寝る子は育つと人は言う。勇者志望は城を追い出された
王都ルミナリアから北西へ、馬で十日余り。
街道が次第に細くなり、乾いた風が砂を運び始めるころ、小さな石造りの城下町が姿を現す。
城と呼ぶには控えめで、館と呼ぶには立派。
そこが、レーヴェルト辺境領。
領主グラウヴァルト・レーヴェルト卿の居城だった。
王国軍の重鎮。
国王からこの地を「預かる」形で治める武人。
戦では負け知らず。
領民からの信頼も厚い。
そんな男にも、ひとつだけ、どうしても思い通りにならないものがあった。
嫡男。
アルノルト・レーヴェルト。
十五歳。
剣を握れば、翌日は筋肉痛。
魔術の講義では、開始三分で船を漕ぐ。
好きなものは昼寝と読書。
領民は陰でこう呼んでいた。
――寝台の賢者。
――日なたぼっこの坊っちゃん。
兵士たちは、さらに容赦がない。
――あの坊ちゃんが領主になったら、敵が攻めてきても城ごと寝るぞ。
グラウヴァルトは、その評判を聞くたびに額を押さえた。
若いころ、いくつもの戦場を駆け抜けた男である。
鳶色の鋭い目。
深く刻まれた眉間の皺。
戦場で積み重ねた勝利は数えきれない。
だが最近では、戦よりも息子の方が彼を老けさせていた。
◇
その日も、朝の訓練場には武官たちの掛け声が響いていた。
「セイッ!」
「セイッ!」
「セイッ!」
だが、肝心の嫡男の姿はない。
やがて侍従が走り込んできた。
「アルノルト様……また、屋根の上でございます」
「……屋根?」
グラウヴァルトの額に、ぴきりと青筋が浮かぶ。
「はい。図書室の窓から抜け出されまして。陽当たりのよい屋根の上で、『風がいちばんの先生だ』と仰せになり、そのまま……」
「寝たか」
「はい」
空気が止まった。
グラウヴァルトは剣の柄を軽く叩き、長く息を吐いた。
「……もうよい。下ろすな」
「よろしいのですか?」
「叱って変わる子なら、とっくに騎士団長になっている」
その時だった。
城の上から、のんきな声が降ってきた。
「おーい、父上ー!」
訓練場の兵士たちが一斉に上を見る。
屋根の上。
金髪の少年が寝転がっていた。
片手にはパン。
もう片方には、古びた革装丁の本。
「さっきから掛け声、一拍ずれてますよー!」
兵士たちが固まる。
「『エイッ!』より『セイッ!』の方が息を吐きやすいです!」
グラウヴァルトの視線が、ゆっくり天を向いた。
「アルノルト」
「はいはい、聞こえてますよ」
「降りろ」
「今、いいところなのに」
「降りろ」
「……はい」
アルは屋根の縁へ腰をかけ、ひょいと飛び降りた。
風が柔らかな金髪を乱す。
手に持っていた本が、ぱらりと開いた。
擦り切れた表紙には、消えかけた金文字で題名が残っている。
《努力しないで勇者になる方法》
城へ出入りしていた怪しい行商人から、金貨五枚で買った古書だった。
グラウヴァルトの眉間の皺が深くなる。
「まだその詐欺本を読んでいるのか」
「詐欺かどうかは最後まで読んでから判断します」
「金貨五枚払った時点で判断しろ」
「古書ですよ。秘伝ですよ」
「そう書けば売れると思ったのだろう」
アルは古書を胸へ抱えた。
「でも、この本、いいことも書いてあるんですよ」
「例えば?」
「『知は剣に勝る』」
「それは、その本でなくとも誰かが言っている」
「じゃあ名著ですね」
「詐欺師の寄せ集めだ」
兵士たちの間から笑いが漏れた。
アルは気にした様子もなく本を閉じる。
「僕は、剣より知識で人を守りたいんです」
グラウヴァルトは鼻を鳴らした。
「では問う。知識で腹は満ちるか?」
「満ちません」
アルはあっさり答えた。
「でも、どうして腹が減っているのか考えられる人なら、次に腹を減らす人を減らせると思います」
兵士たちの笑いが止まった。
グラウヴァルトが目を細める。
「……口先だけではないか」
「かもしれません」
「世は甘くない。知識を振るうにも、生き残る腕が要る」
「うーん……じゃあ父上」
アルは首を傾げた。
「父上が剣で国を守るなら、僕は手順で人を守ります」
