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10/13

嘘を食べる鐘、勇者志望は帳簿を透明にする

 その村では、報告のたびに数字だけが膨らんでいた。

 収穫高。

 納入額。

 寄付金。

 復旧費。

 備蓄量。

 どの帳簿も立派だった。

 数字だけを見れば、村は豊かだった。

 役所へ提出された報告書にも、村長宅の壁に貼られた表にも、景気のいい数字が並んでいる。

 だが、倉庫は空だった。

 畑は荒れ、畦は崩れ、働き手は減っている。

 子どもたちの靴底は破れ、老人たちは粥を薄めていた。

 紙の上では豊か。

 現実では貧しい。

 近隣の村では、いつしかその場所をこう呼ぶようになっていた。

 ――紙の村。

     ◇

 丘を越えた先に、場違いなほど立派な村門が見えた。

 彫刻の入った柱。

 色鮮やかな紋章。

 飾り窓には薄いガラスまで使われている。

 上には大きく、こう刻まれていた。

《栄光の穀倉村》

 ライネルが門を見上げた。

「……立派な門だな」

「村より立派です」

 セリアが即答する。

 リュシエルは鼻を鳴らした。

「虚飾の門。滅びる国の史書に出てきそう」

「二人とも辛口だね」

 アルはそう言いながら、門をくぐらなかった。

 足元へしゃがみ込む。

 畑の土をひとつまみ。

 指で揉む。

 乾いている。

 軽い。

 さらさらと風に逃げた。

「……疲れてるね」

 ライネルが首を傾げる。

「土がか?」

「うん」

 アルは立ち上がった。

「数字は豊かなのに、土は飢えてる」

 そのまま村へ入った。

     ◇

 村長宅の壁一面には、整然と表が貼られていた。

《今年度収穫高》

《王国納入量》

《村内備蓄》

《災害復旧費》

《寄付金残高》

 線はまっすぐ。

 字も美しい。

 印も揃っている。

 王都の役所へ持っていっても恥ずかしくない出来だった。

 村長は胸を張る。

「ご覧ください。今年の収穫は前年比一五〇パーセント。納入も順調。備蓄も十分。我が村は近隣でも有数の豊かな村です」

 窓の外。

 麦束が三つだけ、壁へ立てかけられていた。

 アルはその麦束を見た。

 次に帳簿を見る。

 また麦束を見る。

「この数字、誰が数えました?」

 村長の笑顔が少し固まった。

「誰が、と申されましても……村の書記が」

「実物を確認した人は?」

「もちろん……」

 村長の声が弱くなる。

「昔は役所の者も毎月来ておりました。しかし近ごろは人手不足らしく、もう一年以上……」

「じゃあ、この備蓄量は?」

「帳簿に――」

「帳簿じゃなくて、倉庫です」

 村長は黙った。

 セリアが壁の表へ近づく。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 目だけで数字を追っていく。

「兄さま」

「何?」

「変です」

「どこが?」

「全部です」

 ライネルが苦笑する。

「容赦がないな」

 セリアは表を指した。

「収穫高は去年より五割増えています」

「うん」

「納入量も増えています」

「うん」

「なのに備蓄量が減っていない」

 村長の顔から笑顔が消えた。

「本当に収穫が増えたなら、どこかへ数字が移るはずです」

 セリアは淡々と続ける。

「納めたのか」

「食べたのか」

「売ったのか」

「腐ったのか」

「種へ回したのか」

「ところが、何も動いていません」

 指先で帳簿を軽く叩く。

「収穫だけが増えています」

 ライネルが眉を寄せた。

「つまり?」

「村の状態を記録した帳簿ではありません」

 セリアは村長を見る。

「役所に見せるための帳簿です」

 村長の額に汗が浮かんだ。

「そ、それは……」

 アルは責めなかった。

 壁に貼られた数字を見ながら尋ねる。

「いつからです?」

「……何がでしょう」

「数字を増やし始めたの」

 沈黙。

 村長はやがて、目を伏せた。

「最初は……ほんの少しでした」

     ◇

 村長は椅子へ腰を落とした。

「三年前、不作がありました」

 声が低い。

