[ ]な目撃者
答えを出さなければならない。
けれど、どの答えを選んでも、目の前に広がるのは真っ黒な破滅だけだと思う。
耳が痛くなるような静寂の中で、栞の視線だけが僕の皮膚を刺している。
僕が絞り出した「僕のままでいたい」というあまりに無力な願いを、彼女は否定も肯定もしなかった。
ただ、熟しきった果実が地面に落ちるのを待つような、残酷な忍耐を持ってそこに立っている。
「……そっか」
栞は、少しだけ困ったように眉を下げる。
それは、駄々をこねる子供を前にした母親のような。あるいは、どうしても直らないおもちゃ前にした時の、どこか悲しげな眼差しだ。
胸の奥に、得体の知れない引っかかりが生まれた。
けれど僕は、その微かな表情の変化を、僕への歩み寄りだと思い込もうとする。
彼女は、こんな僕でも理解してくれようとしている。
このまま消えてしまうはずの僕という人間を、少なくとも今は、ここにあるものとして気にかけてくれている。
そう信じることでしか、今の自分を繋ぎ止めておくことができなかった。
「直人君、すごく酷い顔してるよ」
彼女が一歩近づき、僕の頬をなぞる。
指先は優しく、けれど震えている僕をなだめるように、ひどく慎重に動いているようだ。
ふと見上げた彼女の顔は、朝の光を透かして、ひどく綺麗に見えた。
困ったように微笑むその表情は、傷ついた僕を心から労わっているようでもあり、もうすぐ消えてしまう僕を慈しんでいるようでもある。
瞳は僕を見つめている。
その視線の焦点は、僕の瞳のさらに奥を見ているように感じた。
一瞬だけ、背筋に冷たいものが走る。
けれど彼女は、僕のそんな不安をかき消すように、一層穏やかな声で言った。
「一度、お風呂に入ってきたら? 温まって、全部……洗い流してきなよ。私は、その間に朝ごはん作っておくから」
その穏やかな提案が、今の僕には唯一の救いのように聞こえる。
やっぱり、僕のことを気にかけてくれているのか。勧められるまま、僕はドアノブから手を離し、ふらふらとバスルームへ向かう。
今の僕には、彼女の言葉に従うこと以外、自分を維持する術がないように思えた。
浴室の扉を閉めた瞬間、湿った熱気が肺の奥まで入り込み、僕は激しく咽せる。
狭い空間に満ちる、石鹸の匂い。微かに混じる、鉄サビのような水の臭い。
震える指で制服を脱ぎ捨て、鏡の前に立つ。
そこに僕の姿はない。
真っ白な湯気が、分厚いカーテンのように鏡面を覆い隠していた。
かつての僕は、こんな時でも自分をどこか遠い場所から眺めているような感覚があった。
自分を、冷めた目で見つめるもう一人の自分。鏡には、その冷めた目をした自分さえ映っていない。
視界を塞ぐ湯気があるだけだ。
僕はもう、安全な場所から自分を眺めることさえ、もう許されないのだ。
鏡を拭う勇気もないまま、僕はただ、熱いシャワーに打たれ続ける。
叩きつけられる水の粒が、皮膚の表面を激しく打ちつける。
僕を包んだあの砂嵐の記憶。
自分のものとは思えない暴力の衝動と、右拳に刻まれた鈍い痛み。
記憶の断片をいくら繋ぎ合わせようとしても、そこには「僕」がいない空白が広がっているだけだった。
ただ、右拳に刻まれた鈍い痛みだけが、僕の知らないところで「何か」が起きたことを現実だと突きつけていた。
皮膚を赤くなるまで擦り、自分ではない何かの痕跡を必死に追い出そうとする。
けれど、擦れば擦るほど、肉体から「直人」としての感覚が剥がれ落ちていった。
足元を見れば、渦を巻いて吸い込まれていく濁った水流。
自分という輪郭が、お湯と一緒に排水溝へ流れ出していくような錯覚に陥る。
髪から滴る雫も、指先から零れる熱も、すべては一箇所に集まり、暗い穴の向こうへと消えていった。
僕が僕として生きようとすればするほど、ノイズは激しさを増し、僕の大切なものを削り取っていく。
洗えば洗うほど、僕は中身のない空洞へと、成り果ててしまうような。