「手順?」
「はい」
「剣と並べるものではない」
「でも剣は、抜かない方がいいでしょう?」
グラウヴァルトの目がわずかに動いた。
アルは何でもないことのように続ける。
「誰かが剣を抜く前に済む方法があるなら、そっちの方が楽です」
「結局、楽をしたいだけではないか」
「大事ですよ。楽なのは」
「お前は本当に……」
グラウヴァルトは額を押さえた。
だが、一瞬だけ。
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「……寝ながら国を守れるものなら、やってみろ」
「善処します」
「その返事は信用できん」
アルは笑い、空を見上げた。
雲が一つ、ゆっくりと流れていく。
努力は嫌い。
昼寝は好き。
けれど。
誰よりも、世界の変なところを見ていた。
◇
それは、夏の終わりだった。
レーヴェルト領を流れる川が、一夜にして濁った。
翌朝。
村人たちは、井戸の異変に気づいた。
水が赤茶けている。
鉄臭い。
飲めば腹を壊す。
家畜も口をつけない。
別の水源を掘るには、金も時間も足りない。
日が経つにつれ、不安は怒りへ変わった。
「城は何をしている!」
「税だけ取って、水も守れねえのか!」
そんな声が城下まで届いた。
グラウヴァルトは領政報告書を前に、黙っていた。
戦なら勝てる。
敵なら斬れる。
だが、水は剣で斬れない。
やがて彼は横へ視線を向けた。
窓際。
アルが本を読みながら欠伸をしている。
「……アルノルト」
「はい?」
「お前の手順とやらで、何とかしてみろ」
アルが目を瞬いた。
「僕が?」
「どうせ屋根の上で寝る暇があるのだろう」
「あります」
「認めるな」
「じゃあ行ってきます」
「軽いな!」
そして少年は、
書物。
縄。
白布。
小さな板。
それだけを抱えて村へ向かった。
◇
井戸の前には、荒れた顔の男たちが集まっていた。
「城の坊ちゃんが何しに来た!」
「この水を飲んでみろ!」
「子どもが腹を壊したんだぞ!」
怒号が飛ぶ。
アルは輪の真ん中へ入り、小さく手を挙げた。
「えー……まず、話を聞かせてください」
「聞いてどうする!」
「犯人を探します」
「なら早く――」
「じゃなくて」
アルは縄を取り出した。
「犯人を探す前に、場所を探します」
村人たちが黙った。
「……場所?」
「誰のせいかより、どこで汚れてるのかが先です」
アルは縄を三本並べた。
それぞれの先に、白布を結ぶ。
「これを上流、井戸、下流に一晩置きます」
「それで何が分かる」
「翌朝、どの布が一番汚れているかを見る」
「そんな子どもの遊びで?」
「遊びみたいなことから始めた方が、怒鳴るより早いですよ」
村人たちは顔を見合わせた。
誰も納得してはいない。
だが、怒鳴っても水は澄まなかった。
「……勝手にしろ」
◇
翌朝。
井戸の前へ、再び人が集まった。
アルは三枚の布を掲げる。
「上流が一番赤い」
赤茶けた布。
「井戸は薄い」
薄く染まった布。
「下流は、ほとんど透明」
村人が顔を見合わせた。
「上流……」
「あの粉砕所か?」
数人が同時に口にした。
近ごろ、領都から来た商人が、上流で鉄鉱石を砕き、洗っていた。
その排水が川へ流れ、地中を通って井戸へ染み出していたのだ。
「野郎……!」
「ぶっ壊してやる!」
男たちが立ち上がる。
アルが、すぐに両手を広げた。
「待って」
「止めるな!」
「止めます」
「なんでだ!」
「まだ測っただけです」
アルは板を取り出した。
「次は書きます」
「書く?」
「怒るのは、その後で」
村人たちは唖然とした。
アルは板へ項目を作った。
《何が起きた》
《誰が困った》
《何が必要》
《誰が何をできる》
「損した人と、原因になった人。両方を書きます」
「なんで相手の言い分まで?」
「一方だけ書いたら、ただの悪口になるから」
アルはさらさらと文字を書いた。
《井戸水汚染》
《被害:家畜七頭、腹痛者十三名》
《原因候補:粉砕所排水》
《村側希望:井戸修繕、清水桶、人夫》
