魔王の娘と努力しない勇者志望は、マッシュルームを食べた
迷宮都市リグラード再生編 3話
かつて《大迷宮の都》と呼ばれたリグラードは、今や別の意味で賑わいを取り戻していた。
昼下がり。
大迷宮第一層。
天井から吊られた魔導灯が柔らかく光り、太い石柱の間を人の波が流れていく。
焼きたてのパン。
串焼き。
冷やした果実水。
香草。
煮込み。
そして。
「しいたけ串三本!」
「迷宮まいたけのバター炒め、焼きたてだよ!」
「第三層育ちの白マッシュルーム! 今朝収穫したばかり!」
――キノコ。
地下市の一角は、完全にキノコの香りへ征服されていた。
屋台の脇。
リュシエルがマッシュルームの串焼きを一本くわえたまま、もぐもぐと顎を動かしている。
「……わたし、キノコってあまり好きじゃなかったんだけど」
「そうなんですか?」
隣のアルは、自分の串を半分にしてリュシエルの皿へ置いた。
「火山地帯に生えるやつって、だいたい毒か薬か、一口食べるまで分からないのよ」
「竜のキノコ事情、命懸けすぎません?」
「竜は初めて見るキノコくらいで怯まないわ」
「人間は鑑定します」
「軟弱ね」
「長生きの知恵ですよ」
リュシエルは鼻を鳴らす。
だが。
皿へ置かれた半分の串を見て。
一口。
「……でも、これは悪くない」
「よかった」
「味が濃すぎないし」
「はい」
「歯ごたえもいい」
「はい」
「香りも嫌いじゃない」
「それ、もうかなり褒めてますよ」
リュシエルはそっぽを向いた。
「感想を言っただけよ」
「そういうことにしておきます」
次にアルが皿を見た時。
マッシュルームは全部消えていた。
アルは笑う。
「それにしても」
第一層を見渡した。
「昔の迷宮主が知ったら泣きそうですね」
「何が?」
「命懸けの大迷宮だったのに、今はキノコとバターの匂いが一番強い」
「泣かせておけばいいじゃない」
リュシエルはもう一本の串へ手を伸ばした。
そして。
ほんの少しだけ口元を緩める。
「でも」
「はい?」
「戦場だった場所から飯の匂いがするのは」
一口。
「わたしは嫌いじゃないわ」
◇
そもそも。
リグラードがキノコの街になりかけている原因は、一人の男だった。
名を。
ハルド・メイスン。
職業。
微生物学者。
王都では、
《地下水を見ると培地にしたがる男》
《パン屋の酵母と会話する変人》
《漬物樽を見つけると蓋を開ける男》
などという、あまり名誉ではない呼ばれ方をしていた。
本人の持論は単純である。
「この世界は、目に見えない小さな連中に支配されているのだ!」
これを。
酒場で言った。
食堂で言った。
市場で言った。
商人ギルドでも言った。
しかも大声で。
さらに。
市場の漬物樽を勝手に開け、
「美しい! 見ろ、この発酵を!」
と叫んだ。
当然、追い出された。
別の市場へ行った。
そこでも追い出された。
三ヶ所目では、入る前から止められた。
こうして。
ハルド・メイスンは、理想の研究場所を求めて放浪した。
暗い。
湿っている。
気温が安定。
水がある。
人が少ない。
実験の途中で、
「臭い」
「汚い」
「帰れ」
と言われない。
そんな都合のよい土地。
そして。
リグラードへ流れ着いた。
◇
「暗くて」
アルが聞いた。
「湿っていて」
「うむ!」
「温度が一定で」
「最高だ!」
「人の出入りを管理できて」
「理想的だ!」
「実験を邪魔されにくい場所?」
「そうだ!」
アルは迷宮図を広げた。
「第三層に、ほとんど使っていない区画がありますよ」
ハルドの目が光る。
「どれほどだ!」
「広間が二つ」
「ほう!」
「側道三本」
「おお!」
「地下水路一本」
