第11話 物語を止める[ ]、溶けゆく雨
鏡の中に、知らない女が立っている。
今朝の私は、昨日死んだ誰かの代わりに笑い、誰かの続きとして呼吸をする。
指先で口角を吊り上げ、鏡の中の女に「彼女らしい」微笑みを教え込む。
三秒。
それだけで、私は私ではない誰かになれる。
名前なんて、何でもよかった。
栞、あるいは昨日までの誰か。
ずっと、自分の輪郭をなぞる方法が分からなかった。
私の内側は、空気が抜けた廃屋のようにがらんどうで、そこには自分自身の記憶さえ落ちていない。
誰かの人生の隙間を埋めるための、精巧な部品。それが私のすべてだった。
他人のフリをして、他人の居場所を守るたび、私自身の輪郭はすり減り、中身のない透明な器になっていった。
そんな私を掬い上げてくれたのが、猛さんだった。
彼は私に「能力者を見つけ出す」という居場所を与えてくれた。
彼の語る言葉は、いつも厚ぼったい「正義」の熱に満ちていた。
秩序を守るため、逸脱を正すため。
彼の振るう暴力には常に誰かを守るための理由があった。
私は、そんな猛さんが好きだった。
彼が語る理想の世界はとても眩しく、真っ当で、人間らしい温かさに溢れていたから。
誰だってそんな人を好きになる。
私には毒だった。
その光は、空っぽな私を救うにはあまりに強すぎたのだ。
彼の隣にいると、自分がどれほど不純な存在であるかを突きつけられるようで、息が詰まる。
正義も、悪も、愛も、憎しみも。
意味に満ちたそのすべてが、私の空洞の中で不快なノイズとなって反響するみたいで、
彼とは違う。
そう、すべてを黙らせてくれる「絶対的な消去」を待っていた。
私という不確かな器を、跡形もなく砕いて、空白へと還してくれる本物の終わりをくれるそんな存在を。
***
ある日のこと。
それは、ただの偶然で。
その日は一人で買い物に出かけていた昼下がりのことだった。
視界の端で、世界の皮膜がひび割れたような気がして、私は吸い込まれるように裏路地へ足を踏み入れた。
そこに、君がいた。
震える肩に透明な瞳。
数人の男たちに囲まれ、今にも壊されてしまいそうな少年。
私の網膜の奥に、淡い光が灯る。
それは、少年の肉体を通り越し、そのさらに深淵にある「何か」を冷徹にスキャンした。
私の頭の中に、彼がもつ能力の「本質」が浮かんできた。
世界から必要のないものを取り除き、最初からなかったことにする能力。
――背筋を、冷たい蛇が這い上がるような感覚に襲われる。
それは、生身の人間が触れていい領域ではない。
因果の糸を根こそぎ断ち切り、万物を「空白」へと叩き落とす、あまりに無機質で絶対的な拒絶。
それは破壊でも、死でもない。
宇宙の法則そのものを書き換えるような、冒涜的なまでの欠落。
一歩間違えれば、私という存在さえ、この瞬間に塵一つ残さず「なかったこと」にされる。
指先が凍りつき、心臓が爆ぜるような、死よりも深い根源的な恐怖に、私の身体はその場に縫い付けられた。
その底知れない絶望の淵で、私の心は同時に抗いがたい陶酔に浸っていた。
すべてを黙らせる静寂。
意味というノイズを完封する、究極の「無」
その中身の圧倒的な美しさは、恐怖を上書きし、私を支配した。
――バキ、と。
不意に音がした。
暴力を孕んだ怒鳴り声も、君を追い詰めていた男たちの質量も。
そのすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、一瞬で「空白」へと塗り替えられる。
全身の血が逆流するような衝撃だった。
そこには意志も、慈悲も、断罪すらない。
ただ「いらないもの」を消去するという、圧倒的な無慈悲。
私の目にはその全てが視えていた。
他人の残像を繋ぎ止めることに疲れ果てていた私にとって。
それは唯一の真実、究極の救済だった。
「見つけた……私だけの、神様」
***
それから。
私は猛さんに嘘をつき、何度も君の元へ通った。
君はまだ自分の力が何なのかさえ分からず、ただ無意識に世界を「修正」し続けていた頃。
私は、君が消してしまった現実の代わりに、都合のいい嘘を並べて君の日常を整えた。
君の傍にいるときだけ、私は「誰かのフリ」をしなくて済んだ。
意味なんてなくていい。
