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努力しない勇者志望、盗賊を護衛に転職させる。

 夕方の街道は、やけに静かだった。

 昼間には鳥の声がしていた森も、日が傾くにつれて息を潜めている。

 木々の影は長く伸び、道の両脇に黒い縞を作っていた。

 ライネルは歩幅を少し狭めた。

 右手は剣の柄。

 左目は前方。

 耳は森の奥。

 旅慣れた者なら、この空気で分かる。

 何かが待っている。

「アル」

「うん?」

「この先、出るぞ」

「盗賊?」

「たぶんな」

 アルは少しだけ嬉しそうな顔をした。

 ライネルは即座に眉をひそめる。

「今、楽しそうな顔をしたな」

「してないよ」

「した」

「困ってる人かもしれないなって」

「盗賊を困ってる人に分類するな」

「だって、豊かな人は普通、森で人を襲わないよ」

「例外はある」

「それはそれで話を聞きたい」

「聞くな。まず生き残れ」

 リュシエルは二人の少し後ろを歩いていた。

 黒髪が夕陽を受け、赤みを帯びている。

 彼女は退屈そうに欠伸をした。

「盗賊なら、焼けばいいんじゃないの」

「焼くな」

 ライネルが即答する。

「殺せば出なくなるでしょ」

「そういう問題ではない」

「では、半分だけ焼く?」

「焼く前提を捨てろ」

 アルは苦笑した。

「リュシエル、今回は焼かない方向で」

「なぜ」

「話を聞くから」

「話を聞いてから焼くの?」

「焼かない」

「人間は面倒ね」

「面倒だから仕組みが要るんだよ」

 その時だった。

 森の奥から、低い口笛が三度響いた。

 ライネルの足が止まる。

 前方の茂みが揺れた。

 右手の木陰から三人。

 左手の岩陰から二人。

 背後の枝の上にも一人。

 人数は十数人。

 包囲としては悪くない。

 だが、足運びが粗い。

 靴が合っていない者がいる。

 握っている短剣も、手入れが行き届いていない。

 盗賊というより、盗賊をやるしかなくなった集団だった。

「金目の物を置いていけ」

 先頭に立っていたのは、片目に古い傷のある大男だった。

 肩幅は広い。

 腕も太い。

 ただし、鎧は継ぎ接ぎだらけ。

 斧を持つ手には力があるが、顔には疲れがある。

 その横には、縫い手袋をはめた女。

 さらに木の上には、痩せた少年が短弓を構えている。

 ライネルは静かに剣を抜いた。

「下がれ、アル」

「待って」

「待たん」

「まず聞こう」

「盗賊に囲まれている状況で、最初にすることは聞き取りではない」

 アルはライネルの横から一歩前に出た。

 リュシエルが目を細める。

「危なくなったら焼くわよ」

「焼かないで」

「焦がす程度」

「それもやめて」

 アルは盗賊たちを見回し、にこりと笑った。

「こんばんは」

 盗賊たちが固まった。

 大男が眉をひそめる。

「……何だ、その挨拶は」

「夕方なので」

「ふざけてんのか」

「いいえ。まず、あなたたちのことを知りたいなと」

「俺たちは盗賊だ」

「名前は?」

「名乗るわけねえだろ」

「じゃあ、僕が当ててもいい?」

 空気が妙な方向にずれた。

 ライネルは額に手を当てる。

「アル、やめろ。そういう遊びではない」

 だが、アルはもう大男を見ていた。

「あなた、斧を投げるのが得意ですね。でも最近、右肩を痛めてる」

 大男の顔がわずかに動いた。

「……なぜ分かる」

「斧を持ってるのに、肘を少し下げてる。肩をかばってる動きです。あと、投げる人は普通、利き足の踏み込みが強い。でもあなたは左足に体重を逃がしてる」

 盗賊たちがざわついた。

 アルは次に、縫い手袋の女を見た。

「あなたの手袋、縫い直してますね。しかも逆返し。切れにくい縫い方です。器用ですね」

 女の眉が跳ねる。

「……何でそんなとこ見るのよ」

「目立ったので」

 次に、木の上の少年を見上げた。

「君は風下にいる。ちゃんと匂いを流してる。弓より偵察向きだね」

 少年は驚いて、弦を引く手を緩めた。

「……おれ、匂い消してたのに」

「上手いよ。けど、枝が少し鳴った」

 ライネルは心底嫌そうに呟いた。

「盗賊を褒めるな」

「でも本当に上手いよ」

「そういう問題ではない」

 大男は斧を構え直した。

「お前、何者だ」

「アルノルト。勇者志望です」

「勇者?」

「志望です」

「勇者が俺たちに何の用だ」

「提案に来ました」

 大男は一瞬、言葉を失った。

「……提案?」

「はい」

 アルは指を三本立てた。

「一つ。あなたたちは今日から盗賊をやめる」

「ふざけるな」

「二つ。その代わり、街道の見回りをする」

「何を言ってる」

「三つ。見回りと護衛に対して、ちゃんと給料をもらう」

 森が沈黙した。

 盗賊たちは互いに顔を見合わせる。

 リュシエルがぼそりと言った。

「それ、盗賊じゃなくなるわね」

「うん」

「だからやめるって言ったんだ」

 ライネルは低く言う。

「アル、これは簡単な話ではない。盗賊は罪人だ。雇えば済むというものではない」

「もちろん。だから条件を作る」

 アルは大男を見た。

「まず、初犯かどうか」

 盗賊の何人かが目をそらした。

 大男は歯を食いしばる。

「……殺しはしてねえ」

「荷は奪った?」

「食い物と金を少し」

「村は襲った?」

「村は襲ってねえ。あそこまでやったら戻れなくなる」

「じゃあ、まだ戻れる」

 大男は声を荒げた。

「簡単に言うな!」

 その声には、怒りよりも悲鳴が混じっていた。

「俺たちは好きでこんなことしてんじゃねえ! 畑は駄目になった。雇い口はねえ。街へ行けば門前払いだ。冬を越す食い物もねえ。だったら、道を通る奴から取るしかねえだろ!」