「……」
ハルドの唇が震えた。
「楽園ではないか!」
「そうなの?」
ライネルが呆れる。
「そこまで研究者向きなのか」
「湿度!」
ハルドが叫ぶ。
「温度!」
「光量!」
「水!」
「外気からの隔離!」
拳を震わせる。
「こんなもの、王都で揃えたらいくらかかると思っている!」
アルが手を挙げた。
「じゃあ使います?」
「いいのか!?」
「ギルドと相談して、試験利用からですけど」
ハルドがアルの両手を握った。
「私は今!」
「はい」
「菌類の神に出会ったのかもしれない!」
「神ではありません」
「菌類の勇者!」
「勇者志望です」
「細かい!」
「そこは大事ですよ」
◇
こうして。
第三層の使われていなかった一角が、ハルドの実験農園になった。
温度。
湿度。
風。
水。
照明時間。
菌床。
入退室。
全部記録。
ハルドは本気だった。
菌類の寝床。
菌類の食事。
菌類の風通し。
菌類の健康管理。
あまりに本気すぎて。
最初に見学したライネルは、途中から何を見せられているのか分からなくなった。
「……キノコだよな?」
「キノコです」
セリアが答える。
「家畜小屋より管理が細かいんだが」
「研究農園ですから」
「人間より快適に暮らしてないか?」
「キノコに聞いてください」
「聞けるか」
その結果。
リグラード産キノコは育った。
よく育った。
そして、売れた。
香り。
歯ごたえ。
保存性。
栽培区画による特徴。
料理人が面白がり。
商人が買い。
王都の料理店が注文を出した。
攻略済み迷宮から。
新しい特産品が生まれ始めたのである。
◇
地下市入口。
白黒連絡板。
《本日の地下市》
来客数 五百二十一人
事故件数 ゼロ
事故ゼロ継続 二十一日
白石 百三
黒石 六
《黒石内訳》
キノコの匂いが強すぎる 二
迷宮まいたけの名前が怖い 一
寝転がって食べる客がいる 三
「……最後の三つ」
セリアが板を見る。
「完全に兄さま案件ですね」
「僕だけとは限らないよ」
「三件中二件、目撃証言に金髪とあります」
「偶然じゃない?」
「残り一件には『寝癖』と」
「特定されてる」
「されてます」
少し離れた場所で。
ライネルが無言で額を押さえた。
◇
その日は地下市の運営会議だった。
議題は三つ。
一。
地下市と地上商店の競合。
二。
第三層キノコ農園の衛生管理。
三。
王都向け出荷時の品質基準。
長机の上には。
地下市帳簿。
税の記録。
白黒板の写し。
出荷記録。
そして。
何種類ものキノコ。
キノコ組合代表が腕を組んだ。
「王都で評判が出たのはありがたい」
「ですが?」
セリアが聞く。
「地上の青果商から文句が来てる」
向かい。
地上商店街の代表がすぐ答える。
「当たり前だ」
「地下は場所代が安い」
「水も近い」
「そこから同じ商品を安値で出されたら、地上の店はたまらん」
フォルク・バレンが顎髭を撫でた。
「地下市のおかげで客は戻った」
「だが」
ギルド長の目が細くなる。
「地下だけ栄えて地上が死んだら、街を上下にひっくり返しただけだ」
「ですね」
アルは素直に頷いた。
ライネルが少し驚く。
「即答するのか」
「だって正しいですし」
アルは白マッシュルームを手に取った。
「問題は」
くるり。
「地下で安く売るな、ではないと思うんですよ」
「では?」
「同じものとして売るから競争になるんです」
地上商人が眉をひそめた。
アルは板へ書く。
《用途を分ける》
一級品。
香り、形、保存性の良いもの。
王都料理店・贈答用。
二級品。
地上青果店・一般家庭向け。
規格外。
地下市の屋台・加工食品用。
地上商人が板を見る。
「等級を作る?」
