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ノイズのない世界  作者: 天色うさぎ


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7/12

十平米の[   ]

 砂嵐が止んだ後の部屋は、余韻を残し。空気が抜き取られたように、耳が痛くなるほど静かだった。

 

 窓の外から聞こえるはずの遠い街の喧騒も、降り続く雨の音も、今はすべてが厚い壁の向こう側に押し遣られている。

 

 僕は、自分の手のひらを見つめた。

 

 意識の底で、あれほど激しく肉を打ち据えていた右拳。

 皮膚が裂け、鮮血に塗れていたはずの指先をよく見ると傷ができていた。

 


 僕はその傷を、光の足りない暗がりに透かし、異物を確認するように指先でなぞった。


 脈動に合わせてズキズキと響くはずの痛みはどこにもなく、ただ、そこにある「不具合」に触れたような、皮一枚隔てた冷たい感覚があるだけだった。



「……効率の悪い殴り方をしたな」

 

 

 自分の唇が、僕の知らない温度の言葉を吐き出す。


 気づいて、自分の口を手で塞いだ。

 

 なんだ、今の。


 その言葉が自分の喉を震わせて空気に溶けた瞬間、僕は自分自身に、言いようのない戦慄を覚えた。


 あんなに恐ろしかったはずの惨劇。

 あんなに拒絶していたはずの暴力と痛み。


 それなのに、今の僕の脳が真っ先に弾き出した答えは、悲しみでもなく。後悔でもない。


 「次はもっとうまく殺せる」という改善策だった。




――道具でも、使えばよかったか。

 

 

 思考の隅に、毒のようにその言葉が染み渡る。


 否定したい。

 そんなこと、僕はこれっぽっちも思っていないと叫びたかった。

 

 それでも、脳のどこか冷え切った場所が「それが正解だ」と、静かに頷いている。


 その肯定はあまりに自然で、僕という人格の綻びから、なにか得体の知れない「別の誰か」が顔を覗かせたような気味悪さが残った。

 

 

 人間らしい感情が、まるで不純物(ノイズ)として取り除かれていくような。


 得体の知れない、喪失感。

 

 僕という器の中から、大切な何かが少しずつ削り取られていくような感覚が身体に広がっていった。


 自分という輪郭が砂嵐に削られ、鏡の中の自分さえ他人に見えてしまう中で。


 ただ、隣で眠る彼女の驚くほど高い体温だけが肌の裏側にこびりついている。

 

 「まだ僕は、ここに肉体を持って存在している」ということを、皮膚の裏側にしつこく突きつけてくる唯一の証拠だった。

 

 心は凍りついたように動かないのに、身体だけは彼女に触れられた箇所から生々しく脈打っている。


 その、自分自身を裏切っているような歪な実感が、今の僕に残された唯一の質量だった。



 

 視線を落とせば、同じ布団の中に、栞がいた。


 昨日のままの服。昨夜、この部屋に辿り着いた後に降り始めた雨が、窓の外で今も降り続いている。

 



 寝返りを打つたびに捲れ上がる、薄い生地。そこから覗く、驚くほど白い腹部。


 シーツの波間に沈む、細い首筋。

 規則正しい寝息に合わせて、乱れた胸元が静かに上下している。


昨日、彼女はこの熱を帯びた身体で僕に縋り、僕の奥底に潜む「化け物」の名前を呼んだ。


 そう思うと、彼女の肌に触れていた箇所が急に熱を帯び、見てはいけないものを見ているような背徳感が生まれる。


 けれど、視線を外そうとすればするほど、彼女の生々しい実存感が僕の意識を吸い寄せて離さない。


 心拍が不自然に跳ね、喉の奥がカラカラに乾いていく。


 僕は逃げ出すように布団を抜け出し、彼女を起こさないよう、慎重に学校へ行く準備を始めた。


 震える指先を制するように、シャツのボタンを一つずつ、自分に言い聞かせるように留めていく。そうでもしなければ、日常という脆い足場が、今にも足元から崩れ去ってしまいそうだった。


 玄関のドアノブに手をかけた時、背後で微かな衣擦れの音がした。


「……外は雨だよ、直人君」

 

 掠れた、低い声。

 振り返らなくても、栞が目を覚まし、僕の背中を見つめているのが分かった。

 

「今、外に出れば、きっと猛に見つかる。私はもう、あいつを騙しきれないよ」

 

 その声には、今まで僕を翻弄してきたような艶も、含みもなかった。ただ、使い果たされたバッテリーのような、乾いた響きだ。


 ドアノブを握る指先が、自分のものとは思えないほど白く強張っている。振り返るのが怖かった。


「今まで、あいつには嘘を教えてた。ここに来ないように。でも、もう無理。そろそろ気づかれる。……だから、私が来たの」


 その最期の宣告のような言葉が、冷たい雨音を裂いて僕の背中に突き刺さる。


 その言葉の重みに耐えきれず、僕はゆっくりと身体を反転させた。


 視線の先。

 いつの間に移動したのか、栞は布団を床に引きずったまま、僕のすぐ背後に立っていた。

 