「役所から視察が来た。隣村では、あまりに収穫が悪く、村そのものを統合する話が出た」

「統合?」

 アルが聞く。

「役所の管理上、維持できない村を近くの大きな村へまとめるのです」

 村長は拳を握った。

「それが怖かった」

 自嘲するように笑う。

「貧しい村だと思われれば、商人も寄らなくなる。若い者も出ていく。婚姻の話も減る」

「それで収穫量を?」

「少しだけ多く書いた」

 村長は俯いた。

「本当に少しだけだった」

 セリアが言う。

「ですが翌年、その数字が前年実績になります」

「……はい」

「前年より減ったと書けば、今度は理由を求められる」

「はい」

「だからまた増やした」

 村長は答えなかった。

 答える必要もなかった。

 アルは壁を見上げる。

「嘘が、次の嘘の基準になっちゃったんですね」

「……戻れなくなった」

 村長は小さく呟いた。

 しばらくして、アルが尋ねる。

「鐘楼、ありますよね?」

 村長の顔が上がった。

「……なぜ、それを?」

「村へ入る時に見えました」

 広場の端。

 古い石造りの鐘楼が、屋根の向こうに頭を出している。

 蔦に覆われ、長く使われた様子はない。

 村長の顔色が変わった。

「鳴らすつもりですか」

「どんな鐘なんです?」

 村長は苦々しい顔をした。

「古い言い伝えです」

「どんな?」

「――嘘を食べる鐘」

 リュシエルの黄金の瞳が細くなった。

     ◇

 鐘楼は、村の広場の端にあった。

 苔むした石段。

 絡みつく蔦。

 太い麻縄。

 その上に、黒ずんだ青銅の鐘が吊られている。

 村人たちも集まってきた。

「鳴らすのか?」

「やめろ」

「今さら何になる」

 不安げな声。

 怒った声。

 聞きたくないという声。

 アルは鐘楼を見上げた。

「本当に嘘が分かるんですか?」

 リュシエルが鐘へ近づく。

 指先を触れずに、空気を探るように手を伸ばした。

「魔力は残ってる」

「何の魔法?」

「そこまでは分からない」

「嘘を見抜く?」

「……違うわね」

 リュシエルは少し考えた。

「人間の心を読んでる感じじゃない」

 セリアが興味を示す。

「では?」

「何かを比べてる」

「何か?」

「鐘楼の下に置かれた物と……この土地そのもの?」

 リュシエルは眉を寄せた。

「古すぎて分かりづらい」

 村長が言った。

「昔から、収穫帳簿を鐘楼へ持っていき、収穫祭の前に鐘を鳴らしていたそうです」

「鐘が鳴ると?」

「帳簿に嘘があれば、墨が滲んだと」

「嘘じゃなかったら?」

「何も起こらない」

 アルは少し考えた。

「じゃあ試そう」

 村長が青ざめる。

「い、今ですか?」

「はい」

「村人が騒ぎます」

 アルは広場を見回した。

「もう現実が騒いでます」

     ◇

 今年の帳簿。

 去年の帳簿。

 備蓄記録。

 収穫報告。

 村の共同倉庫に関係する書類だけが、鐘楼の下へ並べられた。

 アルは縄を握る。

「全部の嘘が分かるわけじゃないんですよね」

 リュシエルが頷く。

「たぶんね」

「なら、ちょうどいいです」

「何が?」

「万能じゃない方が」

 リュシエルは首を傾げた。

 アルは縄を引いた。

 ――カァァン……。

 低い音が村を覆った。

 空気が震える。

 屋根の鳥が一斉に飛び立つ。

 子どもが母親の服を握った。

 そして。

 帳簿が、揺れた。

 紙が波打つ。

 墨がじわりと滲む。

 大きく書き足された数字。

 前年から無理に引き継がれた数字。

 実在しない備蓄。

 帳尻合わせで追加された収穫。

 そこだけが、水に濡れたように薄くなっていく。

「……」

 誰も声を出さなかった。

 リュシエルが目を細める。

「やっぱり」

「何か分かった?」

「嘘を読んでるんじゃない」

 セリアが帳簿を確認する。

「どういうことです?」

「この鐘、この村で共同管理されている物と、登録された記録のズレを見てる」

「……なるほど」

 セリアの目が変わった。

「では故意かどうかは関係ない?」

「たぶん」

 アルが笑う。

