19、肯定される場所に行くのか、場所が肯定されるべきか
褒められることをするのか、やっていることが褒められるのかには大きな違いがあると思います。
前者の場合、自分の得意でも好きでもないことをさせられる社会ですが、後者は自分の得意で好きなことができる社会です。
しかし、こうした内容を極端にすると、人を殺しても褒められる社会みたくなってしまいます。
いまの社会は褒められることをするということに極端と感じます。
義務教育では、みなが同じことを同じレベルで学びます。算数が苦手だったり、体育が苦手だったりという個人の意見は無視されます。
私の子供のころは、鉄棒で逆上がりができない子供たちが先生に罵倒され泣きながら必死に逆上がりをしようとして、それでもできずに苦しんでいました。
みながみな逆上がりができなければならないという風潮だったのです。
しかし、人によってできること、できないことは違うわけで、すべての者が一定水準に達するというのは理想論でしかないと思いました。
できないことを「努力が足りない」と決めつけてしまうのは苦しい社会です。放課後に居残りさせられてやらされても、できない子はできなかったのです。
もう少し大きな世界で考えてみましょう。
世の中には頑張っても生きられない人がたくさんいます。
食べ物がないという飢餓や戦争、先進国でも多くの不治の病があって、彼らは努力したって生きることはできませんし、苦しい環境で努力することは簡単なことではありません。
私は努力という言葉があまり好きではありません。
努力を否定しているわけではありません。努力という言葉が都合よく使われているのに疑問を感じているのです。
努力を結果から勝手に取り決めてしまう世の中です。
逆上がりができた人は努力をしたからできた。できない者は努力をしなかったからだと。
昔は学校の先生が生徒たちの前でそのように当たり前に言っていました。
ですが、私は子供心に「努力の量だけで決まらないんじゃないか」と疑問に思っていました。
実際に、体が小さめで運動神経のいい人は連続逆上がりみたいなすごい技をやっていましたが、あれは努力だけの所業ではないでしょう。
人によってはどうしてもできないことはありますし、その努力があまりに耐えかねる苦痛になる人もいます。
肯定される場所に行くに偏った社会がたどり着く場所は共産主義の優生思想社会だと思いました。
政府が優劣をつけ、優秀な者が生き残っていくのです。
生命の当たり前の自然淘汰だとしても、嫌な感じがします。
私はこう思います。
生きるのが難しい人はおそらく死が居場所になるのだから、そういう人にとって「生は肯定され、死は否定されるべきもの」ではなく「死に向かいしかない者には死が肯定されるべき」というのが優しさになると思いました。
例外なく絶対的に定められた価値基準がいつまでもついてくるのは呪い以外の何物でもないのです。
肯定される場所に行けない人にとって、いまいる場所が肯定されることは何よりの救いです。
私だけは肯定される場所にたどり着けない者を肯定してあげようと思います。
すなわち、それは私自身を肯定してあげることなのです。
気休めにもなりゃしませんが。
ですが、最近はこうも思うんですよ。
死ぬときはとびきり否定されておきたい。
そうすれば二度と生まれてくる気持ちにもなりませんから。
こんな世界とは縁を切って、素敵な世界に召されたいという願望もあるのです。