 女が続けた。

「盗んだ金で酒飲んでるわけじゃない。薬と小麦と、子どもの靴を買っただけよ」

 木の上の少年は、小さく呟いた。

「おれ、字が書ければ、役所で働けたかもしれないって」

 その言葉で、場の空気が変わった。

 ライネルも、剣を少しだけ下げた。

 リュシエルも、腕を組んだまま黙る。

 アルは頷いた。

「やっぱり、あなたたちは盗賊に向いてない」

「何だと」

「盗賊なら、もっと悪い顔をする。あなたたちは、言い訳してる顔です」

「馬鹿にしてんのか」

「してない。まだ戻りたい人の顔だって言ってる」

 大男は何も言えなかった。

 アルは道端にしゃがみ、棒で地面に線を引いた。

「仕組みを作りましょう」

「仕組み?」

「はい。盗賊をやめろ、だけでは無理です。明日食べるものがなければ、人はまた盗みます。だから、盗まない方が得になる形を作る」

 ライネルが静かに言った。

「……街道見回りか」

「うん。旅人は盗賊を怖がっている。村は街道が安全になれば物が入る。あなたたちは道に詳しい。なら、盗む側から守る側に回ればいい」

 大男は鼻で笑った。

「誰が俺たちを信用する」

「信用は、いきなりしません」

 アルは即答した。

「最初は三日間だけ。試用期間です」

「試用?」

「三日間、盗みゼロ。見回り六回。護衛二件。記録を残す。問題がなければ、村とギルドに臨時治安協力として届ける」

「ギルドが認めるわけないだろ」

「ギルドに持っていく書類は、ライネルが書きます」

「また俺か」

 ライネルが目を細めた。

「お前は俺を何だと思っている」

「字が綺麗な人」

「褒めても書かんぞ」

「でも書いてくれるでしょ」

「……内容次第だ」

 アルは笑った。

 大男は、まだ疑っている。

「給料はどうする」

「歩合にします」

「歩合?」

「盗賊が出なかった日が稼ぎ日。護衛した荷馬車の数、見回りの回数、旅人からの評価。そういう数字で決める」

 女が眉をひそめた。

「評価って、誰がするの」

「旅人です。白石と黒石を置いてもらいます」

 アルは足元から白い石と黒い石を拾った。

「白石は助かった。黒石は困った。字が書けない人でも参加できます」

 木の上の少年が、身を乗り出した。

「それ、おれが数えるの?」

「うん。君は記録係」

「おれ、字が下手だ」

「数字からでいい。白がいくつ、黒がいくつ。それだけでも十分」

 少年の顔が少し変わった。

 盗賊の中で、初めて誇らしさに近いものが浮かんだ。

 リュシエルはそれを見て、小さく呟いた。

「褒められると、人間は顔が変わるのね」

「竜も変わるよ」

「焼くわよ」

「照れてる」

「焼く」

「やめろ」

 ライネルが低く止めた。

 アルはさらに地面に書いた。

「条件は三つだけ」

 一、村から盗まない。

 二、仲間から盗まない。

 三、夜に酒を飲まない。

 大男が目を細める。

「三つ目は何だ」

「夜に酒を飲むと、見回りが雑になります。雑な見回りは信用をなくします」

 女が頷いた。

「それは正しいね。こいつら、酔うとすぐ大声出すから」

 何人かが気まずそうに目をそらした。

「あと、違反したら?」

 ライネルが問う。

「一回目は罰金。二回目は出禁。三回目はギルドに引き渡し」

「現実的だな」

「許す仕組みと、戻れない線は両方いると思う」

 大男は黙っていた。

 沈黙が長くなる。

 森の中で、鳥が一羽鳴いた。

 やがて、大男は斧を下ろした。

「……俺たちに、守る側になれってのか」

「はい」

「盗賊が?」

「元盗賊が」

「名前はどうする」

「宵の見張り」

 アルは即答した。

