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ノイズのない世界  作者: 天色うさぎ


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第10話 暴かれた[  ]


 目の前にいたのは、あの男だ。


 薄暗い路地裏で僕を追い詰め、あの日、僕の目の前で人を無惨に殺害した、あの恐ろしい殺人鬼が目の前にいる。


 何が、起きているんだ。


 男が僕に向けたはずの、あの逃れようのない殺意を、今、自分の「手のひら」が手応えとして握り締めている。


 その事実に、胃の底からせり上がるような吐き気がした。


「ひ、っ……あ、ああ……っ!」


 僕は叫び声を上げ、その手を離そうとした。

 だが、身体が自分のものじゃないみたいに動かない。



 僕の内側に残っている、暴力的で、どこか楽しげな「熱」の残滓が、僕の意志を裏切って、男の喉を締め上げ続けている。


「やめ……ろ、離れ、ろ……っ!!」



 僕は、必死に腕を引いた。

 硬直していた指先が、僕の焦燥に反応して、予期せぬ方向へと弾ける。


手のひらの中で、硬い骨が砕ける不快な音が響いた。


「あ…………」


 力なく、男の頭が地面に落ちた。


 僕はそれを見つめることしかできなかった。

 熱い残響に意識が塗り潰され、気がついた時には、僕の手のひらは彼の喉を粉砕していた。


 殺した。僕が、殺した。

 脳がその事実を認識するより早く、目の前の

光景が歪み始める。

 

 砕けた隙間から赤黒い血がどろりと溢れ出し、僕の指を伝って地面へと滴り落ちる。


 だが、その生々しい液体は、地面を汚す前に輪郭を失った。


 滴る血も、砕かれた肉も、光を透過する空白へと溶け、背後のスクラップの山が透けて見えた。

 

 さっきまでそこにあったはずの、質量を持った「死体」が、まるで陽炎のように薄れていく。


 いっそ、この嫌な手応えも、すべて消えてくれないか。

 

 僕が強くそう願った瞬間、掌を濡らしていた血の熱も、指先に残っていた喉の感触も、まるであらかじめ何もなかったかのように、急速に引いていった。


 指に残っていたはずの感触と、目の前の空白の乖離に、眩暈がした。

 

 僕が現実を拒絶しただけで、僕以外の人間までが、世界から最初から存在しなかったかのように拭い去られてしまうのか。


 僕が欲したのは、こんな救済じゃない。


「なんで? せっかくオトが出てきてくれたのにどうして直人君に戻ってるの? どうして?」


 すぐ横から、嫌悪感に混じった疑問を投げかけられる。


 恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、何かに怯えるように、あるいは心底不快なものを突きつけられたかのように取り乱している彼女の姿だった。


「嘘でしょ……今の、ねえ、なんで消えちゃうの? 直人君なんか、呼んでない……オトを返してよ」


 その声に、心臓が凍りついた。

 


 そうだ、この女は


「……しおり……? さん……?」


 彼女が自ら名乗ったその名前を、壊れ物に触れるように口にしてみる。


 彼女の剥き出しの苛立ちは、僕をどうしようもなく拒絶していた。


「直人君なんか……直人君なんか、いらないのに……どうして、どうして、どうして」


 彼女は顔を歪ませ、吐き捨てるようにそう言った。


 足元では、男だったはずの「空白」が、西日に透けて完全に消えようとしている。


 目に見えるものは消えていくのに、身体の記憶だけが、僕を「人殺し」の側に繋ぎ止めていた。


 初めて知る、自分以外を消し去る力への恐怖と、確実にこの手で命を終わらせたという、拭い去れない罪悪感。


 それさえも。


 彼女の歪な拒絶は、無価値なものとして踏みにじっていく。


「直人君なんか、いらないのに……」


 繰り返されるその言葉は、まるで鋭利な刃物のように、僕が必死に繋ぎ止めていた「自分」の輪郭を削り取っていった。


 目の前で死んでいった男。僕がその喉を潰したという、取り返しのつかない罪。


 本来なら、その重みに押し潰されて、僕は狂ってしまうはずだった。


 目の前でうわ言のように『オト』を求める彼女の姿が、その真っ当な苦痛さえも奪っていくようで。


 僕が今、こんなにも絶望しているのに。

 僕が今、こんなにも「僕」として苦しんでいるのに。


 彼女は、その僕を「邪魔な不純物≪ノイズ≫として、ゴミのように切り捨てた。


「……僕を、見てないんだ」


 ぽつりと、乾いた声が漏れた。

 