「はい」
「値段は決めない?」
「それは店に任せます」
アルは言った。
「でも」
別の欄。
《必須表示》
採取日。
栽培区画。
生産者。
等級。
保存期限。
「情報は揃えます」
セリアがすぐ補足する。
「品質保証印も必要ですね」
「うん」
「同じ名前の商品でも、品質と用途が見える」
「そう」
アルが笑う。
「地下で育てる」
「地上で価値をつける」
「地下では気軽に食べる」
「王都では高級品として売る」
地上商人は一級品のマッシュルームを持ち上げた。
「……箱に入れて」
「はい」
「生産者印を押して」
「はい」
「リグラード産、と?」
「それ」
アルの目が光った。
「迷宮を攻略した街から」
一拍。
「迷宮で育てる街にしましょう」
商人たちがざわめいた。
その時。
カラン。
扉の鈴が鳴った。
◇
会議室の扉が開く。
一人の若い女性が入ってきた。
漆黒に近い濃紺の髪。
低い位置できっちりまとめている。
後れ毛はほとんどない。
深い葡萄色の瞳。
黒地に灰色の縁取りが入った、仕立ての良い監査官用ジャケット。
腰には書類ケース。
腕には。
分厚い革表紙の監査手帳。
歩幅まで一定。
背筋はまっすぐ。
頭を下げる角度さえ正確だった。
「失礼いたします」
声も整っている。
「王都ギルド監査局より派遣されました」
一礼。
「ルク・アーベントと申します」
人間のふりをした。
魔王の娘。
ルクシア・ノクト=ヴァルグレイス。
もちろん。
この場で、その名を知る者はいない。
「リグラード迷宮再利用事業、および地下市について、制度監査を担当いたします」
ルクが顔を上げた。
その直後。
椅子が。
すっ。
と動いた。
リュシエルが立ち上がった。
「……」
誰にも断らない。
そのまま。
音もなくルクへ近づく。
三歩。
二歩。
一歩。
ルクから少し離れた場所で止まる。
くん。
「……」
くんくん。
ルクの葡萄色の瞳が、わずかに動いた。
「リュシエル?」
アルが呼ぶ。
リュシエルはルクを見たまま。
「アル」
「なに?」
「この女」
もう一度鼻を動かす。
「人間の匂いだけじゃない」
「ちょっ」
アルが慌てる。
「リュシエルさん!」
「小声よ」
「小声なら何を言ってもいいわけじゃないですよ!」
「あっち側の匂いもする」
「あっちって言い方もやめてください!」
ライネルが立ち上がり、二人をまとめて後ろへ引く。
「お前ら」
声を落とす。
「初対面の監査官を匂いで判定するな」
「だって匂うもの」
「今は飲み込め!」
「匂いを?」
「発言をだ!」
セリアが静かに言った。
「ライネル。その言い方は少し危険です」
「今それを拾うな」
その間。
ルクは。
表情を変えなかった。
変えなかったが。
内心。
(……古竜)
警戒度を一段上げる。
(しかも、偽装の上から魔族の気配を拾う?)
父の用意した偽装身分。
魔術。
衣服。
仕草。
全部。
入室から一分も経たず、竜の鼻に引っかかった。
(人間だけを相手にする想定では足りない)
だが。
表情には出さない。
出せば、それ自体が情報になる。
そして。
肝心の監査対象――。
「おお」
アルが目を輝かせている。
「ものすごく有能そう」
「兄さま」
セリアが即座に見る。
「まだ名乗っただけです」
「でも見てください」
アルはルクの監査手帳を指す。
「あの分厚さ」
「判断基準がおかしいです」
「書類整理を手伝ってくれる人ですよ?」
「監査官です」
「大歓迎です!」
ルクが一度だけ瞬きをした。
(……竜には匂いを嗅がれ)
(妹には見定められ)
(本人だけ歓迎している)
理解が追いつかない。
(これが、アルノルト・レーヴェルト?)