「嘘を食べる鐘じゃなくて、ズレを食べる鐘?」

 リュシエルが即答した。

「格好悪い」

「だから昔の人も『嘘を食べる鐘』って呼んだのかも」

「その方が伝説っぽいです」

 セリアはそう言いながら、手帳へ書き始める。

《鐘の作用範囲:村の共同財産に関する登録帳簿》

《故意の虚偽と単純な誤記を区別しない可能性》

《真偽判定ではなく、現物・登録記録間の不一致検出と推定》

 ライネルが呆れた顔をする。

「伝説の鐘を監査道具として分析するな」

「便利です」

「便利で済ませるな」

     ◇

 鐘が鳴り止んだ。

 風が帳簿のページをめくる。

 豊かな数字は消えていた。

 残ったのは、現実だった。

 備蓄。

 麦二袋。

 復旧費。

 不足。

 寄付金。

 不明。

 収穫。

 未確認。

 紙の上から豊かさが消えた。

 村が、貧しくなった。

 正確には。

 正しく貧しくなった。

 村長が膝をつく。

「わしは……村を守りたかっただけなのです」

 誰も答えない。

「貧しいと知られたくなかった」

「若い者に出ていってほしくなかった」

「役所に見捨てられたくなかった」

 声が震える。

「最初は少しだった」

 セリアが静かに言った。

「事情は理解します」

 村長が顔を上げる。

「ですが」

 セリアの声は冷静だった。

「責任がなくなるわけではありません」

「……はい」

「過去の帳簿を修正してください」

「はい」

「役所へ訂正報告を出します」

「……はい」

「不明な数字は、不明と書く」

「はい」

「分からないものを、見栄で埋めない」

 村長は深々と頭を下げた。

「承知しました」

 アルは横から言った。

「嘘を罰するだけなら簡単なんです」

 村人たちが顔を上げる。

「でも」

 アルは鐘を見た。

「嘘をつかなくても困らない仕組みを作った方が、長く持つと思います」

「仕組み?」

 書記役の男が聞いた。

「はい」

 アルは広場を見渡した。

「帳簿を、村長さんの家から出しましょう」

 村長が目を見開く。

「外へ?」

「広場へ」

「雨で駄目になりますぞ」

「箱に入れます」

「箱?」

 アルの視線が村門へ向いた。

 立派な門。

 彫刻。

 飾り窓。

 薄いガラス。

 村長の顔から血の気が引いた。

「……まさか」

 アルは笑った。

「使ってない飾り窓、ありますよね?」

「村の誇りですぞ!」

 アルは倉庫を見る。

「倉庫が空なのに、誇りだけ満杯なのは困ります」

 村長が言葉を失う。

 ライネルが顔を背けた。

 肩が少し震えている。

「笑ってます?」

「笑ってない」

「笑っていますね」

     ◇

 午後。

《栄光の穀倉村》

 その豪華な門から、飾りガラスが一枚外された。

 村長は最後まで悲しそうだった。

 だが、村の大工たちは楽しそうだった。

「こっちの方が役に立つな」

「門なんか見ても腹は膨れねえしな」

「言うな!」

 村長が叫ぶ。

 古い木材。

 門の飾りガラス。

 余っていた蝶番。

 それらを使って、広場に小さな掲示箱が作られた。

 外から中の帳簿が見える。

 ただし、勝手には触れられない。

 セリアが確認する。

「閲覧自由。記入は担当者のみ」

「鍵は三つにしよう」

 アルが言った。

「三つ?」

「計算役」

 指を一本。

「確認役」

 二本。

「鐘役」

 三本。

 村人たちがざわつく。

「鐘役?」

「数字がおかしいと思った時に、鐘を鳴らす人」

「それじゃ恨まれる」

 誰かが言った。

 アルは頷く。

「だから役職にします」

「役職?」

「誰か一人が勇気を出して告発する形にすると、その人が悪者になります」

 村人たちが黙った。

「でも『鐘役だから鳴らしました』なら、少しだけやりやすい」

 セリアの筆が止まる。

「……勇気を、役職にする」

「うん」

「ずいぶん変な発想ですね」

「毎回みんなに勇気を出してもらうの、大変だから」

「そこですか」

「大事だよ」

 アルは笑った。

「勇気がなくても正しいことができるようにした方が楽でしょう?」