正義なんてなくていい。
私は、君という圧倒的な「無」を維持するための、ただの装置になりたかった。
「私のことは、好きに呼んで。何でもいいの」
私は、私という「個」を、差し出した。
この部屋に置かれた静かな時計や、清潔なシーツと同じ並びに、私を置いてほしかった。
君は椅子に深く沈み込み、値を測るような視線で私を見つめる。
それは、使い慣れた道具の摩耗具合を点検するような、温度のない沈黙。
君の指先が、私の頬から首筋へと、迷いなく滑る。
そこに慈しみや愛着はない。
自分のテリトリーに馴染む「形」であるかどうかを、ただ物理的に確かめているだけの、即物的な接触。
私が君の『消去』という機能を愛したように。
君もまた、私の『管理』という機能を品定めしていた。
「……じゃあ、栞」
君の口から放たれた言葉は、命名というよりは、ただのラベル貼りのようだった。
「俺が迷わないための、ただの目印だ」
愛称でもなければ、祈りでもない。
私の解析能力が導き出す能力の本質と同じように、君もまた、私に『栞』という機能名を割り当てたのだ。
その瞬間、詩絵里という名前は私の中から消えた。
君にとって、私は特別な人間などではない。
愛おしい恋人でも、大切な友人でもない。
ただ、君という物語が滞りなく進むために、便宜上挟まれただけの無機質な紙片。
代わりはいくらでもいる。
けれど、今は、私という部品がそこにある。
その事実だけで、私の空洞は完璧に満たされたように感じた。
猛さんに拾われたときよりも、ずっと深く。
私は自分の居場所を確信した。
猛さんは私を「人間」にしようとした。
けれど、君は私を「便利なモノ」として扱ってくれた。
それが、私の信じた幸福の、最悪な終わり。
***
猛さんは、私を愛してくれた。
それは眩しすぎて、空っぽな私を焼き切るだけの猛毒だった。
だから、私はオトを選んだ。
私を「道具」として、代替可能な「部品」として扱ってくれる、あの絶対的な支配を。
私は、オトという冷徹な神様に殺されたかった。
指先が壊れた機械を捨てるように、慈しみも、憎しみも、一滴の感情すら介在させない無機質な消去。
それによって、私はようやく、何の意味も持たない「最初からなかったもの」になれるはずだった。
なのに。
私を壊したのは、私が最も忌み嫌い、遠ざけていたはずの「熱」だった。
「……あ、あぁ……っ」
目の前に立つ君の瞳。
そこには、私の望んだ虚無など、欠片も存在しなかった。
網膜の奥で灯る私の光が、残酷なまでに暴き出してしまう。
そこにいるのは、罪悪感に顔を歪ませ、涙を堪え、震える手のひらで私という存在を「殺そう」としている、救いようのない一人の人間。
なんで。なんで、直人君なの。
それは、執行ではなかった。
ただの、泥臭い殺人だった。
――バキ、と。
能力が私を噛み砕く。
けれど、そこに響いたのは、私が憧れた澄み切った静寂ではない。
ドロドロとした執着。
耐え難いほどの後悔。
殺される瞬間の私の身体に伝わってきたのは、君の、吐き気がするほど生々しい人間としての熱だった。
最悪だ。
そんな熱を持って私を殺してしまったら。
そんな想いを込めて私を壊してしまったら。
私は、君の中で「空白」にはなれない。
ねえ、直人君。最期まで、君は私を人間に戻そうとするんだね。
神様の冷たさに抱かれて、綺麗に消え去りたかった。
けれど、私は人間の熱に焼かれてしまった。
猛さんが望んだ「人間」としての死。
それを、皮肉にも、君という人間が私に与えてしまったんだ。
視界が、白く、濁っていく。
私が願った絶対的な無ではなく、君の後悔を混ぜ合わせた、不透明な終わり。
意識の最後の一片が溶けるまで、君の震える熱が私を侵食し続けた。
私はオトに消されたかった。
なのに、君は私をその手のひらの中に、閉じ込めてしまった。
ねえ、直人君。
君が私を、最初からなかったことにできないのだとしたら。
その罪を抱えたまま、この先を生きていかなければならないのだとしたら。
それは、神様になれなかった君への、私からのたった一つの罰。
あるいは、人間に戻ってしまった君に捧げる、私からの最期の目印。
さよなら、直人君。
君に焼かれたこの熱を、私は、地獄まで連れて行く。