「夕方に出るなら、夕方を守る人になればいい」

 女が小さく笑った。

「悪くないね」

 少年も木から降りてきた。

「おれ、記録やる」

 大男は二人を見た。

 そして、アルを見た。

「三日だ」

「はい」

「三日だけ、やってやる。だが、村が俺たちを追い返したら終わりだ」

「追い返されないように、先に説明しましょう」

「誰が」

「ライネルが」

「だから俺を何だと」

「誠実そうな説明係」

「またそれか」

 リュシエルは楽しそうに笑った。

「なら、わたしは後ろに立っておくわ」

「威圧になるから少し離れてて」

「面倒ね」

「焼かないだけ偉いよ」

「褒めるならもっと具体的に褒めなさい」

「今日のリュシエルは、殺せる相手を殺さずに待ってくれて偉い」

 リュシエルは一瞬で黙った。

 その褒め方は、彼女には効きすぎた。

「……ふん」

 耳が赤い。

 ライネルはまた胃を押さえた。

     ◇

 村の広場に着いた頃には、日が沈みかけていた。

 村人たちは、元盗賊たちの姿を見て一斉に身構えた。

 当然だった。

 昨日まで街道で荷を奪っていた連中が、今日は旅人と一緒にやってきたのだ。

 怒号が飛ぶ。

「何しに来た!」

「盗賊を連れてくるな!」

「殺されるぞ!」

 大男は歯を食いしばり、拳を握った。

 その手が斧に伸びかけた瞬間、アルが前に出た。

「話を聞いてください」

「勇者様、そいつらは盗賊です!」

「はい。だから、盗賊をやめてもらいます」

 村人たちは一瞬、言葉を失った。

 アルは広場の真ん中に立ち、地面に石を置いた。

 白石。

 黒石。

 そして、木の板。

「三日間だけ、試します」

 アルは村人たちに説明した。

 元盗賊たちを、街道の見回りと護衛に回すこと。

 盗みを働いた場合は、罰金と出禁、最終的にはギルドへ引き渡すこと。

 報酬は、見回り回数と旅人の評価によって決まること。

 村から食料を少し出す代わりに、街道の安全を買うこと。

 村長は険しい顔で腕を組んでいた。

「信用できん」

「はい。信用しなくていいです」

 アルは言った。

「だから、見えるようにします」

「見える?」

「毎日、板に書きます。見回り何回。護衛何件。苦情いくつ。白石いくつ。黒石いくつ」

 ライネルが補足する。

「記録は村と本人たちの両方で確認する。嘘があれば、その日の報酬はなし。違反があれば即停止だ」

 女が手を挙げた。

「うちらも条件を出したい」

 村人たちがざわつく。

 女は真っ直ぐに言った。

「石を投げないでほしい。子どもに泥棒って言われるのは仕方ない。でも、仕事中に石を投げられたら守れない」

 広場が静かになった。

 大男も続いた。

「俺たちは、三日働く。盗まない。酒も飲まない。だから、三日だけ見ろ。三日で駄目なら、俺たちは出ていく」

 少年が小さく言った。

「おれ、記録つける。間違えたら、直す」

 村長は長く黙っていた。

 やがて、白い石を一つ拾った。

 コトン。

 板の前に置いた。

「三日だ」

 それが合図だった。

 村人たちが、一人、また一人と石を置いていく。

 白石が増える。

 黒石もいくつか置かれた。

 反対も当然ある。

 だが、白石が上回った。

 アルは頷いた。

「では、三日間の試用開始です」

「その言い方、妙に役所くさいな」

 ライネルが言った。

「仕組みはちょっと役所くさい方が続きます」

「嫌な真理だ」

     ◇

 一日目。

 元盗賊たちは、街道を二回見回った。

 旅人の老夫婦の荷車を押し、壊れた車輪を村まで運んだ。

 白石三つ。

 黒石一つ。

 黒石の理由は「顔が怖い」。

 大男は落ち込んだ。