 ライネルが腕を組む。

「鳴らした者が責められないよう、手順そのものにするわけか」

「そう」

「誰かが間違った」

 アルは鐘を見る。

「鐘を鳴らす」

「それから調べる」

「間違っていたら直す」

「故意に誤魔化したなら、その時初めて責任を調べる」

 セリアが続けた。

「つまり、鐘は処罰開始の合図ではなく、確認開始の合図」

「それ」

 アルが笑う。

「罰の鐘じゃなくて、修正の鐘です」

 リュシエルが鐘を見上げた。

「人間って、間違いを認めるのにも仕組みが必要なのね」

「必要だよ」

「面倒」

「そこが人間のいいところでもあるんじゃない?」

「どこが?」

「弱いから、助け合う方法を考える」

 リュシエルは少しだけ黙った。

「……変なの」

     ◇

 鐘役を決めようとすると、誰も手を挙げなかった。

「……」

「……」

「……」

 アルも無理には勧めない。

 その時。

 杖の音がした。

「わしがやる」

 一人の老婆が歩いてきた。

 腰は曲がっている。

 白髪。

 皺だらけ。

 だが目だけは鋭い。

 村長が驚く。

「婆さま」

「耳は遠いが、数字を見る目はまだ腐っとらん」

「でも――」

「わしはもう嫌われても困らん」

 老婆は鐘楼の縄を握った。

「若い者が鳴らせん時は、わしが鳴らす」

 アルが深く頭を下げる。

「ありがとうございます」

「礼は早い」

 老婆が鼻を鳴らした。

「数字が正しくなってから言え」

「はい」

     ◇

 新しい帳簿が作られた。

《今週の数字》

 収穫 未確認

 備蓄 麦二袋

 納入 停止中

 修繕費 不足

 寄付金 残額不明

 損耗 調査中

 未確認。

 不足。

 不明。

 そんな言葉ばかり。

 以前の帳簿なら、決して並ばなかった言葉だった。

 書記役の男が不安そうに言う。

「こんなものを役所へ見せたら、怒られませんか?」

 セリアが答える。

「怒られるかもしれません」

「……」

「ですが、嘘を書けばもっと怒られます」

「それもそうか」

「不明は罪ではありません」

 セリアは帳簿を指した。

「分からないのに分かったふりをする方が問題です」

 村長は黙って頷いた。

     ◇

 夕方。

 最初の《鐘の日》が始まった。

 村人たちが広場へ集まる。

 書記役が読み上げた。

「収穫。未確認」

「備蓄。麦二袋」

「納入。停止」

「修繕費。不足」

「寄付金。残額不明」

 そこで。

 ――カン。

 老婆が鐘を鳴らした。

 皆が振り向く。

「何だ?」

「寄付金だ」

 老婆が言う。

「銀貨三枚、あるはずだ」

 村人たちがざわついた。

 一人の男が、はっと顔を上げる。

「……俺だ」

 皆が見る。

 男は顔を真っ赤にした。

「春祭りのあと、俺が預かった。家の箱に入れたまま……忘れてた」

 沈黙。

 以前なら。

 怒号が飛んだかもしれない。

 盗んだのか。

 なぜ黙っていた。

 責任を取れ。

 だが老婆は一言だけ言った。

「持ってこい」

「はい」

 男は走った。

 しばらくして銀貨三枚を持って戻る。

 書記役が帳簿へ書く。

《寄付金残額 銀貨三枚》

 老婆が頷いた。

「次」

 それだけだった。

 アルが笑う。

「ちゃんと鳴りましたね」

 セリアは鐘を見る。

「故意の嘘ではなくても反応する」

「やっぱりズレを食べる鐘」

「名称変更は反対です」

「セリアまで?」

「格好悪いです」

     ◇

 その日から。

 村には《鐘の日》が生まれた。

 誰かが数字を間違えたら、鐘を鳴らす。

 現物と帳簿が違えば、鐘を鳴らす。

 理由を調べる。

 直す。

 故意だったなら、その後で責任を問う。

 最初から罪人を探さない。

 まず、数字を現実へ戻す。

 新しい帳簿を抱えた村長が、アルへ頭を下げた。

「あなたのおかげで、嘘が減りました」

 アルは首を横へ振った。

「まだ分かりません」

「え?」

「嘘が減ったかは、もう少し見ないと」

 そして鐘を見る。

「ただ、嘘も間違いも、隠れたままにしにくくなりました」