そして最後に残るのはきっと、呪いのように肌に馴染む「他人のような自分」の違和感と、目の前の事実だけだろう。
脱衣所の冷えた空気が、火照った肌を刺すように撫でる。僕は濡れた身体を雑に拭い、着替えを済ませてリビングへ戻った。
キッチンの方から、カチャカチャと硬質な音が響いている。
栞が、背中を丸めて僕のために何かを作ってくれているのがわかった。
パンが焼ける香ばしい匂い。
その背中越しに伝わってくる、人が自分のために動いてくれているという平穏。
僕はそれを、ただぼんやりと眺めていた。
この絶望の縁で差し出されるこの安らぎに、今はただ、無防備に甘えていたかった。
「……はい、直人君。温まって」
差し出されたのは、焼きたてのトースト。
正直、食欲はないが、用意してくれた栞のことを思うと、僕はそれを、ゆっくりと時間をかけて胃に流し込んだ。
食べ終えるのをじっと待っていた栞が、ふと思いついたように、キッチンから一つのマグカップを運んでくる。
香ばしい匂い。
「はい。食後のコーヒー。温かいうちに飲んで」
彼女は微笑みながら、僕の前にカップを置く。
立ち上る香ばしい湯気に、僕は何も疑わず、ただ温もりを求めるようにコーヒーを口に含んだ。
――瞬間。
ドロリとした、熱い液体の塊が舌の上を滑り落ちる。
甘い。
コーヒーの苦味を完全に塗りつぶすほどの、暴力的なまでの糖分の奔流。それが食道を通って胃に落ちた瞬間、内臓を直接熱せられたような、生理的な嫌悪感が全身を駆け抜ける。
指先が、自分の意志とは無関係に激しく痙攣した。掴んでいたマグカップを、突き飛ばすように弾き落としてしまった。
ガチャン、と鈍い音を立ててカップが床に転がり、白い床に不吉な模様を描いて、黒い液体が広がる。
視界の端からは、あの忌々しい砂嵐が、ダムが決壊したかのような勢いで溢れ出してきた。
いつ、どこで見たのかも定かではない、あの不気味な空白の記憶。
それが今、現実を侵食し始めている。
平衡感覚は急激に摩耗し、立っているのか座っているのかさえ判別できなくなった。床がぐにゃりと歪み、重力が横から僕を押し潰そうとする。
這いつくばる僕の視界には、自分から溢れ出した「死」のような、あの黒い染みだけが映っていた。
意識が、こぼれていく。
「……まだ、足りないかな」
栞がコタツの横に膝をつき、倒れ伏す僕の顔を覗き込んできた。
その手には、いつの間にか数本のスティックシュガーが握られている。
彼女は迷いのない手つきで封を切ると、拒絶することもできない僕の唇を割り、その白い結晶を直接、喉の奥へと流し込んできた。
ジャリ、という嫌な音が脳に直接響く。
溶けきらない甘さが喉の粘膜を焼き、意識を強制的に、どこか知らない場所へと引きずり出していくようだった。
脳から指先へ繋がる神経の糸を、誰か別の存在に一本ずつ、正確に奪い取られていくような感覚。
やめろ。動くな。勝手に動かないでくれ。
必死に念じても、指先一つピクリとも動かない。
分厚い氷の底から、自分の体を動かしている「怪物」を眺めているような、絶望的な乖離感。
僕は、目撃者になった。
僕の肺が、僕の意志とは無関係に大きく空気を吸い込む。
「……あぁ、ようやく。お前のその薄汚いエゴの底から引き摺り出された気分だ。反吐が出るほど、狭苦しい場所だったぜ」
喉が、低く、湿り気を帯びた知らない声で鳴った。不機嫌そうな声。
這いつくばっていたはずの身体が、バネ仕掛けのように滑らかな動きで床を蹴って立ち上がる。
視界が急激に高くなり、僕は自分の指先が、自分の意志を無視して何度も握り込まれ、肉の感触を確かめているのを、内側からただ眺めている。
まるで、借り物の靴を履き替えるような、そんな無機質な動作で、こいつは僕の肉体を支配していく。
「……あぁ、ようやく」
栞の口から、祈りにも似た呟きが漏れた。
座ったまま、顔を上げ、じっと「僕」を見つめている。
僕?
