努力しない勇者志望、帳簿の中の三つの村を一つに戻す
徴税騒動・後編
村へ着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
街道から少し外れた谷間にある、小さな農村だった。
家は三十軒ほど。
畑。
共同井戸。
小さな水車。
そして村の中央には、昨年の洪水で半分崩れた集会所が残っている。
痩せた男――村人たちからハンスと呼ばれていた男は、アルたちを村長の家へ案内した。
「村長!」
戸を開ける。
「役人のところにいた旅の人たちを連れてきた!」
中から、白髪の老人が出てきた。
手には油灯。
アルたちを見る。
ライネル。
セリア。
リュシエル。
そしてアル。
「……お前さんが、種もみを返させたという勇者様か」
「志望です」
「そこは訂正するんだな」
「大事なので」
村長は少しだけ笑った。
だが、すぐに顔を引き締める。
「話は聞いた。二ツ柏の袋だな」
「はい」
セリアが一歩前へ出る。
「正式な村印は三ツ柏と伺いました」
「そうだ」
「二ツ柏について、ご存じですか?」
老人はしばらく黙った。
そして言った。
「……ある」
ライネルの目が細くなる。
「何の印だ」
「去年の洪水の時に使った、仮印だ」
「仮印?」
村長は家の奥へ戻り、一枚の木札を持ってきた。
そこには、二枚の柏葉が彫られていた。
「大水で集会所が流された時、村印も一度なくなった」
「なくなった?」
「ああ。帳面も半分濡れた。倉も流れた。役所から救援物資が来たんだが、誰に何を渡したか分からなくなる」
老人は二ツ柏の木札を撫でた。
「だから急いで作った」
「救援物資の管理用ですか」
セリアが尋ねる。
「そうだ。三ツ柏の正式印が見つかるまで、二ツ柏を使った」
アルが種袋を見る。
「じゃあ、この袋は」
「去年、救援でもらった種だろう」
ハンスが目を見開く。
「まだ残ってたのか」
「増やした分も混じってる」
村長が答えた。
「去年もらった種を全部食わず、一部を播いた。その収穫から、また春用を取っておいた」
「なるほど」
アルは頷いた。
「二ツ柏は、別の村の印じゃない」
「そうだ」
セリアの目が鋭くなる。
「では、無印は?」
「家ごとの袋だ。村倉に入れる前のものは、いちいち印なんぞ押さん」
「つまり」
セリアが手帳へ書く。
「三ツ柏――正式な柏谷村」
「二ツ柏――災害時の仮管理印」
「無印――各世帯所有」
「そういうことになりますね」
「袋だけならな」
村長の声が低くなった。
セリアが顔を上げる。
「袋だけなら?」
「帳面にもある」
部屋が静かになった。
村長は奥の棚へ向かう。
古い木箱を引き出した。
紐を解く。
中から出てきたのは、何冊もの帳面だった。
濡れて波打ったもの。
新しい紙へ書き写したもの。
煤けたもの。
端が破れたもの。
老人は、その中から三冊を取り出した。
一冊目。
《柏谷村 年貢名寄帳》
二冊目。
《柏谷東避難組 救援配給帳》
三冊目。
《柏谷高台仮住居 居住者名簿》
ライネルが嫌そうな顔をした。
「……三冊」
「はい」
セリアの声が、少しだけ冷たくなった。
アルは三冊を眺める。
「同じ人が載ってる?」
「たぶんな」
村長が言った。
「洪水の直後は、それどころじゃなかった」
川沿いの家が流された。
東側へ逃げた者。
高台へ移った者。
親戚宅へ避難した者。
救援物資を受け取るには人数を把握する必要があった。
だから避難先ごとに名簿を作った。
「その後、みんな戻った?」
「戻った者もいる。高台にそのまま家を建てた者もいる」
「帳面は?」
「……そのままだ」
セリアが目を閉じた。
ライネルも額を押さえた。
「嫌な予感がする」
「私もです」
