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9/13

寝る子は育つと人は言う。勇者志望は城を追い出された

 王都ルミナリアから北西へ、馬で十日余り。

 街道が次第に細くなり、乾いた風が砂を運び始めるころ、小さな石造りの城下町が姿を現す。

 城と呼ぶには控えめで、館と呼ぶには立派。

 そこが、レーヴェルト辺境領。

 領主グラウヴァルト・レーヴェルト卿の居城だった。

 王国軍の重鎮。

 国王からこの地を「預かる」形で治める武人。

 戦では負け知らず。

 領民からの信頼も厚い。

 そんな男にも、ひとつだけ、どうしても思い通りにならないものがあった。

 嫡男。

 アルノルト・レーヴェルト。

 十五歳。

 剣を握れば、翌日は筋肉痛。

 魔術の講義では、開始三分で船を漕ぐ。

 好きなものは昼寝と読書。

 領民は陰でこう呼んでいた。

 ――寝台の賢者。

 ――日なたぼっこの坊っちゃん。

 兵士たちは、さらに容赦がない。

 ――あの坊ちゃんが領主になったら、敵が攻めてきても城ごと寝るぞ。

 グラウヴァルトは、その評判を聞くたびに額を押さえた。

 若いころ、いくつもの戦場を駆け抜けた男である。

 鳶色の鋭い目。

 深く刻まれた眉間の皺。

 戦場で積み重ねた勝利は数えきれない。

 だが最近では、戦よりも息子の方が彼を老けさせていた。

     ◇

 その日も、朝の訓練場には武官たちの掛け声が響いていた。

「セイッ!」

「セイッ!」

「セイッ!」

 だが、肝心の嫡男の姿はない。

 やがて侍従が走り込んできた。

「アルノルト様……また、屋根の上でございます」

「……屋根?」

 グラウヴァルトの額に、ぴきりと青筋が浮かぶ。

「はい。図書室の窓から抜け出されまして。陽当たりのよい屋根の上で、『風がいちばんの先生だ』と仰せになり、そのまま……」

「寝たか」

「はい」

 空気が止まった。

 グラウヴァルトは剣の柄を軽く叩き、長く息を吐いた。

「……もうよい。下ろすな」

「よろしいのですか?」

「叱って変わる子なら、とっくに騎士団長になっている」

 その時だった。

 城の上から、のんきな声が降ってきた。

「おーい、父上ー!」

 訓練場の兵士たちが一斉に上を見る。

 屋根の上。

 金髪の少年が寝転がっていた。

 片手にはパン。

 もう片方には、古びた革装丁の本。

「さっきから掛け声、一拍ずれてますよー!」

 兵士たちが固まる。

「『エイッ!』より『セイッ!』の方が息を吐きやすいです!」

 グラウヴァルトの視線が、ゆっくり天を向いた。

「アルノルト」

「はいはい、聞こえてますよ」

「降りろ」

「今、いいところなのに」

「降りろ」

「……はい」

 アルは屋根の縁へ腰をかけ、ひょいと飛び降りた。

 風が柔らかな金髪を乱す。

 手に持っていた本が、ぱらりと開いた。

 擦り切れた表紙には、消えかけた金文字で題名が残っている。

《努力しないで勇者になる方法》

 城へ出入りしていた怪しい行商人から、金貨五枚で買った古書だった。

 グラウヴァルトの眉間の皺が深くなる。

「まだその詐欺本を読んでいるのか」

「詐欺かどうかは最後まで読んでから判断します」

「金貨五枚払った時点で判断しろ」

「古書ですよ。秘伝ですよ」

「そう書けば売れると思ったのだろう」

 アルは古書を胸へ抱えた。

「でも、この本、いいことも書いてあるんですよ」

「例えば?」

「『知は剣に勝る』」

「それは、その本でなくとも誰かが言っている」

「じゃあ名著ですね」

「詐欺師の寄せ集めだ」

 兵士たちの間から笑いが漏れた。

 アルは気にした様子もなく本を閉じる。

「僕は、剣より知識で人を守りたいんです」

 グラウヴァルトは鼻を鳴らした。

「では問う。知識で腹は満ちるか?」

「満ちません」

 アルはあっさり答えた。

「でも、どうして腹が減っているのか考えられる人なら、次に腹を減らす人を減らせると思います」

 兵士たちの笑いが止まった。

 グラウヴァルトが目を細める。

「……口先だけではないか」

「かもしれません」

「世は甘くない。知識を振るうにも、生き残る腕が要る」

「うーん……じゃあ父上」

 アルは首を傾げた。

