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ノイズのない世界  作者: 天色うさぎ


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第9話 [  ]な逃走、[  ]な追跡

 湾岸、埋立地の果て。

 錆びついた鉄が幾層にも積み上がり、巨大な墓標のようにそびえ立つスクラップ場。


 傾いた西日が、歪な金属の骸を赤黒い境界線で縁取り、長い影を地面に引きずっている。

 そこには、潮風に混じって、鉄の錆と、何かが腐敗していくような乾いた埃の匂いが立ち込めていた。


 男――猛がここへ辿り着いたのは、正義感ゆえではない。一通のメッセージに突き動かされた、生存本能に近い執着だった。


 『助けて、猛。追われてる。場所は――』



 画面に浮かんだその文字を見た瞬間、猛の脳内では何かが弾けた。

 直人を取り逃がし、詩絵里とも逸れ、狂わんばかりの焦燥の中にいた彼にとって、その悲鳴は唯一の道標だった。


 迷路のような廃車の列を抜け、ようやく捉えた彼女の姿は、猛の予想を無惨に裏切っていた。


 詩絵里と呼ばれていた女は、怯えてなどいなかった。


 彼女は祈るような姿勢で、傍らに立つ少年の背中に、うっとりと頬を寄せている。その表情は、猛がかつて一度も見ることのなかった、深淵のような安らぎに満ちていた。


 「……詩絵里! 無事か!」

 猛の叫びは、スクラップの山に吸い込まれ、虚しく反響した。


 女はゆっくりと振り返る。

 その瞳には、かつて猛を頼っていた熱など微塵も残っていない。


「……ふふ。本当に、助けに来てくださったのですね。猛さん」


 鈴を転がすような、柔らかな敬語。

 それが猛の心臓を、氷の楔となって刺し貫く。


「この場所、彼が選んでくださったんですよ。……あなたを掃除するのに、一番ふさわしい場所だって。あなたが私に、正義を信じ込ませていた、この世界を終わらせるために」


 猛の喉が、微かに鳴った。

 目の前に立つ詩絵里の言葉は、彼の脳が保持している彼女の記録と、何一つ合致しない。


 猛の視界の中で、彼女の変貌は「洗脳」という言葉に置き換えられていった。


 あの日、路地裏で死体を消し去った怪物が、彼女の精神にまでその不可視の手を伸ばし、内側を書き換えてしまったのだと。そう考えなければ、彼の立脚する世界は、今この瞬間に瓦解してしまう。


 猛がナイフを握る手に力を込めたのは、彼女を救うためだけではない。

 彼女を壊した元凶を排除し、自分の知る「詩絵里」という虚像を守り抜くため。それは、救済という名目を借りた、独りよがりな生存本能に近い執着だった。


「詩絵里、目を覚ませ。そいつに何をされた」


 猛の声は、低く、湿った殺意を帯びていた。

 人を殺したことはない。だが、その一線を越えることへの忌避感は、目の前の「不純物」への嫌悪にかき消されていた。


 一度も血に染まったことのない彼の指先が、迷いなくナイフの柄を締め上げる。


一方、直人の体を奪った「オト」は、猛のその痛々しいまでの誤解を、興味深げに眺めていた。


オトにとって、猛がどのような物語を信じ、どのような悲劇に酔っているかなど、その「中身」はどうでもいいことだった。


 ただ、必死に虚像を抱きしめる男の滑稽な姿が、死の瞬間にどのような「音」に変わるのか。


 彼にあるのは、この場所に立ち込める「愛」という名の不快な騒音を断ち切り、自分だけの静寂を完成させるという、純粋で暴力的な生の悦びだけ。


「洗脳、ですか。ふふ……猛さんは、私が本当に洗脳されていると思ってるの?」


 栞は直人の肩に指を絡め、わざとらしく小首を傾げる。


「ごめんなさい、猛さん。……私ね、ようやく目が覚めたの。あんなにうるさかったあなたの『正しさ』が、今はもう、遠い国の言葉みたいに何も響かない」


 栞はそう言って、慈しむように直人の頬に手を添えた。


 その仕草には、一点の曇りもなかった。瞳の奥に宿る光はどこまでも澄み渡り、無理やり意識を操作されている人間に特有の、焦点のズレや虚ろさは微塵も感じられない。


 むしろ、かつて猛の傍らで顔色を窺い、怯えながら生きてきた頃の彼女よりも、今のほうが遥かに「自分」を手にしているように、その輪郭は鮮明だった。


 彼女が直人の背に顔を埋める。その時、彼女の口元に浮かんだのは、自らの意志で深い悦びに浸る、一人の女の顔だった。


「これまでの私は、あなたの正義に合わせて踊らされていただけ。……でも今は違う。私は、私の意志でここにいるの」


 栞の声には、狂気すら介在しない、残酷なまでの理性が宿っていた。


 彼女はただ、「詩絵里」という窮屈な名前を脱ぎ捨て、自らの足で新しい名前の中へと歩み出たのだ。


 だが、その明確な拒絶さえも、猛にとっては怪物が仕掛けた欺瞞にしか映らない。


 認めてしまえば、自分の捧げた歳月がただの無意味なものに成り下がる。


 猛はナイフの柄を軋ませ、自らを破壊する「静寂」の渦中へと飛び込んでいった。


 西日に照らされた刃先が、少年の胸元へ向かって一直線に伸びる。


 だが、その決死の踏み込みは、唐突に、そしてあまりに無様に遮られた。


「……っ!?」


 何もないはずの空間で、猛の足先が「重い何か」を捉える。


 硬いアスファルトではない。

 不気味な弾力を持った質量。猛はそれを回避することもできず、勢いそのままに地面へと叩きつけられた。


 鼻腔を突くのは、鉄の錆と、それから、凍りつくような冷気を含んだ埃の匂い。


 猛が這いつくばったその場所には、何も見えない。ただ、彼の手のひらの下で、本来そこにあるはずのない『乾いた布の質感』と『芯まで冷え切った肉体の輪郭』が、不気味な存在感を放っていた。