「僕も」
「アルは楽しそうだな」
「してないよ」
「している」
セリアは三冊を机の上へ並べた。
「確認します」
◇
油灯が一つ増えた。
二つ増えた。
やがて村長の家の卓上は、帳面と紙で埋まった。
セリアが一冊目を読む。
「ハンス・ベーカー」
「俺だ」
「妻マルタ。子二名。耕地二枚」
「ああ」
次。
《柏谷東避難組》
「ハンス・ベーカー」
「……俺だ」
「妻マルタ。子二名」
「同じだ」
三冊目。
《柏谷高台仮住居》
「ハンス・ベーカー」
「……俺だよ」
沈黙。
アルが指を三本立てた。
「ハンスさん、三人いるね」
「一人だ!」
「帳面では三人」
「増えてねえ!」
「ですよね」
セリアはすでに次を見ている。
「ゲオルグ・マイヤー」
「死んだ親父だ」
「いつです?」
「洪水の冬だ」
「現在の年貢名寄帳には?」
「……残っています」
セリアの声が冷える。
「東避難組にも」
「高台名簿にも」
ハンスが顔を引きつらせた。
「親父、死んでから三人に増えたのか」
「縁起でもないこと言うな」
村長が叱る。
アルは横から覗く。
「これも同じだ」
「何が?」
「耕地面積」
アルが三冊を指した。
「二枚」
「二枚」
「二枚」
ライネルが気づく。
「三つの場所で、それぞれ二枚持っていたことになっている?」
「帳面だけなら」
セリアが答えた。
「合計六枚です」
「実際は?」
「二枚だ」
ハンスが即答した。
「先祖代々二枚しかねえ!」
「牛は?」
アルが聞く。
「一頭」
三冊を見る。
一頭。
一頭。
一頭。
アルが呟いた。
「牛まで三頭になってる」
「なってねえ!」
「帳面の中では豊かですね」
「現実じゃ一頭だ!」
リュシエルは横から帳面を覗き込んでいた。
「人間は紙の中だと増えるの?」
「増やしてはいけません」
セリアが答える。
「じゃあ減らせばいいじゃない」
「今からやります」
「簡単ね」
「簡単ではありません」
セリアの声が、ほんの少し強くなった。
「誰かが同じ人間だと証明しなければならないので」
リュシエルは首を傾げる。
「本人がここにいるじゃない」
「本人が『自分です』と言うだけで帳簿を書き換えられたら、不正も簡単になります」
「……人間、本当に面倒」
「ええ」
セリアは珍しく素直に同意した。
◇
一時間後。
問題の形が見えてきた。
村人三十一世帯。
ところが帳簿上では、
正式村落。
東避難組。
高台仮住居。
合わせて七十三世帯存在していた。
もちろん、人間が増えたわけではない。
同じ家族が二冊、場合によっては三冊に重複して載っている。
「これだ」
ライネルが徴税吏から預かった写しを机へ置いた。
今日使われていた徴税台帳。
そこには、
《柏谷村》
《柏谷東組》
《柏谷高台新地》
三つの名前が並んでいた。
村長の顔から血の気が引いた。
「……別々の村になってる」
「帳簿上は」
セリアが言った。
「はい」
アルがしゃがみ込み、三冊を横から眺めた。
「災害の時は、分けた方が便利だったんだね」
「そうでしょう」
セリアも頷く。
「救援物資を配るには、避難先ごとに人数を把握した方が早い」
「高台に何人」
「東側に何人」
「元の村に何人」
「その時は正しかった」
「はい」
「でも災害が終わった後に戻さなかった」
「そうです」
アルは三冊を指で寄せた。
「疲れた制度だ」
セリアが兄を見る。
「第三原則ですか」
「うん」
洪水の時には必要だった。
だから作った。
だが、その役目が終わった後も帳簿だけが残った。
その帳簿が別の部署へ回る。
別の人間が見る。
事情を知らずに数字だけ足す。
その結果――。
一人の農民が三人になる。
一枚の畑が三枚になる。
一頭の牛が三頭になる。