「父上が剣で国を守るなら、僕は手順で人を守ります」

「手順?」

「はい」

「剣と並べるものではない」

「でも剣は、抜かない方がいいでしょう?」

 グラウヴァルトの目がわずかに動いた。

 アルは何でもないことのように続ける。

「誰かが剣を抜く前に済む方法があるなら、そっちの方が楽です」

「結局、楽をしたいだけではないか」

「大事ですよ。楽なのは」

「お前は本当に……」

 グラウヴァルトは額を押さえた。

 だが、一瞬だけ。

 ほんのわずかに、口元が緩んだ。

「……寝ながら国を守れるものなら、やってみろ」

「善処します」

「その返事は信用できん」

 アルは笑い、空を見上げた。

 雲が一つ、ゆっくりと流れていく。

 努力は嫌い。

 昼寝は好き。

 けれど。

 誰よりも、世界の変なところを見ていた。

     ◇

 それは、夏の終わりだった。

 レーヴェルト領を流れる川が、一夜にして濁った。

 翌朝。

 村人たちは、井戸の異変に気づいた。

 水が赤茶けている。

 鉄臭い。

 飲めば腹を壊す。

 家畜も口をつけない。

 別の水源を掘るには、金も時間も足りない。

 日が経つにつれ、不安は怒りへ変わった。

「城は何をしている!」

「税だけ取って、水も守れねえのか!」

 そんな声が城下まで届いた。

 グラウヴァルトは領政報告書を前に、黙っていた。

 戦なら勝てる。

 敵なら斬れる。

 だが、水は剣で斬れない。

 やがて彼は横へ視線を向けた。

 窓際。

 アルが本を読みながら欠伸をしている。

「……アルノルト」

「はい?」

「お前の手順とやらで、何とかしてみろ」

 アルが目を瞬いた。

「僕が?」

「どうせ屋根の上で寝る暇があるのだろう」

「あります」

「認めるな」

「じゃあ行ってきます」

「軽いな!」

 そして少年は、

 書物。

 縄。

 白布。

 小さな板。

 それだけを抱えて村へ向かった。

     ◇

 井戸の前には、荒れた顔の男たちが集まっていた。

「城の坊ちゃんが何しに来た!」

「この水を飲んでみろ!」

「子どもが腹を壊したんだぞ!」

 怒号が飛ぶ。

 アルは輪の真ん中へ入り、小さく手を挙げた。

「えー……まず、話を聞かせてください」

「聞いてどうする!」

「犯人を探します」

「なら早く――」

「じゃなくて」

 アルは縄を取り出した。

「犯人を探す前に、場所を探します」

 村人たちが黙った。

「……場所?」

「誰のせいかより、どこで汚れてるのかが先です」

 アルは縄を三本並べた。

 それぞれの先に、白布を結ぶ。

「これを上流、井戸、下流に一晩置きます」

「それで何が分かる」

「翌朝、どの布が一番汚れているかを見る」

「そんな子どもの遊びで?」

「遊びみたいなことから始めた方が、怒鳴るより早いですよ」

 村人たちは顔を見合わせた。

 誰も納得してはいない。

 だが、怒鳴っても水は澄まなかった。

「……勝手にしろ」

     ◇

 翌朝。

 井戸の前へ、再び人が集まった。

 アルは三枚の布を掲げる。

「上流が一番赤い」

 赤茶けた布。

「井戸は薄い」

 薄く染まった布。

「下流は、ほとんど透明」

 村人が顔を見合わせた。

「上流……」

「あの粉砕所か?」

 数人が同時に口にした。

 近ごろ、領都から来た商人が、上流で鉄鉱石を砕き、洗っていた。

 その排水が川へ流れ、地中を通って井戸へ染み出していたのだ。

「野郎……!」

「ぶっ壊してやる!」

 男たちが立ち上がる。

 アルが、すぐに両手を広げた。

「待って」

「止めるな!」

「止めます」

「なんでだ!」

「まだ測っただけです」

 アルは板を取り出した。

「次は書きます」

「書く?」

「怒るのは、その後で」

 村人たちは唖然とした。

 アルは板へ項目を作った。

《何が起きた》

《誰が困った》

《何が必要》

《誰が何をできる》

「損した人と、原因になった人。両方を書きます」

「なんで相手の言い分まで?」

「一方だけ書いたら、ただの悪口になるから」

 アルはさらさらと文字を書いた。

《井戸水汚染》

《被害:家畜七頭、腹痛者十三名》

《原因候補:粉砕所排水》

《村側希望:井戸修繕、清水桶、人夫》

