牛乳が飲めません。
そうした疾患だけでなく、好き嫌いによる格差もかなり大きいと言わざるを得ません。
その結果、そういう社会づくりに合致しない人は隅に追い出されてしまい、「変わり者」のレッテルを張られてしまいます。
私のそのうちの一人ではないかと思います。
そして、すべては自己責任と言われてしまいます。
海の中で陸上生物がシャチと戦っているみたいなのに、環境のせいではなく自己責任と言われる社会です。
けれど、私は決してそれが間違っているとは言いません。
社会である以上は効率が大事です。効率を重視すれば例外は無視せざるを得ません。
私に合わせてくれる社会であるなら、もしかしたら社会そのものが成り立たなくなるのかもしれませんから。
私のために優しい職場を作って、それに合わせていくと、製品が十分に作れなくなってしまい、豊かな生活ができなくなってしまうかもしれません。
そう考えると、私が私の望みを叶えてくれる社会を訴えると、わがままになってしまうわけです。
いかんともしがたい問題と感じました。
多様性が大事と言われますが、やはり豊かな社会あっての多様性ですから最低限の効率や規律は必要になります。
効率や規律を重視しつつも私のようなダメ人間をどう救済できるか。
私はふと思います。
こういう時代こそ、宗教のようなものが必要なのではないかと。
ダメ人間で頑張って働いて生きた人は死んだ後に天国に行き、素晴らしい人間で楽しく生きた人は死んだ後に天国を支えるために地獄で働かされるみたいなものです。
でも働いていない私は「働いてないけどダメ人間」という新しいカテゴライズです。私はいったいどこに行けばいいのでしょうか。
新しい宗教が必要です。