そして税も三倍に近づいていく。
悪意がなくても。
数字は人を追い詰める。
「徴税吏を呼びましょう」
セリアが言った。
◇
徴税吏は、村の外で馬車とともに待っていた。
逃げてはいなかった。
リュシエルがいたから、という理由も多少はある。
「逃げたら追えるわよ」
と本人が笑顔で言ったせいでもある。
「脅してないわ」
「十分脅している」
ライネルはそう言いながら、徴税吏を村長宅まで連れてきた。
三冊の帳面が並んでいる。
徴税吏の顔が固まった。
「これは……」
セリアは感情を交えず言った。
「あなたが使用していた徴税台帳には、柏谷村、柏谷東組、柏谷高台新地の三項目があります」
「ある」
「三つの別村として処理されていますね」
「……ああ」
「この三冊を見てください」
徴税吏は読む。
一枚。
二枚。
三枚。
やがて、顔色が変わった。
「同じ名前……?」
「はい」
「いや、待て」
男は自分の台帳を開く。
「支局の名寄せ資料では、東組は二十七世帯。高台新地は十五世帯――」
「その二十七世帯のうち十八世帯が柏谷村本帳と重複」
セリアが言う。
「高台十五世帯のうち十一世帯がさらに重複しています」
「……」
「死亡者四名」
「転出済み三名」
「耕地重複二十一件」
「家畜重複十三件」
徴税吏は黙り込んだ。
アルが横から覗く。
「三つの村から税を取ってたんじゃなくて」
指を一本立てる。
「一つの村に三回請求してたんだね」
「……」
徴税吏の額に汗が浮かんだ。
ハンスが拳を握る。
「てめえ……!」
「待て」
ライネルが止める。
「まだだ」
「何がまだなんだ!」
「こいつが作った帳簿なのかを確認していない」
ハンスは歯を食いしばった。
ライネルは徴税吏を見る。
「お前が作ったのか」
「違う」
徴税吏は即答した。
「支局から渡された」
「いつ」
「五日前だ」
「作成者は」
「……知らん」
「確認しなかった?」
「台帳に載っていたから」
セリアが静かに言った。
「またそれですか」
徴税吏は俯いた。
「私は……徴税額を回収するのが仕事だ」
「それ自体は間違っていません」
セリアは言う。
「しかし、現地確認も職務の一部では?」
「……」
「今年の数字が去年の三倍近くになっていて、疑問を持たなかった?」
「災害軽減期間中だったので、未納分の集計が――」
「だからこそ確認するのでは?」
徴税吏は答えなかった。
アルは男を見た。
「あなた、悪い人?」
ライネルが振り返る。
「聞き方!」
「だって分からないから」
「もう少し言葉を選べ」
徴税吏は疲れた顔でアルを見た。
「賄賂は取っていない」
「うん」
「盗んだ物もない」
「うん」
「だが」
男は帳簿を見た。
「確認もしなかった」
「うん」
「……それで十分、悪いかもしれんな」
アルは少し考えた。
「悪い仕事だったんじゃない?」
徴税吏が顔を上げる。
「人が悪いかどうかは、僕にはまだ分からない」
アルは三冊の帳面を指した。
「でも、この仕事のやり方は駄目だった」
誰も口を挟まなかった。
「あなたを殴っても」
アルは続ける。
「次の人が同じ帳簿を持ってきたら、また同じことになる」
ハンスの拳が少し緩んだ。
「だったら」
アルは笑った。
「帳簿の方を殴りましょう」
「兄さま」
セリアが言った。
「書類で殴るという表現を定着させないでください」
「物理的には殴らないよ」
「当たり前です」
◇
作業は夜中まで続いた。
三冊を一冊にする。
といっても、古い帳面を捨てるわけではない。
それでは災害時の記録が消えてしまう。
セリアは新しい紙を広げた。
上に書く。
《柏谷村 統合名寄せ表》
左から、
《正式世帯》
《旧東避難組》
《旧高台仮住居》
《現住所》