《暴力による解決:不可》
村人の一人が眉をひそめた。
「不可って何だ」
「殴ったら、今度はそっちが悪くなるので」
「……」
「面倒でしょう?」
「面倒だな」
「だから先に書くんです」
◇
板は粉砕所の前へ立てられた。
商人トーヴァルは、最初こそ顔を真っ赤にした。
「私のせいだという証拠があるのか!」
アルは布を見せた。
「断定はしてません」
「なら何だ!」
「一緒に確認してください」
商人は黙った。
排水路。
水場。
井戸へ続く地層。
村人。
商人。
城の役人。
全員で見た。
結果は明白だった。
排水路の位置が悪い。
違法ではない。
だが、この土地では井戸へ影響する。
トーヴァルは顔をしかめた。
「……知らなかった」
「僕も今日知りました」
アルは答えた。
「知らなかったなら、直せばいいです」
「私だけが払うのか」
「全部じゃなくていいと思います」
「何?」
「粉砕所は仕事を作ってる。村も使ってる。全部潰したら困る人が出る」
アルは板へ新しく書いた。
《粉砕所:排水路変更、人夫負担》
《村:作業協力》
《城:井戸再調査》
《商人:清水桶提供》
「これなら?」
トーヴァルはしばらく板を見た。
「……私だけ悪者にはならんのだな」
「悪いことをしたなら別です」
アルは言った。
「でも今回は、知らなかっただけでしょう?」
男は深く息を吐いた。
「……分かった」
三日後。
井戸に、再び澄んだ水が戻った。
◇
グラウヴァルトは報告を受け、息子を執務室へ呼んだ。
「剣も振らず、魔法も使わず……どうやった」
「測って、書いて、話しました」
「それだけか?」
「はい」
「民は納得したのか」
「全員ではないです」
アルは正直に答えた。
「でも殴り合いにはなりませんでした」
「なぜだ」
「怒る順番を変えたからじゃないですかね」
「怒る順番?」
「殴る前に書く」
アルは指を一本立てた。
「書く前に測る」
二本。
「測る前に聞く」
三本。
「そうすると、怒る頃には少し面倒になってます」
グラウヴァルトは一瞬、黙った。
そして。
ふっと笑った。
戦場ではあまり見せない、静かな笑いだった。
「……戦より難しいことをしたな」
「そうですか?」
「怒りの矛先を、人から問題へずらした」
アルは照れくさそうに後頭部をかいた。
「剣よりペンの方が軽いですからね」
「最後までそれか」
その時。
執務室の扉が開いた。
「あにさま!」
セリア・レーヴェルトが駆け込んでくる。
兄より二つほど年下。
茶色の髪をきちんと整えた、小柄な少女だった。
「あにさま、すごいですわ!」
「ありがとう」
「それで」
セリアはすぐに手帳を開いた。
「次からは、誰が水を確認するのです?」
「え?」
「排水路の点検担当です」
「……粉砕所の人?」
「誰です?」
「……」
「井戸側の記録担当は?」
「……村の人」
「誰です?」
「……」
セリアは兄を見た。
アルは目をそらした。
「兄さま」
「はい」
「最後まで考えていませんね?」
「三日で水は戻ったよ?」
「三か月後に戻ったらどうするのです」
「……考えます」
「今、考えてください」
壁際で聞いていた若き武官、ライネル・ヴォルフが吹き出した。
「セリア様の方が、一枚上手だな」
「ライネルまで」
「事実だ」
アルは肩をすくめた。
「じゃあ、父上の後はセリアが継げばいいですよ」
セリアの筆が止まった。
「兄さま?」
「僕より向いてます。威厳もあるし」
「何を言って――」
「僕は」
アルは古書を手に取った。
何気ない口調で言った。
「勇者にでもなろうかと思います」
部屋の空気が止まった。
グラウヴァルトの表情から、笑みが消えた。
「……いま、何と言った?」
「勇者です」
アルは気づいていない。
父の声が、先ほどまでとは違うことに。
「困ってる人を見つけて、助けて、次へ行く。領地に縛られないし――」
「アルノルト」
「はい?」
「もう一度言ってみろ」
「勇者に――」
机が鳴った。
グラウヴァルトの拳が叩きつけられていた。