 昨夜のままの服。乱れた髪の隙間から覗く瞳は、ひどく消耗しているのに、僕を見つめる光だけが、異常なほどに鋭かった。


 昨日の彼女の言葉を思い出す。


 彼女があの男を裏切り続けてきたのは、僕を守るためなんかじゃない。


 一貫して僕の中にいる『オト』をあいつから隠し、消させないためだ。たとえ、その嘘が露見して、自分が殺されることになっても構わない。


 彼女の虚脱した眼差しには、自分の命さえ供物として差し出すような、底知れない狂気が宿っていた。

 

「ねえ、直人君。……どうするつもり?」

 

 彼女は顔を上げず、ぽつりと問いかけた。



「直人君が頑張る必要なんて、最初からないんじゃない?彼に居場所を譲れば、猛なんてただのノイズになる。『オト』なら全てを解決してくれるわ」


 僕の脳は、その破滅的な提案を「最も効率的な解決策」として静かに受け入れようとしている。


 自分という人格を差し出せば、この恐怖から解放される。その答えが、毒のように思考を侵食していく。

 

「それとも。あなたに、彼が殺せるの?」

 

 彼女はそこで初めて顔を上げ、僕を真っ直ぐに見た。


 その瞳に映っているのは、期待でも激励でもない。

 

 ただ、「人間」でしかない僕が、あの圧倒的な暴力の権身であるあの男に勝てるはずがないという、絶対的な否定だった。


 心臓が、肋骨の内側を激しく打ち据える。

 彼女の言葉は、僕の足元を容赦なく削り取っていくようだった。


「……それでも」


 乾いた喉を震わせ、僕はかろうじて声を絞り出した。

 

「それでも、僕は……僕のままで、なんとかしなきゃいけないんだ」


 その言葉は、自分でも驚くほど弱々しく、狭い部屋の空気に触れた瞬間に霧散してしまいそうだ。


 彼女の言葉には整合性がある。


 このまま黙って、殺人鬼に殺される事を選ぶか。それが嫌なら先に殺すか。


 「僕」にはその力がない、だから『オト』に譲れ、と。


 でも、それは「僕」が死ぬことと同義だ。

 僕という人格を、思い出を、これまで必死に守ってきた「直人」という輪郭を、自らゴミ捨て場に放り込んでしまう事と同じだ。


 脳の奥で、カチ、カチと時計の針が刻むような音が響く。


 答えを出さなければならない。

 猛がこの部屋のドアを叩く前に。

 あるいは、僕の精神が「ノイズ」に耐えきれず決壊する前に。




 少し考えて、あることに気がついた。


 警察。


「そうだ。警察に、行くよ……」


 その言葉が浮かんで口にした瞬間、吐き気がした。


 あまりに場違いで、あまりに無力な、善良な市民としての発想。

 

 彼女は僕を憐れむようなことさえしなかった。ただ、僕の震える右拳を、静かに見つめるだけだ。


 手の甲に残った、傷。

 

 あの砂嵐の夢。


 自首するのか?

 警察に駆け込んで、助けてくださいと泣きついたその口で、自身の「説明のつかない惨劇」を語れるのか?

 

 その瞬間、僕の日常は終わる。

 進学して、就職して、普通の大人になる。そんな風に必死で繋ぎ止めてきた、まだ始まったばかりの高校生活は、僕がその罪を告白した瞬間に、この世界から「ノイズ」として消し去られるんだ。


 僕は、守られるべき「普通の高校生」じゃない。あの殺人鬼と同じ、あるいはそれ以上に救いようのない、怪物を宿した加害者だ。


 警察という選択肢は、すでに捨ててしまったものだった。


「ねえ、直人君。分かってるでしょ?」


 彼女の声が、追い打ちをかけるように耳元で鳴る。

 

「直人君は、もうそっち側の人間じゃないんだよ」


 彼女は、僕が縋ろうとした最後の倫理観を、退屈そうに切り捨てた。

 

「だから、答えを出さなきゃ」


 答え。

 

 このまま、直人として裁かれるか。

 それとも、『オト』としてすべてを無に帰すか。


 頭が割れるように痛い。

 思考が加速し、火花を散らす。

 

 一刻も早く、けれどどの答えを選んでも、目の前に広がるのは真っ黒な破滅だけだった。


 僕は、自分の顔を両手で覆った。


 手のひらから伝わる自分の体温さえ、今はひどく遠く、頼りないものに感じられた。

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