《耕地》
《家畜》
《災害軽減対象》
《備考》
ハンスが覗き込む。
「何だ、この表」
「同じ人間を横へ並べます」
セリアが答えた。
「三冊を消すのではなく、“この三人は同一人物です”と分かるようにする」
「なるほど」
「過去の記録は残す」
「でも税を計算する時は一人」
「そうです」
リュシエルが感心したように言った。
「人間を増やさずに済むのね」
「最初から増えていません」
「紙の中では増えてたじゃない」
「だから直しています」
アルは床に座り込んでいた。
しばらく帳面を見ていたが、やがて壁へ背を預ける。
「眠い」
セリアが即座に言った。
「寝ないでください」
「僕、こういう細かい作業苦手」
「知っています」
「セリア得意でしょ」
「兄さま?」
「手伝います」
アルは起き直った。
ライネルが小さく笑う。
「妹には弱いな」
「セリア、本気で怖い時あるから」
「聞こえています」
「ほら」
徴税吏も作業へ加わった。
自分が持っていた名寄せ帳と照合する。
「この家は東組では父親名義だが、正式帳では息子名義になっている」
「相続はいつです?」
「洪水の冬」
「死亡記録と一致」
「こちらは高台新地に新規世帯として載っているが」
「元の村の家が流されたからだ」
村長が答える。
「では住所変更。新規ではない」
セリアが書く。
一つ。
また一つ。
人が一人へ戻っていく。
畑が一枚へ戻る。
牛も一頭へ戻る。
帳簿の中だけで膨らんでいた村が、少しずつ現実の村と同じ大きさになっていく。
深夜。
最後の一行を書き終えたセリアが、ペンを置いた。
「三十一世帯」
全員が顔を上げる。
「現在居住世帯、三十一」
「徴税台帳では七十三」
「重複、死亡、転出を整理した結果です」
徴税吏が椅子へ座り込んだ。
「……半分以下か」
「はい」
「税額は?」
「現在の資料だけでは正式確定できません」
セリアはきっぱり言った。
「ただし」
数字を書く。
「少なくとも、今日あなたが徴収しようとしていた額にはなりません」
徴税吏は額を押さえた。
「私は」
しばらくして、低く言った。
「村を潰すところだったのか」
アルが答える。
「種まで取ったら、たぶん」
男は黙った。
◇
翌朝。
村の広場に、新しい板が立った。
《徴税確認板》
一、正式な税額を確認する
二、災害軽減証文を確認する
三、世帯重複を確認する
四、種もみ・農具・最低限の生活物資は別に記録する
五、徴収品は必ず控えを残す
六、村側と徴税側の双方が確認する
ハンスが板を見る。
「税を払わなくていい、とは書かないんだな」
「駄目です」
アルが答えた。
「なんでだ?」
「税は必要だから」
村人たちが少し意外そうな顔をした。
アルは指を折る。
「道」
「橋」
「兵士」
「役所」
「災害の時の救援物資」
「全部、お金が要ります」
「だったら昨日の役人が正しかったってのか」
「そこは違う」
アルは荷馬車に戻された種袋を見る。
「取るべき税は取る」
「でも」
種袋を指す。
「来年の種まで取ったら、来年はもっと税が取れなくなる」
次に鍋。
「鍋まで取って、村人が病気になったら?」
農具。
「鍬を取って畑を作れなくしたら?」
干し肉。
「冬の食料を全部取って、人が逃げたら?」
アルは首をかしげた。
「それ、税を取ってるんじゃなくて、税を払う人を壊してるよね」
村長が低く笑った。
「なるほどな」
徴税吏は何も言わなかった。
だが、否定もしなかった。
「税は」
セリアが続けた。
「正しく徴収されるから制度として成立します」
「多く取れば得、ではありません」
「少なくても駄目」
「多くても駄目」
「同じ基準で、同じ条件の者から、説明できる額を取る」