◇
ルクは席へついた。
「まず」
監査手帳を開く。
「現在の規約」
「地下市の収支」
「白黒連絡板の集計」
「事故報告」
「王都へ提出した報告書」
「第三層の利用許可書」
「キノコ農園の衛生記録」
そこで。
キノコ組合代表が固まった。
「……そんなに見るのか?」
「監査ですので」
「ですよね」
アルはなぜか嬉しそうである。
セリアが書類を差し出す。
「こちらです」
「ありがとうございます」
ルクの目が走った。
速い。
一枚。
二枚。
三枚。
読む。
数字。
日付。
担当者。
署名。
事故。
改善。
そして。
一枚の余白で目が止まった。
《地上と地下で、腹の空き具合が同じになるようにする》
汚い丸文字。
「……」
ルクは紙を見る。
次に。
アルを見る。
もう一度、紙。
「こちらは?」
「僕です」
「でしょうね」
「分かりました?」
「筆跡と内容で」
「ひどい」
「褒めていません」
セリアの口元が、ほんの少し上がった。
◇
ルクは書類を閉じた。
「確認したいことがあります」
会議室が静かになる。
「はい」
アルが答える。
「キノコ農園で食中毒が発生した場合」
一問目。
「誰が責任を負いますか」
アルの目が止まる。
「……キノコ組合?」
「組合が解散した場合は?」
「……」
「生産者が不明になった場合は?」
アルがセリアを見る。
セリアも少し考える。
ルクは続けた。
「王都へ出荷した後で問題が判明した場合」
「販売済みの商品を」
「どこまで追跡できますか」
沈黙。
地上商人が顔をしかめる。
「……そこまでは考えてなかったな」
「はい」
ルクは淡々と頷いた。
「では、そこから決めましょう」
アルが。
少しだけ身を乗り出す。
「なるほど」
嫌そうではない。
むしろ。
面白そうだった。
ルクは少し警戒する。
「何か?」
「いや」
アルは笑った。
「そういうの聞いてくれる人、欲しかったなって」
「……」
ルクが一瞬止まる。
「普通は嫌がりません?」
「正しい指摘なら、直した方が楽ですから」
「楽」
「あとで大事故になる方が面倒でしょう?」
ルクの眉がわずかに動いた。
(……そこへ戻るのね)
◇
「では整理します」
ルクが板の前へ立った。
文字を書く。
《責任と追跡》
一、生産区画を記録。
二、生産者を記録。
三、収穫日を記録。
四、出荷先を記録。
五、問題発生時の回収担当を決める。
六、生産組合が解散した場合の引継先を定める。
セリアのペンも同時に走る。
「回収記録の保存期間も必要ですね」
「はい」
「最低一年?」
「保存加工品の期間を考えれば、もう少し」
「では二年」
「妥当です」
アルは二人を見比べた。
「なんか」
「何です?」
セリアが聞く。
「セリアが増えたみたい」
二人から同時に視線が飛んだ。
「違います」
「違います」
声まで揃った。
ライネルが小さく呟く。
「似てるぞ」
二人の視線が今度はライネルへ向いた。
「黙っておこう」
◇
ルクは続けた。
「地上と地下の問題について」
地上商人を見る。
「価格を直接統制する必要はないでしょう」
アルが頷く。
「ですよね」
「ただし、表示基準は共通化します」
「はい」
「同じ商品名で品質が違えば、安売り競争ではなく信用崩壊になります」
セリアが書く。
《共通表示》
等級。
生産区画。
生産者。
収穫日。
保存期限。
「地上は高級品と王都向け流通」
ルク。
「地下は日常用と加工品」
セリア。
「規格外品は廃棄ではなく」
アル。
「干しキノコとか粉末にすればいいですよ」
三人が同時に板を見る。
少し間。
「……それは有効ですね」
ルクが言う。
アルの顔が明るくなる。
「今、褒めました?」
「案を評価しました」
「同じでは?」
「違います」
「厳しい」
◇
そこへ。
ハルド・メイスンが勢いよく手を挙げた。
「私からも言いたい!」
「どうぞ」
「王都への出荷を増やすなら!」