 彼女が愛していたのは、僕という存在を食い破って出てくる、暴力の音色だけ。


 僕がこれまで守ってきたものも、僕が今感じているこの裂けるような痛みも、彼女にとっては物語を読み進めるのに邪魔な、ただのノイズに過ぎないのだ、と。


 瞬間、僕の中で、恐怖よりもずっと深くて冷たい何かが、急速にせり上がって来るのを感じた。


 胃の底が冷え、指先の震えが止まる。

 

 彼女は、僕の物語を止める「栞」だと言った。


 僕というページに無理やり指を突っ込み、その先にある暗黒へ、無理やり僕を導こうとした目印。


「……気持ち悪い」


 それは、自分でも驚くほど、感情の抜け落ちた声だった。


「え……?」


 栞が動きを止める。

 僕は、泥のように重かった足を引きずり、彼女の方へ一歩、踏み出した。


「気持ち悪いんだよ。あんたも、あんたの愛も、全部。僕がここにいるのに、僕を消そうとするなんて。僕の大切な場所を、僕の記憶を……勝手に土足で踏みにじって」


「直人君、何を――」



 僕は、彼女の細い首筋に手を伸ばす。

 

 右手のひらは、あの男を殺した時の「硬い骨を砕く感触」を鮮明に思い出している。

 

 それを、今度は彼女の喉に押し当てる。


 彼女は逃げようとはしなかった。

 その瞳には、狂気じみた期待が灯る。


 指先に強く力を込めてもなお、彼女は逃げようとしなかった。


 僕が彼女の首を絞めるという行為に、『オト』の再臨を見ようとしているのか。


「消えろよ」


 叫んでいた。

 伸ばした僕の手が、彼女の細い首をひったくるように捉える。


 指先が、もっと壊せと、もっと叫べと、熱を帯びて脈打っている。


 栞は苦しげに喉を鳴らしながら、僕の手首を掴む。


 けれど、その手には力が入っていない。

 拒絶するための抵抗ではなく、そこにある「暴力」を確かめるような、愛撫に似た頼りなさ。


 彼女は、僕の目を見ていない。僕を透過して、その奥に潜む『オト』だけを恋い焦がれるように見つめている。


 食い込む僕の指先は、自分でも情けないほどにガタガタと震えていた。

 

 必死だった。

 自分の居場所を守るために、自分を否定するこの女を排除したくて、僕は醜く顔を歪め、ありったけの憎執を指先に込めた。

 

 僕が彼女に触れれば触れるほど、食い込む指先が人間としての「熱」を帯びるほど、彼女の瞳から極彩色の期待が急速に引き、真っ白な違和感が滲み出していく。

 

「……え……?」


 その瞳に映る僕は、彼女が焦がれ続けた美しい怪物ではなかったのだろう。

 

 自分を終わらせる力が、こんなにも必死で、惨めで、不器用な「直人」という個人の私情に塗れている。


 その残酷な事実に彼女が辿り着いた瞬間、眼差しに宿ったのは、死への恐怖を塗りつぶすほど深い、がっかりしたような悲しみの色だった。


 その徹底した「僕」への不在が、僕の決意を完成させた。


 ____もういい。


「あんたは、僕の物語を止める『栞』なんだろ?」


 指先へ、さらに力を込める。


「だったら、もういらない。……読み終わったページに、栞なんて必要ないんだ」


 ――バキ。


 あの嫌な音が耳の奥で鳴り響いた。


 栞の瞳から、光が失われていき、彼女の身体が崩れ落ちる。


 僕の能力が、僕の猛烈な「拒絶」に呼応して、世界を塗り替え始める。

 

 崩れゆく彼女の輪郭が、足元から急速に透けていく。



 僕を追い詰めたあの瞳も、僕を愛撫した指先も、抱きしめた腕も。

 すべてが夕闇の空気に溶け、透明な空白へと吸い込まれていく。


 返り血の一滴さえ残らない。


 さっきまでそこにあったはずの、熱を持った二つの命。僕が奪ったはずの、二つの「死」

 

 すべて、僕が「いらない」と強く願った瞬間に、この世界から最初から存在しなかったことになった。


 手のひらを見つめる。

 血はついていない。汚れもない。

 

 けれど。

 何もないはずの掌は、今もあのおぞましい肉の感触を、何度も、何度も、鮮明に思い出していた。忘れよう。



「……そうだ。僕は、何もしていない」


 脳の奥で、カチリ、と音がした。

 

 嫌な砂嵐が、凪いでいく。

 今日、僕はただDVDを返しに来ただけだったんだ。


 夕日が綺麗で、少し遠回りをして。

 こんな所まで来てしまった。


 僕は、自分の綺麗な手をポケットに突っ込み、ゆっくりと歩き出した。


 背後には、ただ静まり返った金属の山があるだけだった。

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