《暴力による解決:不可》

 村人の一人が眉をひそめた。

「不可って何だ」

「殴ったら、今度はそっちが悪くなるので」

「……」

「面倒でしょう?」

「面倒だな」

「だから先に書くんです」

     ◇

 板は粉砕所の前へ立てられた。

 商人トーヴァルは、最初こそ顔を真っ赤にした。

「私のせいだという証拠があるのか!」

 アルは布を見せた。

「断定はしてません」

「なら何だ!」

「一緒に確認してください」

 商人は黙った。

 排水路。

 水場。

 井戸へ続く地層。

 村人。

 商人。

 城の役人。

 全員で見た。

 結果は明白だった。

 排水路の位置が悪い。

 違法ではない。

 だが、この土地では井戸へ影響する。

 トーヴァルは顔をしかめた。

「……知らなかった」

「僕も今日知りました」

 アルは答えた。

「知らなかったなら、直せばいいです」

「私だけが払うのか」

「全部じゃなくていいと思います」

「何?」

「粉砕所は仕事を作ってる。村も使ってる。全部潰したら困る人が出る」

 アルは板へ新しく書いた。

《粉砕所:排水路変更、人夫負担》

《村:作業協力》

《城:井戸再調査》

《商人:清水桶提供》

「これなら?」

 トーヴァルはしばらく板を見た。

「……私だけ悪者にはならんのだな」

「悪いことをしたなら別です」

 アルは言った。

「でも今回は、知らなかっただけでしょう?」

 男は深く息を吐いた。

「……分かった」

 三日後。

 井戸に、再び澄んだ水が戻った。

     ◇

 グラウヴァルトは報告を受け、息子を執務室へ呼んだ。

「剣も振らず、魔法も使わず……どうやった」

「測って、書いて、話しました」

「それだけか?」

「はい」

「民は納得したのか」

「全員ではないです」

 アルは正直に答えた。

「でも殴り合いにはなりませんでした」

「なぜだ」

「怒る順番を変えたからじゃないですかね」

「怒る順番?」

「殴る前に書く」

 アルは指を一本立てた。

「書く前に測る」

 二本。

「測る前に聞く」

 三本。

「そうすると、怒る頃には少し面倒になってます」

 グラウヴァルトは一瞬、黙った。

 そして。

 ふっと笑った。

 戦場ではあまり見せない、静かな笑いだった。

「……戦より難しいことをしたな」

「そうですか?」

「怒りの矛先を、人から問題へずらした」

 アルは照れくさそうに後頭部をかいた。

「剣よりペンの方が軽いですからね」

「最後までそれか」

 その時。

 執務室の扉が開いた。

「あにさま!」

 セリア・レーヴェルトが駆け込んでくる。

 兄より二つほど年下。

 茶色の髪をきちんと整えた、小柄な少女だった。

「あにさま、すごいですわ!」

「ありがとう」

「それで」

 セリアはすぐに手帳を開いた。

「次からは、誰が水を確認するのです?」

「え?」

「排水路の点検担当です」

「……粉砕所の人?」

「誰です?」

「……」

「井戸側の記録担当は?」

「……村の人」

「誰です?」

「……」

 セリアは兄を見た。

 アルは目をそらした。

「兄さま」

「はい」

「最後まで考えていませんね?」

「三日で水は戻ったよ?」

「三か月後に戻ったらどうするのです」

「……考えます」

「今、考えてください」

 壁際で聞いていた若き武官、ライネル・ヴォルフが吹き出した。

「セリア様の方が、一枚上手だな」

「ライネルまで」

「事実だ」

 アルは肩をすくめた。

「じゃあ、父上の後はセリアが継げばいいですよ」

 セリアの筆が止まった。

「兄さま?」

「僕より向いてます。威厳もあるし」

「何を言って――」

「僕は」

 アルは古書を手に取った。

 何気ない口調で言った。

「勇者にでもなろうかと思います」

 部屋の空気が止まった。

 グラウヴァルトの表情から、笑みが消えた。

「……いま、何と言った?」

「勇者です」

 アルは気づいていない。

 父の声が、先ほどまでとは違うことに。

「困ってる人を見つけて、助けて、次へ行く。領地に縛られないし――」

「アルノルト」

「はい?」

「もう一度言ってみろ」

「勇者に――」

 机が鳴った。

 グラウヴァルトの拳が叩きつけられていた。