「顔はどうしようもねえだろ」

「笑顔の練習をしましょう」

 アルが言った。

「やめろ。余計怖くなる」

 ライネルが止めた。

 二日目。

 少年が見回り日誌を書いた。

 字は震えていたが、数字は正確だった。

 女は旅人の破れた袋を縫い直し、銅貨を一枚もらった。

 白石五つ。

 黒石ゼロ。

 三日目。

 夕方、別の盗賊まがいの二人組が街道に出た。

 大男は斧を抜かなかった。

 代わりに、前に出て低く言った。

「ここは、もう俺たちの稼ぎ場じゃねえ。守り場だ」

 相手は逃げた。

 その日の白石は八つ。

 黒石は一つ。

 理由は「大男の声が怖すぎて馬が驚いた」。

 大男はまた落ち込んだ。

「声もかよ」

「少しずつですね」

 アルが笑う。

 村人たちは、もう石を投げなかった。

 子どもたちは遠巻きに見ていたが、少年の記録板には興味を持ち始めていた。

「白が多いと、給料増えるの?」

「増える」

「じゃあ黒を入れたら減るの?」

「減る」

「じゃあ嘘ついたら?」

「バレたら、全部なし」

 少年は子どもたちにそう説明していた。

 その顔は、三日前よりも少し大人びていた。

     ◇

 三日後の夕方。

 広場に、村人たちと元盗賊たちが集まった。

 板には記録が並んでいる。

 一日目 見回り二回 護衛一件 白三 黒一

 二日目 見回り三回 護衛一件 白五 黒ゼロ

 三日目 見回り三回 護衛二件 白八 黒一

 村長はそれを見て、深く息を吐いた。

「……続けよう」

 大男は顔を上げた。

「いいのか」

「よくはない。だが、盗賊に戻られるよりはいい」

「そりゃそうだ」

「それに」

 村長は少しだけ口元を緩めた。

「昨日、うちの孫が言っていた。夕方の道が怖くなくなった、と」

 大男は黙った。

 女は目を伏せた。

 少年は板を抱えたまま、泣きそうな顔で笑った。

 アルは手を叩いた。

「では、正式名称を決めましょう」

「宵の見張り、だったな」

 大男が言った。

「はい」

 アルは新しい板に大きく書いた。

《宵の見張り》

 三原則

 一、村から盗まない

 二、仲間から盗まない

 三、夜に酒を飲まない

 報酬

 見回り・護衛・白石評価に応じて支払い

 違反

 一回目 罰金

 二回目 出禁

 三回目 ギルド引き渡し

 ライネルが最後に確認する。

「これで、ただの私刑や見逃しではなくなる。村の臨時治安組織だ。ギルドへの届けは俺が書く」

「ありがとう、ライネル。すごく頼りになる」

「今回は本当にそう思っていそうだから腹が立つ」

 リュシエルは板を見上げた。

「人間は、名前を変えると役割まで変わるのね」

「全部ではないけど、きっかけにはなる」

 アルは言った。

「盗賊と呼ばれれば盗賊の顔になる。見張りと呼ばれれば、見張りの顔になろうとする」

 大男は斧を背負い直した。

「俺はガロだ」

 初めて名乗った。

「こっちはミナ。あの小僧はチト」

 女が軽く手を上げる。

 少年は恥ずかしそうに頭を下げた。

 アルも笑って返す。

「よろしく、ガロ、ミナ、チト」

「勇者アル」

「志望です」

「なら、勇者志望アル」

「それでお願いします」

 広場に笑いが起きた。

 ほんの少し前まで、石を投げられかけていた相手が、そこで笑っていた。

 ライネルはその光景を見て、低く呟く。

「……また一つ、戦わずに済ませたな」

「うん?」

「いや」

 ライネルは首を振った。

 アルは気づかない。

 自分がしたことの異常さに。

 盗賊を倒すのは簡単だ。

 強い者ならできる。

 だが、盗賊という役割をほどき、別の役割を与えるのは簡単ではない。