 村長はしばらく黙った。

 やがて苦笑する。

「……それだけでも十分ですな」

「はい」

「そして、これは私の仕事です」

 村長は修正途中の古い帳簿を持ち上げる。

「三年分、全部直します」

 セリアが答えた。

「お願いします」

「役所への訂正報告も」

「それも、村長であるあなたの仕事です」

「はい」

 村長は深く頭を下げた。

 逃げなかった。

     ◇

 夜。

 広場には、新しい帳簿箱が立っていた。

 門から外された少し歪んだガラスが、月明かりを反射している。

《今週の数字》

 豊かな数字はない。

 立派な数字もない。

 あるのは、

《不足》

《未確認》

《修正中》

 そればかり。

 だが。

 初めて、村と帳簿が同じものを見ていた。

 焚き火のそば。

 セリアが手帳を開く。

《観察》

《紙上のみ豊かな村に対し、公開帳簿制度を導入》

《鐘の魔術は万能真偽判定ではなく、村内共同財産と登録帳簿の齟齬検出と推定》

《鍵三つ》

《計算役》

《確認役》

《鐘役》

《鐘役=個人の勇気に依存しない訂正開始担当》

 少し止まり。

 さらに書く。

《兄、勇気まで省力化》

《評価:思想としては怠惰。制度としては合理的》

 ライネルが横から覗く。

「酷い評価だな」

「褒めています」

「そうなのか?」

「非常に」

 その向こう。

 リュシエルが鐘楼を見上げていた。

「アル」

「なに?」

「今日のわたしは?」

「何が?」

 リュシエルがむっとする。

「褒めるところ」

「ああ」

「忘れてたの?」

「考えてた」

「なら早く」

 アルは笑った。

「今日のリュシエルは、鐘が人の心を読む魔法じゃないって気づいてくれた」

「当然ね」

「それに、村人が怖がらないようにずっと静かにしててくれた」

「……」

「すごく助かったよ」

 リュシエルの耳が、少しだけ赤くなった。

「なら、いいわ」

 ライネルが小声で呟く。

「本当に毎回それで機嫌が直るんだな」

「聞こえてるわよ」

「すまん」

 アルが笑った。

 その時。

 胸元の古書が、ひとりでに薄く開いた。

 ぱらり。

 余白へ墨のような文字が滲む。

《嘘は罰より光を恐れる》

 ライネルだけが、それに気づいた。

「……また書いた」

 胃のあたりを押さえる。

「しかも今回は妙にまともだな」

 アルはもう欠伸をしていた。

「じゃあ寝ようかな」

「兄さま」

 セリアの声が飛ぶ。

「署名練習」

「明日」

「昨日もそう言いました」

「では明後日」

「駄目です」

「疲れた人間に努力を強要すると効率が――」

「十回だけです」

「五回」

「十五回」

「増えた」

「交渉しようとした罰です」

 ライネルが呆れる。

「嘘を食べる鐘の前で、堂々と先延ばしするな」

 リュシエルが笑った。

「鳴らしてみる?」

「先延ばしは嘘じゃないよ!」

 鐘楼の上。

 風が吹いた。

 古い鐘が、ほんの少し揺れる。

 村はまだ貧しい。

 倉庫も明日いきなり満ちるわけではない。

 荒れた畑も、一晩では戻らない。

 役所へ訂正報告を出せば、叱責もあるだろう。

 それでも。

 もう紙の上だけ豊かな村ではなかった。

 本当の収穫。

 本当の備蓄。

 本当の不足。

 それを、皆で見られる村になった。

 アルは村を豊かにはしなかった。

 まず。

 正しく貧しい村へ戻した。

 そこからでなければ、何も始められない。

 月明かりの中。

 透明な帳簿箱が静かに光る。

 そして鐘は。

 誰かを罰するためではなく。

 間違いを直すための次の音を、黙って待っていた。

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― 新着の感想 ―
アルの美学と静かで確かな旅、心に染みるようなお話でした。兄弟とのやりとりもコミカルで楽しく最新話まで拝読いたしました。これからのアルの旅にも期待満載です! 本に行動の後文字が浮かぶのも、心地いい余韻を…
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