「ふざけるな!」

 セリアがびくりと肩を震わせる。

 ライネルの表情も変わった。

 アルだけが、父を見ていた。

「父上?」

「だからこそ許せんのだ!」

 グラウヴァルトは立ち上がった。

「今日、お前は自分で証明した!」

「何をです?」

「お前が無能ではないことをだ!」

 アルの目が見開かれる。

「民の話を聞ける!」

「問題を見抜ける!」

「怒りを抑えられる!」

「人を動かせる!」

 グラウヴァルトの声が執務室へ響く。

「その力を持ちながら、家も領地も責任も放り出して、好き勝手に勇者になるだと?」

「放り出すつもりは――」

「同じことだ!」

 父は息子を睨んだ。

「お前はレーヴェルト家の嫡男だ!」

「この土地を守る責任がある!」

「剣が不得手なら知恵を使え!」

「魔術が嫌なら人を動かせ!」

「今日のようにな!」

 アルは黙った。

 父の言葉は、いつもの叱責とは違った。

 失望ではない。

 期待だった。

 重いほどの。

「……だからですよ」

 アルが小さく言った。

「何?」

「ここには父上がいる」

 グラウヴァルトの眉が動く。

「セリアもいる」

 アルは妹を見る。

「ライネルもいる。家臣もいる。村にも、考えられる人がいる」

「だから何だ」

「僕がいなくても、たぶん回せます」

「……」

「でも、外には」

 アルは窓の向こうを見た。

「一人しかいない人がいるかもしれない」

「一人で全部やってる人」

「助けを呼べない人」

「仕組みが壊れてるのに、頑張るしかない人」

 アルは古書を軽く持ち上げた。

「そういうところを、見てみたいんです」

 グラウヴァルトの表情が硬くなる。

「それは、家督を捨ててよい理由にはならん」

「はい」

「なら残れ」

「嫌です」

 即答だった。

 ライネルが目を閉じた。

 セリアが額を押さえた。

「兄さま……」

 グラウヴァルトの眉間に青筋が浮かぶ。

「……今、何と言った」

「嫌です」

「理由は」

「勇者になりたいから」

「貴様……!」

「あと、旅もしたい」

「アルノルト!」

「昼寝できる場所も探したい」

「出ていけ!」

 雷鳴のような怒声が響いた。

 アルが瞬きをする。

「え?」

「出ていけ!」

 グラウヴァルトは机を指した。

「その古書も持っていけ!」

「いいんですか?」

「捨てろと言っても持っていくだろう!」

「よく分かってますね」

「今すぐ出ていけ!」

 セリアが泣きそうな顔になる。

「あにさま……」

 アルは少し困ったように笑った。

「大丈夫ですよ」

 古書を腰へ差す。

「少し、外を見てきます」

 グラウヴァルトは背を向けた。

「戻ってくるな」

「たぶん戻ります」

「戻るな!」

「じゃあ、元気だったら帰ります」

「話を聞け!」

 アルは扉へ向かう。

 その前で、一度だけ振り返った。

「父上」

「……何だ」

「僕、探してきます」

「何をだ」

「誰か一人が頑張り続けなくても、ちゃんと回る方法を」

 父は答えなかった。

「それが見つかったら、ここでも使えます」

「……勝手にしろ」

「はい」

 アルは笑った。

「勝手にします」

 扉が閉じた。

     ◇

 城門の前。

 セリアが兄を追いかけてきた。

「あにさま!」

 小さな包みを押しつける。

「お弁当です」

「ありがとう」

「それと」

 櫛。

「寝癖を直してください」

「必要かな」

「必要です」

「旅人だよ?」

「なおさらです」

 アルは笑った。

「食べたら寝ます」

「まず歩いてください」

「善処します」

「絶対しない返事です」

 セリアは唇を噛んだ。

 少しだけ俯く。

「あにさま」

「うん?」

「……帰ってきますよね?」

 アルは少し考えた。

 それから、妹の頭を軽く撫でた。

「眠れる場所がなくなったら帰ります」

「それ、帰ってこない可能性があります」

「じゃあ、セリアが寝床を残しておいて」

「……分かりました」

 セリアは目元を拭った。

「監査対象として確保しておきます」

「怖いなぁ」

「兄さまが悪いのです」

 アルは門を出た。

 小さな荷物。

 古びた本。

 寝癖の残った金髪。

 風が吹く。

 少年は一度も振り返らず、街道を歩いていった。