いや、『オト』か。
僕自身が、こいつを認識して初めてこいつの心に触れた。オトにとって、彼女は、信者でもなければパートナーでもないのだ。
ただ、この肉体を、僕という不必要な存在に明け渡すための、都合のいい鍵に過ぎない。
オトは、栞を人間として見てさえいないということが僕にはわかった。
だから、栞なんて名前をつけたのだ。
栞。
本に挟み、物語を一時的に止めておくための、薄っぺらな目印。
オトにとって彼女は、僕という退屈な物語を中断させ、自分を呼び戻すためだけの、代替可能な道具に過ぎなかった。
オトは、僕が必死に守り抜こうとした日常も、栞の献身も、そのすべてを泥靴で踏みにじるような冷徹さを持っている。
「あの男を殺す。あいつが俺に押し付けた『死の気配』が、この身体にこびりついて離れねえ」
今ならわかる。
オトが昨日の夜、僕の身体を操らなかった理由。
それは、あの殺人鬼と対峙したあの時。
あいつの瞳に宿る、僕という存在を根底から否定するような、絶対的な死の予感。
それまで「消えてしまいたい」と願っていたはずの僕は、本物の「死」を前にして、あまりに無様に、本能的に、自らの生存を希求してしまったのだ。
自分なんて必要ない。
そう言い聞かせてきたはずなのに、最期の瞬間に自分という存在を肯定し、あろうことか手放したくないと思ってしまった。
そのあまりに強固な、醜くも切実な「直人」としてのエゴ。
生への執着が僕の中に分厚い檻を築き、図らずもオトを無意識のうちに封じ込めていた。
ノイズであることをやめた僕の意識は、皮肉にもオトにとっての最強の盾であり
最大の障害になっていたのだ。
「あいつを、あの場所へ呼び出せ。人目につかない、いつもの廃墟だ。俺がこの世から消してやる」
オトは、僕が必死に握りしめていた「生」の残り香を振り払うように吐き捨てる。
その声は僕の喉を震わせているはずなのに、地鳴りのような響きを伴って、僕の脳幹を直接揺さぶるようだった。
オトは、自分の――いや、僕の首筋を、爪が食い込むほど強く掻き毟った。
あの視線が突き刺さった場所を、上書きして消し去るように。
僕が自分を尊いと肯定し、震えながら抱え込んだその命というノイズこそが、オトにとっては、清浄な空気の中に混じった耐え難い悪臭のような、許しがたい汚れだったのだろう。
「……反吐が出る。お前が後生大事に守ったその皮肉ごと、全部纏めて消去してやるよ」
それは僕に向けられた嘲笑なのか、それともあの殺人鬼への宣告なのか、もはや判別はつかない。
その冷徹な言葉がリビングに響いた瞬間、栞が、ひどく幸せそうに細く長く息を吐いた。
「……よかった。ようやく、私を使ってもらえるのね」
その声は、渇望していた役割をようやく与えられた子供のように、震えるほど弾んでいる。
オトは彼女に視線すら合わせず、ただ自分の命令を実行させるための「便利な道具」として彼女を見下ろしていた。
その徹底した拒絶、ただ利用するためだけにそこに留めておく冷酷な支配さえも、今の彼女にとっては甘美な報酬でしかないようだった。
彼女は、あやすような手つきで、オトが自ら傷つけた僕の首筋に手を伸ばす。
僕が懸命に紡いできた「直人」としての時間は、彼女にとって、この瞬間を待つための退屈な前置きに過ぎなかったのだ。
愛おしそうに僕の身体に触れる彼女の指先が、何よりも冷酷な凶器に思えた。
意識が、急速にブラックアウトしていく。
主導権を取り戻そうとどれほど意識を叩きつけても、剥がれかけた絆創膏のようにもろく、指の間から零れ落ちていく。
僕が僕として踏み止まろうとすればするほどに境界は曖昧になり、僕という存在そのものが、この世界から「なかったこと」にされていく。
自分の身体を乗っ取られた僕は、きっと。
観客でいる他ないのだろう。
誰にも見られず、誰の耳にも届かず、けれど誰よりも近くで。
僕の形をした「何か」が、あいつを壊しに行くのを、最前列で見せられ続けるだけの。
____な目撃者。
僕の思考は、そこでプツリと、完全な闇へと沈んだ。