「ふざけるな!」
セリアがびくりと肩を震わせる。
ライネルの表情も変わった。
アルだけが、父を見ていた。
「父上?」
「だからこそ許せんのだ!」
グラウヴァルトは立ち上がった。
「今日、お前は自分で証明した!」
「何をです?」
「お前が無能ではないことをだ!」
アルの目が見開かれる。
「民の話を聞ける!」
「問題を見抜ける!」
「怒りを抑えられる!」
「人を動かせる!」
グラウヴァルトの声が執務室へ響く。
「その力を持ちながら、家も領地も責任も放り出して、好き勝手に勇者になるだと?」
「放り出すつもりは――」
「同じことだ!」
父は息子を睨んだ。
「お前はレーヴェルト家の嫡男だ!」
「この土地を守る責任がある!」
「剣が不得手なら知恵を使え!」
「魔術が嫌なら人を動かせ!」
「今日のようにな!」
アルは黙った。
父の言葉は、いつもの叱責とは違った。
失望ではない。
期待だった。
重いほどの。
「……だからですよ」
アルが小さく言った。
「何?」
「ここには父上がいる」
グラウヴァルトの眉が動く。
「セリアもいる」
アルは妹を見る。
「ライネルもいる。家臣もいる。村にも、考えられる人がいる」
「だから何だ」
「僕がいなくても、たぶん回せます」
「……」
「でも、外には」
アルは窓の向こうを見た。
「一人しかいない人がいるかもしれない」
「一人で全部やってる人」
「助けを呼べない人」
「仕組みが壊れてるのに、頑張るしかない人」
アルは古書を軽く持ち上げた。
「そういうところを、見てみたいんです」
グラウヴァルトの表情が硬くなる。
「それは、家督を捨ててよい理由にはならん」
「はい」
「なら残れ」
「嫌です」
即答だった。
ライネルが目を閉じた。
セリアが額を押さえた。
「兄さま……」
グラウヴァルトの眉間に青筋が浮かぶ。
「……今、何と言った」
「嫌です」
「理由は」
「勇者になりたいから」
「貴様……!」
「あと、旅もしたい」
「アルノルト!」
「昼寝できる場所も探したい」
「出ていけ!」
雷鳴のような怒声が響いた。
アルが瞬きをする。
「え?」
「出ていけ!」
グラウヴァルトは机を指した。
「その古書も持っていけ!」
「いいんですか?」
「捨てろと言っても持っていくだろう!」
「よく分かってますね」
「今すぐ出ていけ!」
セリアが泣きそうな顔になる。
「あにさま……」
アルは少し困ったように笑った。
「大丈夫ですよ」
古書を腰へ差す。
「少し、外を見てきます」
グラウヴァルトは背を向けた。
「戻ってくるな」
「たぶん戻ります」
「戻るな!」
「じゃあ、元気だったら帰ります」
「話を聞け!」
アルは扉へ向かう。
その前で、一度だけ振り返った。
「父上」
「……何だ」
「僕、探してきます」
「何をだ」
「誰か一人が頑張り続けなくても、ちゃんと回る方法を」
父は答えなかった。
「それが見つかったら、ここでも使えます」
「……勝手にしろ」
「はい」
アルは笑った。
「勝手にします」
扉が閉じた。
◇
城門の前。
セリアが兄を追いかけてきた。
「あにさま!」
小さな包みを押しつける。
「お弁当です」
「ありがとう」
「それと」
櫛。
「寝癖を直してください」
「必要かな」
「必要です」
「旅人だよ?」
「なおさらです」
アルは笑った。
「食べたら寝ます」
「まず歩いてください」
「善処します」
「絶対しない返事です」
セリアは唇を噛んだ。
少しだけ俯く。
「あにさま」
「うん?」
「……帰ってきますよね?」
アルは少し考えた。
それから、妹の頭を軽く撫でた。
「眠れる場所がなくなったら帰ります」
「それ、帰ってこない可能性があります」
「じゃあ、セリアが寝床を残しておいて」
「……分かりました」
セリアは目元を拭った。
「監査対象として確保しておきます」
「怖いなぁ」
「兄さまが悪いのです」
アルは門を出た。
小さな荷物。
古びた本。
寝癖の残った金髪。
風が吹く。
少年は一度も振り返らず、街道を歩いていった。