     ◇

 城内。

 執務室の窓から、グラウヴァルトは遠ざかる息子を見ていた。

 怒りはまだ残っている。

 だが、それだけではなかった。

 理解できない。

 腹が立つ。

 それでも。

 今日、井戸の前で民を動かした少年が無能ではないことだけは、もう否定できなかった。

「……愚か者め」

 グラウヴァルトは小さく呟いた。

 窓枠に手を置く。

 そこには、幼い頃のアルの背丈を刻んだ傷が残っていた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 最後の刻みは、まだ小さい。

「寝る子は育つというが……」

 グラウヴァルトは遠ざかる金髪を見た。

「どこまで育つ気だ」

 その時。

 扉が叩かれた。

「――失礼します」

 入ってきたのは、ライネル・ヴォルフだった。

 若き武官。

 レーヴェルト家に仕え、実直さでは誰にも負けない男。

 彼は礼儀正しく膝をつく。

「お呼びでしょうか」

 グラウヴァルトは机上の封筒を手に取った。

「ライネル」

「はっ」

「お前に、アルノルトの補佐を命じる」

 ライネルの顔が固まった。

「……補佐、でありますか?」

「名目は護衛」

 グラウヴァルトは封筒を差し出す。

「実際は監視と保護だ」

「……」

「あの馬鹿息子を一人で旅に出したら、三日以内に財布をなくす」

「否定できません」

「五日で妙な商人に騙される」

「すでに古書で一度」

「十日で厄介事を拾う」

 ライネルは少し考えた。

「十日もかかりますでしょうか」

 グラウヴァルトが黙った。

「……三日か」

「おそらく」

 二人とも、深く息を吐いた。

「旅費、身分証、紹介状だ」

「はい」

「アルには渡すな」

「なぜです?」

「なくす」

「承知しました」

 即答だった。

 グラウヴァルトはライネルを見る。

「嫌そうだな」

「滅相もございません」

「顔に書いてある」

「心から光栄に思っております」

「嘘が下手だな」

 沈黙。

 やがてグラウヴァルトの肩から、ほんの少し力が抜けた。

「……ライネル」

「はっ」

「お前だけが頼りだ」

 ライネルは今度だけ、真面目に頭を下げた。

「必ずお守りします」

「守るだけでは足りん」

「と申しますと?」

「変なことを始めたら止めろ」

「……善処します」

「お前までその返事をするな」

 ライネルは立ち上がった。

 扉へ向かう。

 だが、その前で一度だけ振り返る。

「卿」

「何だ」

「アルノルト様は、不思議な方です」

「知っている」

「いえ」

 ライネルは少し言葉を探した。

「人を怒らせないのではありません」

「……何?」

「怒っている人間に、怒る以外の仕事を与えるのです」

 グラウヴァルトの目が細くなる。

「井戸の村でも、皆、最初は誰かを殴りたがっていました」

「だが途中から、布を見て、板を書いて、水路を掘っていた」

「はい」

 ライネルは静かに言った。

「剣を抜く前に、別の仕事を渡してしまう」

 グラウヴァルトは何も答えなかった。

 ライネルは一礼し、部屋を出た。

     ◇

 夕陽が、執務室を赤く染めていた。

 机の上には、アルが残していった紙が一枚。

 井戸の件で使った、簡単な手順書。

《聞く》

《測る》

《書く》

《話す》

 グラウヴァルトは、それをしばらく見つめた。

「……手順で人を守る、か」

 窓の向こう。

 遠く。

 一人の少年と、その後を急いで追いかける若い武官の影が見えた。

 これから何が起きるのか。

 父には分からない。

 ただ一つだけ、嫌な予感はあった。

 あの息子は、たぶん。

 素直に冒険者ギルドへ向かうだけでは終わらない。

「……ライネル」

 グラウヴァルトは誰もいない部屋で呟いた。

「胃薬を持っていけ」

 もちろん、その声は届かなかった。

 街道の向こう。

 アルノルト・レーヴェルトは、古書を抱えて歩いていた。

 努力するつもりは、あまりない。

 勇者になれる保証もない。

 だが。

 誰か一人が無理をしなくても回る方法を探す旅だけは、もう始まっていた。

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