最終話 ノイズのない世界
世界は、かつてないほどに澄み渡っている。
液晶テレビの薄い画面の中で、ニュースキャスターが、無機質な声で「また一人の行方不明者」を告げている。
この数週間、同じような報道が繰り返されていた。
だが、青白く発光する画面から溢れ出す記号的な悲劇は、この部屋の完璧な静寂を乱すほどの質量を持ち合わせていない。
アナウンサーの唇から零れる名前も、遺族の涙も、この部屋に届く頃には実体を失い、ただの不快な周波数として処理される。
直人はそれを背中で聞き流しながら、コタツの上で一通の郵便物に目を通していた。
差出人のない、あるいは直人がその名前を「消去」したことで空白となった封書。
彼はそれを指先でなぞり、中身を確認することもなく、ただそこにあった不必要な異物としてゴミ箱へと落とした。
十平米の室内は、驚くほど清潔に整えられていた。
かつてそこに、他人の湿った気配が混じっていた形跡など、もはや微塵も残ってはいない。
合鍵が鍵穴を回す微かな金属音も、静かに迎え入れられた他人の体温も、雨に濡れたコートが振りまいた埃の匂いも。
すべては、最初からなかったこととして、この聖域から丁寧に、執拗に拭い去られている。
直人は立ち上がり、吊り戸棚の「一番奥」へ手を伸ばした。
そこは、彼の記憶の地図には存在しないはずの、聖域の空白だった。
だが、彼の身体はその場所を熟知している。
指先は迷うことなく、誂えたようにそこに置かれたスティックシュガーの束を掴み取った。
一本。二本。三本。
音もなく、白い結晶がマグカップの中へ積み重なっていく。
漆黒の液体が、熱を帯びたままドロリとした飴色に変色するのを、彼は恍惚とした瞳で見つめていた。
カップの底で溶け残った結晶が、小さな渦を巻いては消えていく。
その不透明な濁りこそが、今の彼にとっては「純粋」な世界の象徴だった。
かつての彼が愛したはずの澄んだ黒は、今や見るに堪えない空虚な欠陥でしかない。
立ち上る湯気は、死の直前の吐息のように甘く、重く、彼の鼻腔を支配した。
それを一気に喉へ流し込む。
……甘い。
内臓を直接なで回されるような、暴力的なまでの糖分が食道を焼き、血管を伝い、彼の神経を心地よく麻痺させていく。
その甘美な重みは、脳の奥で燻り続けていた不快な違和感を、瞬時にして滑らかな空白へと溶かした。
糖分が脳に達するたび、彼の輪郭は部屋の壁紙と溶け合い、境界線を失っていく。
彼は、満足げにカップを置くと、洗面台の鏡の前に立った。
鏡の中に立っているのは、死人のような白さを帯びた、かつて「直人」と呼ばれていた少年の抜け殻だった。
彼はその鏡像に向かって、ただ、そこに刻まれた「形」を出力する。
直人という個人の意志を超えて、肉体が強迫的に記憶してしまった、その残像。
成れの果て。
指先を使い、ゆっくりと自分の口角を吊り上げる。
一。
二。
三。
鏡の中には、完璧に善良で、完璧に透明な、「微笑み」が完成していた。
その顔は、幸福を知る者のそれではない。
ただ、幸福という概念を模倣し、出力されただけの無機質な記号のようだった。
その微笑みに一点の曇りもないのは、そこにいかなる感情も、後悔も、介在していないからだ。
誰かの喉を潰した時の、あの硬い骨が砕ける感触も。
その場所で透明な虚無へと変貌し、世界から剥離していった死体の断末魔も。
今の彼にとっては、砂嵐の向こう側に明滅する、意味を持たないノイズでしかなかった。
ふと、視界の端。
棚の上の、何もない不自然な空白に目が止まる。
そこには、かつて物語の進行を止めるための、薄っぺらな目印が挟まれていたような気がした。
目印を失った意識は、もはや自分の終わりがどこにあるのかさえ、見つけ出すことができなくなっていた。
それは、自分という人格が、自分であり続けるために必要だった、最後の一片。
――バキ。
脳の奥で、澄み切った破砕音が鳴る。
思い出せないのなら、それは最初から不必要なものだったのだ。
直人が「いらない」と定義した瞬間に、世界はそのように再構成され、因果の糸は最初から存在しなかったことにされる。
思い出せないということは、世界からそれが失われたという証拠だ。
直人の右拳の皮が、ほんの少しだけ引き攣った。剥がれかけた絆創膏のように、皮膚がささくれ立ち、その奥に鈍い疼きがある。
彼はその痛みを、忘れるようにと親指で強く押し潰す。
痛覚は、彼がまだこの肉体に繋ぎ止められている唯一の証拠だった。
しかし、その痛みさえも、次第に甘いコーヒーの残響に飲み込まれていく。
疼きは波が引くように去り、後には滑らかな無感覚だけが残る。拳を握りしめていた力は抜け、指先は重力に従って力なく垂れ下がる。
部屋からすべての色彩が抜け落ちていくような錯覚。
十平米の空間は、外の世界から完全に切り離された深海の底のように、濃密な沈黙に満たされていく。
空気が抜き取られたように、耳が痛くなるほどの静寂が、耳の奥で鼓膜を震わせた。
何かの形を成そうと、部屋の輪郭を歪ませている。
部屋の隅に、誰かが立っているような気がした。
髪を揺らし、三秒の微笑みを浮かべた、透明な輪郭。
彼女は何も言わない。
ただ、直人が自分自身を消去していく様を、最前列で見守っている。
確かめようとして、直人はその幻影に向けて、ゆっくりと手を伸ばす。
なにも掴めない。
指先が触れたのは、冷たい空気だけだった。
「……そうだ。最初から、誰もいなかったんだ」
直人は独り言を漏らす。
その声は、自分の喉から出たものとは思えないほど、低く、湿り気を帯びていた。
彼は再び鏡に向き直る。
三秒の微笑み。
今の彼は、もう自分を認識することができない。
自分は、この世界に響き続ける静寂の一部なのだと確信していた。
窓の外。いつの間にか雨は止んでいる。
空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
不快な音を立てる車も、騒がしい鳥の鳴き声も、不必要だと彼が願ったものはすべて、この空の青に吸い込まれて消えていった。
十平米の聖域には。
今日も、誰の耳にも届かない、美しく残酷なオトが、鮮やかに響き続けている。
彼は、ゆっくりとテレビのスイッチを切り、部屋の電気を消す。
暗闇の中で、彼の瞳だけが、爛々と輝いて。 街からはまた一人、不純物が消える。
それは、世界を最も正しい形へと修正する、神様さえも知らない掃除の続きだった。
明日もまた、彼は微笑むだろう。
三秒かけて。
誰にも気づかれないように。
自分自身にさえ、気づかれないように。