「それが必要です」
ハンスが頭を掻く。
「難しいな」
「だから帳面があります」
「帳面のせいで今回こうなったんじゃないのか」
「だから」
セリアは笑った。
「帳面を直します」
◇
問題は、誰が支局へ持っていくかだった。
「私が行く」
徴税吏が言った。
全員が彼を見る。
「統合名寄せ表」
「災害軽減証文」
「徴税台帳」
「全部持って戻る」
ハンスが険しい顔をする。
「途中で捨てるんじゃねえだろうな」
「疑うのは当然だ」
徴税吏は言った。
昨日までなら、怒鳴り返していたかもしれない。
だが今日は違った。
「だから控えを作る」
セリアが少しだけ眉を上げる。
「学習しましたね」
「昨日一日で嫌というほどな」
「では三部」
「三部?」
「村保管」
「徴税吏携行」
「レーヴェルト家保管」
徴税吏がセリアを見る。
「そこまでやるのか」
「やります」
即答だった。
「一部なくなっても、二部残ります」
アルが感心する。
「セリア、強い」
「紙は燃えます」
「怖い理由だった」
「洪水でも流れます」
「もっと怖い」
「だから複製します」
リュシエルが手を挙げた。
「わたしが持てば?」
「燃やす可能性があります」
「燃やさないわよ!」
「昨日馬車を凍らせました」
「凍らせただけ!」
「紙に湿気は敵です」
「そこ!?」
ライネルが珍しく吹き出した。
「リュシエル。今回は諦めろ」
「納得いかない」
◇
昼前。
徴税吏の馬車が村を出る準備を始めた。
荷台は昨日よりずっと軽い。
積まれているのは、
正式査定まで保留となった一部の毛皮。
余剰と判断された酒樽一本。
そして書類。
種もみはない。
鍋もない。
子どもの服もない。
婚礼道具もない。
徴税吏は御者台へ乗る前に、アルたちへ向き直った。
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「お前は」
アルを見る。
「税を減らしたいのか?」
アルは少し考えた。
「別に」
「……別に?」
「必要なら払えばいいと思う」
徴税吏が拍子抜けした顔をする。
「でも」
アルは続ける。
「同じ人から三回取るのは変だし」
「来年の種まで取るのも変だし」
「誰が何を取ったか分からないのも面倒です」
「面倒?」
「はい」
「結局そこか」
ライネルが呟いた。
アルはにこりと笑う。
「正しい額を一回だけ払って終わる方が、みんな楽でしょ」
徴税吏はしばらくアルを見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……確かにな」
◇
馬車が去ったあと。
セリアは村にもう一つだけ仕組みを残した。
《証文箱》
木箱。
それだけだった。
ただし、中は三つに分かれている。
《税》
《土地》
《災害》
「大事な書類はここへ」
セリアが説明する。
「受け取った日付も書いてください」
「読めない者は?」
「村長か、読める人に読んでもらう」
「その場合」
チトがどこからともなく現れた。
「立会人も書く?」
セリアが振り向く。
「あなた、なぜここに」
「宵の見張りの巡回」
胸を張る。
「あと数字の勉強」
「……良いですね」
セリアは頷いた。
「立会人も書きましょう」
チトが嬉しそうに板へ書き込む。
《証文を受け取ったら》
《日付》
《誰から》
《内容》
《読んだ人》
《立ち会った人》
ハンスが苦笑した。
「だんだん役所みたいになってきたな」
「役所に負けないために役所になるのか?」
村人の一人が言う。
アルが首を振った。
「違うよ」
「じゃあ何だ?」
「役所と同じものを見るため」
村人たちが黙る。
「向こうだけ帳面を持っていて」
「こっちは記憶だけだったら」