 その場所には、オトが以前に殺し、そのまま放置されていた死体が転がっていた。


 直人が「必要ない」と判断し、世界からその存在を剥奪された残骸。


 光を透過し、音を反射することもないそれは、もはや人間ではなく、ただそこに置かれただけの「透明な物質」に変貌している。


 猛は目に見えない「冷たい肉」の上で、もがき、足掻いた。


 手のひらから伝わる、石のように冷え切った人間の形をした何か。いつからそこにあり、誰であったのかも分からない。


 その「空白」に触れているという事実に、猛の背筋を根源的な悪寒が駆け抜ける。


 その姿は、端から見れば、何もない地面で一人、狂ったように死が冷え固まった空間を掻き毟っている、滑稽な道化そのものだった。


「……ああ。ノイズが、もう一つ増えたな」


 オトが低く、愉悦に満ちた声を漏らす。

 猛にとって、それは意味の通じない、単なる不気味な宣告に過ぎなかった。


 かつて、自販機の光が沈殿するあの路地裏。

 猛はその眼で見たはずだ。不良たちの命を抉り取り、この世界から「消去」したのが、目の前の少年の皮を被った化物であったことを。


 だが、今この肉体の主導権を握るオトは知っている。


 眠っている「直人」の意識が、その凄惨な記憶を都合よく書き換えてしまっていることを。


 自分が手を下したのではない。

 目の前にいるこの凶悪な男――猛が、周囲の人間を殺したのだと。

 

 真実を目撃し、その恐怖を正義にすり替えて追ってきた猛。


 己の罪を猛の凶行だと思い込み、被害者として殻に閉じこもる直人。


 その決定的な認識の齟齬が、オトにはたまらなく愉快だった。


 何もかもを相手のせいだと思い込んだまま、二人の魂が殺し合い、削り合っていく。



 猛は透明な、冷たい死体に指を引っかけ、必死に身体を起こそうとする。

 だが、逃げようとする猛の身体を、足元に積み重なる見えない沈黙が、まるで底なし沼のように捉えて離さない。


栞は、そんな猛の無様な姿を、少し離れた場所から淡々と眺めていた。

 

 かつて彼女が猛の隣で浮かべていた、あの怯えたような、誰かの助けを待つような表情はどこにもない。

 

 彼女は、夕闇に溶けゆくスクラップの山と、その中心で透明な死体に縋る男を、まるで散らかった部屋のゴミを眺めるような、透徹した瞳で見下ろしている。

 

 彼女にとって、猛の必死な命の叫びは、もはや意味をなさない雑音に過ぎなかった。


 それよりも、目の前の少年がこれから奏でようとしている、世界を塗りつぶすほどの鮮やかな終わりの予感に、彼女の心は震えていた。


「さようなら、猛さん」


 栞の平坦な声が響く。


 それは、猛がかつて「詩絵里」に求めていた慈愛とは正反対の、命の選別を肯定する冷徹な響きだった。


 その決別の言葉は、今の猛にはもう届かない。

 

 彼の鼓膜は、自らの荒い呼吸と、この場所を支配するおぞましい静寂に塗り潰されている。


 かつて愛した女の温度を失った声は、スクラップの隙間を吹き抜ける乾いた風の音と何ら変わりなく、彼の意識の端を空虚に滑り落ちていく。


 栞は、そんな猛を哀れむことさえしなかった。

 

 彼女の瞳は、這いつくばる男の無様な姿を映しながらも、その先にある完全な静寂だけを見つめていた。


 かつての「詩絵里」を構成していた慈愛も、依存も、弱さも。そのすべてをこのスクラップ場に捨て去り、彼女は今、自らの意志で冷徹な観測者へと成り果てていた。


 オトが、一歩、猛との距離を詰めた。


 逃げようとする猛の身体を、足元に積み重なる、見えない沈黙が、まるで地獄からの手のように引き留めて離さない。


 物理的な質量を持った透明な空白が、猛の退路を完全に塞いでいる。


 オトの手が、猛の喉元を捉えた。

 

 猛の視界には、自分を殺そうとする少年の無機質な瞳と、それを背後からうっとりと見つめる詩絵里の姿が映っている。


 自分が信じた正義も、捧げた歳月も、この透明な墓場では何の意味も持たなかった。

 

 自分は今から、この少年が「不要」だと判断した、ただのゴミになる。そう思った。自分の人生はここで終わるのだと。


 オトの手のひらに伝わる、絶命の瞬間の震え。邪魔なものを終わらせる。

 世界を自分の望む形へと塗り替えていく。


 その全能感が、オトの脳を焼くような快楽となって駆け巡る。

 確かな悦びの中で力を込めた、その瞬間。

 

 バキ、という、最後の不快なノイズが、スクラップ場に響き渡った。



* * *



 不意に、世界が明滅した。


 頭の奥を焼くような甘い残響が急速に引き、僕は、泥の中に突き落とされたような重苦しい感覚と共に目覚めた。


「……っ、あ、…………れ?」


 視界が激しく揺れる。

 最初に感じたのは、指先に伝わる、嫌なほど生々しい「肉」の感触だ。


 僕は、誰かの喉を、指が食い込むほど強く掴んでいた。

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