◇
城内。
執務室の窓から、グラウヴァルトは遠ざかる息子を見ていた。
怒りはまだ残っている。
だが、それだけではなかった。
理解できない。
腹が立つ。
それでも。
今日、井戸の前で民を動かした少年が無能ではないことだけは、もう否定できなかった。
「……愚か者め」
グラウヴァルトは小さく呟いた。
窓枠に手を置く。
そこには、幼い頃のアルの背丈を刻んだ傷が残っていた。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の刻みは、まだ小さい。
「寝る子は育つというが……」
グラウヴァルトは遠ざかる金髪を見た。
「どこまで育つ気だ」
その時。
扉が叩かれた。
「――失礼します」
入ってきたのは、ライネル・ヴォルフだった。
若き武官。
レーヴェルト家に仕え、実直さでは誰にも負けない男。
彼は礼儀正しく膝をつく。
「お呼びでしょうか」
グラウヴァルトは机上の封筒を手に取った。
「ライネル」
「はっ」
「お前に、アルノルトの補佐を命じる」
ライネルの顔が固まった。
「……補佐、でありますか?」
「名目は護衛」
グラウヴァルトは封筒を差し出す。
「実際は監視と保護だ」
「……」
「あの馬鹿息子を一人で旅に出したら、三日以内に財布をなくす」
「否定できません」
「五日で妙な商人に騙される」
「すでに古書で一度」
「十日で厄介事を拾う」
ライネルは少し考えた。
「十日もかかりますでしょうか」
グラウヴァルトが黙った。
「……三日か」
「おそらく」
二人とも、深く息を吐いた。
「旅費、身分証、紹介状だ」
「はい」
「アルには渡すな」
「なぜです?」
「なくす」
「承知しました」
即答だった。
グラウヴァルトはライネルを見る。
「嫌そうだな」
「滅相もございません」
「顔に書いてある」
「心から光栄に思っております」
「嘘が下手だな」
沈黙。
やがてグラウヴァルトの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「……ライネル」
「はっ」
「お前だけが頼りだ」
ライネルは今度だけ、真面目に頭を下げた。
「必ずお守りします」
「守るだけでは足りん」
「と申しますと?」
「変なことを始めたら止めろ」
「……善処します」
「お前までその返事をするな」
ライネルは立ち上がった。
扉へ向かう。
だが、その前で一度だけ振り返る。
「卿」
「何だ」
「アルノルト様は、不思議な方です」
「知っている」
「いえ」
ライネルは少し言葉を探した。
「人を怒らせないのではありません」
「……何?」
「怒っている人間に、怒る以外の仕事を与えるのです」
グラウヴァルトの目が細くなる。
「井戸の村でも、皆、最初は誰かを殴りたがっていました」
「だが途中から、布を見て、板を書いて、水路を掘っていた」
「はい」
ライネルは静かに言った。
「剣を抜く前に、別の仕事を渡してしまう」
グラウヴァルトは何も答えなかった。
ライネルは一礼し、部屋を出た。
◇
夕陽が、執務室を赤く染めていた。
机の上には、アルが残していった紙が一枚。
井戸の件で使った、簡単な手順書。
《聞く》
《測る》
《書く》
《話す》
グラウヴァルトは、それをしばらく見つめた。
「……手順で人を守る、か」
窓の向こう。
遠く。
一人の少年と、その後を急いで追いかける若い武官の影が見えた。
これから何が起きるのか。
父には分からない。
ただ一つだけ、嫌な予感はあった。
あの息子は、たぶん。
素直に冒険者ギルドへ向かうだけでは終わらない。
「……ライネル」
グラウヴァルトは誰もいない部屋で呟いた。
「胃薬を持っていけ」
もちろん、その声は届かなかった。
街道の向こう。
アルノルト・レーヴェルトは、古書を抱えて歩いていた。
努力するつもりは、あまりない。
勇者になれる保証もない。
だが。
誰か一人が無理をしなくても回る方法を探す旅だけは、もう始まっていた。