「揉めた時、弱いでしょ」
「だから同じものを残す」
村長は証文箱を見た。
「書類で殴るためか」
「村長さんまで」
セリアが嫌そうな顔をした。
広場に笑いが起きた。
◇
その日の夕方。
アルたちは村外れで休んでいた。
ようやく静かだった。
ライネルは地図を広げる。
セリアは報告書を書く。
リュシエルは草の上へ寝転がり、空を見ている。
アルは木の根元で、すでに半分眠っていた。
「兄さま」
「うん?」
「まだ寝ないでください」
「終わったよ?」
「父上への報告内容を確認してください」
「セリアが書けば大丈夫」
「あにさま」
「見ます」
アルは身体を起こした。
報告書には、こう書かれていた。
《柏谷村徴税騒動》
《原因》
《災害時に作成された複数の臨時名簿が、統合されないまま徴税台帳へ転記された可能性》
《結果》
《一村三十一世帯が、帳簿上七十三世帯として重複計上》
《生産維持物資である種もみまで追徴対象となった》
《暫定措置》
《徴収停止》
《統合名寄せ表作成》
《災害軽減証文との再照合》
《証文控え三部作成》
《村側書類保管箱設置》
その下。
《所見》
《徴税吏個人の不正については現時点で証拠なし》
《ただし現地確認不足は明白》
《原因を個人の怠慢のみと断定するのは危険》
《災害時臨時台帳の終了・統合手順が存在しないことが本質的問題と推定》
アルが頷いた。
「うん」
「何です?」
「セリア、ちゃんと人のせいだけにしてない」
「兄さまに言われたくありません」
「褒めてるよ」
「分かっています」
セリアは少しだけ照れたように、視線を紙へ戻した。
そして、一行を追加する。
《改善案》
《臨時名簿には必ず終了条件を記載すること》
アルの眠そうだった目が少し開く。
「それいいね」
「災害が終わった後、いつ通常帳簿へ戻すのかを書かなかったから今回の問題が起きました」
「作る時に、やめ方も決める」
「はい」
「制度にも片づけがいるんだ」
「兄さまの荷物にも必要です」
「それは別問題」
「同じです」
「違うと思う」
◇
その時。
ライネルが気づいた。
アルの横に置かれた古書。
『努力しないで勇者になる方法』
風もないのに、ページが開く。
もう慣れた。
慣れたくはないが、慣れた。
余白へ、墨が滲む。
《一時の仕組みには、終わる日を書け》
ライネルは眉を寄せた。
「……今回はまともだな」
「何が?」
アルが振り向く。
「何でもない」
「また本?」
セリアが見る。
ライネルは少し迷った。
だが、まだ黙っておいた。
「いや」
「怪しい」
「お前の兄ほどではない」
「それはそうですね」
「妹が即答するな」
リュシエルが身を起こす。
「それで」
三人を見る。
「今日はわたし、何もしてないんだけど」
「うん」
「褒めるところある?」
アルは少し考えた。
「徴税吏を食べなかった」
「それだけ?」
「馬車も完全には凍らせなかった」
「もっとあるでしょう!」
「ずっと話を聞いてた」
リュシエルが止まる。
「退屈そうだったのに」
「……退屈だったわよ」
「でも帰らなかった」
「相棒だから当然でしょ」
「そこが偉い」
リュシエルは黙った。
耳が少し赤くなる。
「……まあね」
セリアは手帳を開く。
《観察七。リュシエル、戦力として出番がなくても相棒として同行可能。改善》
「何を書いてるの!」
「監査です」
「見せなさい!」
「嫌です」
「燃やす!」
「リュシエル」
アルが呼ぶ。
「……燃やさない」
ライネルは胃を押さえた。
「税務問題より、お前たちの方が疲れる」
◇
翌朝。
村長とハンスたちが、村の入口まで見送りに来た。
ハンスは昨日取り返した種袋を担いでいる。
三ツ柏。
二ツ柏。
無印。