 それは力ではなく、構造の問題だった。

     ◇

 夜。

 村の外れで、小さな焚き火が燃えていた。

 宵の見張りたちは、交代で街道を見回っている。

 村の広場には、白石と黒石の板。

 そして、新しい規則。

 リュシエルは焚き火のそばで膝を抱えていた。

「今日は、焼かなかった」

「うん。ありがとう」

 アルは湯飲みを渡した。

「褒めるなら、今よ」

「今日のリュシエルは、すごく我慢してくれた」

「我慢?」

「うん。力があるのに、使わないで待つのは難しいから」

 リュシエルは湯飲みを見つめた。

 しばらく黙ってから、小さく言う。

「……竜は、力を使うためにいると思っていた」

「たぶん、使わない力にも意味があるよ」

「そういう言い方、本当にずるい」

「本当のことだよ」

「なお悪いわ」

 その横で、ライネルは古書を見ていた。

 アルの胸元に置かれた古書。

 また、勝手に開いている。

 余白に文字が滲んでいた。

《剣で奪う者には、役目を与えよ。役目なき刃は、飢えて人を傷つける》

 ライネルは眉間に皺を寄せた。

「……この本、やはりただの古書ではないな」

「ん? 何か言った?」

「いや」

 ライネルは本を閉じようとした。

 だが、指が止まる。

 この本は危険かもしれない。

 しかし、今日の出来事を見る限り、悪意があるとは言い切れない。

 むしろ、アルの異常な発想を、後から肯定しているようにも見える。

 ライネルは静かに本から手を離した。

「お前自身が気づくまでは、見ておくしかないか」

「ライネル?」

「何でもない。寝るなら火のそばで寝るな」

「じゃあ少し離れて寝る」

「今寝るな。まだ夕食前だ」

「夕食後に寝る準備として寝る」

「意味が分からん!」

 その時、村長が慌てた様子で近づいてきた。

「勇者志望様」

「はい?」

「申し訳ない。もう一つ、相談がある」

 村長の顔は暗かった。

「井戸が、枯れかけている。去年から水が減っていてな。このままだと、畑どころか飲み水も危ない」

 空気が、また重くなる。

 ライネルは額に手を当てた。

「……次は井戸か」

 リュシエルは井戸の方角を見た。

「水の匂いはあるわ。でも、深い。眠っているみたい」

 アルは眠そうだった目を開いた。

「眠ってる水か」

「嫌な顔をするな」

 ライネルが言った。

「僕、今どんな顔してた?」

「面白そうな顔だ」

「してないよ」

「していた」

 アルは少し笑い、立ち上がった。

「じゃあ、明日は井戸を見ましょう」

「今夜は?」

「寝ます」

「そこはぶれないんだな」

「勇者はまず眠るべし」

「その本を閉じろ!」

 夜風が吹いた。

 新しく生まれた《宵の見張り》の鈴が、街道の向こうで小さく鳴った。

 盗賊は、まだ完全に善人になったわけではない。

 村も、完全に安心したわけではない。

 それでも、昨日よりは少しだけましになった。

 誰かを斬らずに済んだ。

 誰かが明日の役目を持った。

 それだけで、世界はほんの少し軽くなる。

 アルは焚き火のそばで丸くなり、あっという間に寝息を立て始めた。

 ライネルはその横で、深々とため息をつく。

「……努力しないくせに、厄介ごとだけは全力で拾うんだな」

 リュシエルは、眠るアルを見下ろして微かに笑った。

「そこが面白いんじゃない」

「面白がるな。俺の胃がもたん」

 森の向こうで、夜が深くなる。

 そして村の井戸の底では、まだ誰にも見えない水が、静かに眠っていた。

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