三種類。
「これ」
ハンスが二ツ柏の袋を叩いた。
「捨てた方がいいか?」
「なんで?」
「紛らわしいだろ」
アルは少し考えた。
「残した方がいいんじゃない?」
「いいのか?」
「去年、助かった証拠でしょ」
ハンスが黙る。
洪水。
避難。
救援。
二ツ柏。
それは混乱の原因になった。
だが同時に、
村が生き延びるために必要だった印でもあった。
「間違っていたのは、この袋じゃない」
アルは言う。
「終わった仕組みを、終わらせなかったことだから」
村長がゆっくり頷いた。
「では残そう」
「はい」
「ただし」
セリアが割って入る。
「袋に大きく《旧・災害救援印》と書いてください」
「情緒がないな」
ライネルが言う。
「情緒より誤徴収防止です」
「はい」
ハンスが笑った。
「書いとくよ」
村長がアルへ手を差し出す。
「勇者志望様」
「はい」
「税は払う」
「はい」
「払うべき分はな」
「それでいいと思います」
「だが二度と、同じ税は三回払わん」
「それが一番です」
二人は握手した。
◇
村を離れる。
今度こそ。
本当に。
冒険者ギルドのある街へ向かう。
ライネルは何度も地図を確認した。
「東」
「はい」
「この道を真っ直ぐ」
「はい」
「今日は絶対に曲がらない」
「はい」
「困っている人を見ても」
「見るくらいは」
「見るな」
「冷たいなあ」
「お前の“見る”は制度改革の開始宣言だ」
セリアが手帳を開く。
「兄さまの寄り道回数を記録しておきましょうか」
「やめよう」
「現在、予定変更六回」
「そんなに?」
「数えていなかったのですか」
「数えると疲れるから」
「記録は私がします」
「それ、僕が楽になる仕組みだね」
「兄さまへの監査資料です」
「楽じゃなかった」
リュシエルが空を見上げる。
「ねえ」
ライネルが即座に言った。
「匂いの話なら言うな」
「違うわよ」
「本当に?」
「街が見える」
三人が一斉に前を見る。
遠く。
丘の向こう。
城壁。
塔。
煙突。
そして、大きな門。
冒険者ギルドのある街。
アルの顔が明るくなる。
「着いた!」
ライネルは空を仰いだ。
「……長かった」
「数日のはずですよ」
セリアが言う。
「精神的には一か月だ」
「大げさだなあ」
「竜を拾い、牧場を作り、盗賊を雇い、井戸を直し、川へ土地を返し、徴税台帳まで直した男が言うな」
「僕、そんなに働いた?」
「働いてないから余計腹が立つ!」
リュシエルが笑う。
セリアも、小さく口元を緩めた。
アルは街を見た。
ようやく着く。
冒険者ギルド。
勇者になるなら、まずは登録。
依頼を受ける。
経験を積む。
そういう普通の旅が、これから始まる。
――はずだった。
アルは胸元の古書を抱え直した。
「冒険者ギルドって、どんな仕組みなんだろう」
ライネルの足が止まった。
「アル」
「なに?」
「その言葉を撤回しろ」
「なんで?」
「嫌な予感がする」
セリアは静かに手帳を開いた。
「観察準備」
「セリア様までやめてください!」
リュシエルは楽しそうに笑った。
「今度は何を変えるの?」
「まだ何も変えないよ」
三人が同時に答えた。
「「「嘘」」」
アルは少し傷ついた顔をした。
「信用ないなあ」
「実績だ!」
街道に、ライネルの声が響いた。
アルノルト・レーヴェルト。
勇者志望。
剣も魔法も、ほどほど。
だが、帳簿の中で三つに増えた村を、一つへ戻した。
来年の種は残った。
税も消えてはいない。
誰かが得をして、誰かが全部損をしたわけでもない。
ただ、払うべきものを一度だけ払えるようにした。
それだけだった。
けれど時々世界を少しだけ良くするのは、そんな当たり前を当たり前に戻すことなのかもしれない。