ばん。
「リグラード式菌類栽培法を正式規格にするべきだ!」
ルクがハルドを見る。
「現状の記録を拝見しました」
「どうだ!」
「非常に細かいです」
「そうだろう!」
「ただし、あなたしか理解できない記号が十九種類あります」
「……」
「担当者が変わったら運用不能です」
「ぐっ」
アルが目を輝かせた。
「そこまで見たんですか?」
「監査ですので」
「すごい」
ルクは続ける。
「記録様式を整理します」
ハルドが不安そうな顔になる。
「私の美しい記録が……」
「消しません」
「本当か!」
「誰でも読める形にします」
少し間。
「あなたが病気になっても、キノコが育つように」
ハルドが固まる。
そして。
「……それは」
小さく言った。
「大事だな」
「はい」
ルクは頷いた。
「努力した人だけに、維持の負担が集中する制度は長続きしません」
アルの目が輝く。
「つまり」
ルクが嫌な予感を覚える。
「努力した人ほど、あとでサボれるように制度で守る」
「なぜそういう言い方になるのですか」
「同じ意味じゃないです?」
「違います」
「僕は好きですよ、その考え方」
「私が言った言葉ではありません」
ライネルが笑いを堪える。
セリアは平然と書いた。
《兄さま、監査官の発言を即座に怠惰思想へ翻訳》
《要注意》
「セリアまで」
◇
さらに。
ルクはハルドの記録を見直した。
「王都に、微生物研究を扱う学術団体がありますね」
ハルドの顔が露骨に歪む。
「……あいつらか」
「知り合いですか?」
アルが聞く。
「私を追い出した連中だ!」
「何したんです?」
「共同研究室の漬物を観察した」
「勝手に?」
「研究のためだ!」
「追い出されますね」
「なぜだ!」
ルクは無視して進めた。
「王都側に規格を作らせる必要はありません」
「なら?」
「リグラードで実績を積む」
「生産量」
「事故件数」
「品質」
「保存性」
「それらを半年、一年と記録する」
ハルドが黙る。
「その数字を持って、王都の研究会へ提出します」
「……追認させる?」
「はい」
ルクの瞳が少しだけ鋭くなる。
「実績のある基準を」
「机上の理屈だけで否定させなければいい」
ハルドが震えた。
「菌が」
「菌?」
「ついに市民権を……!」
「菌に市民権はありません」
ライネルが即座に訂正する。
「夢を壊すな!」
「制度の話に戻れ」
◇
会議は二時間続いた。
途中。
フォルクがルクを見る。
「ルク殿」
「はい」
「王都の監査官にしては、現場の話をよく聞くな」
ルクは少しだけ考えた。
「規則を現場へ押しつけるだけなら、監査ではありません」
「ほう」
「規則通りに動けない理由を確認する」
「必要なら規則側を直す」
「ただし」
視線が鋭くなる。
「現場だから仕方ない、という言葉だけで例外を認めるつもりもありません」
フォルクが笑った。
「なるほど」
「面倒な監査官だ」
「仕事ですので」
「気に入った」
「それはどうも」
ルクは淡々としていた。
だが。
アルがその横へ湯飲みを置いた。
「どうぞ」
ルクが見る。
「……何ですか」
「お茶です」
「それは見れば分かります」
「会議って喉が渇くでしょう?」
「ありがとうございます」
一口。
少しぬるい。
だが、悪くない。
ルクは湯飲みを置く。
そしてふと気づいた。
会議開始時。
地上商人とキノコ組合は、かなり険悪だった。
今は。
両者とも。
同じ板を見ている。
怒りが消えたわけではない。
利益対立も残っている。
だが。
喧嘩する対象が。
相手の人格から。
《品質表示》
《責任区分》
《出荷経路》
へ移っていた。
(……怒りの向きを)
ルクはアルを見る。
(人から、問題へずらしている)
魔王城とは。
まるで逆だった。
◇
会議の最後。
アルがルクへ尋ねた。
「明日、時間あります?」
「監査期間中ですので、予定は調整できます」
「じゃあ、現場見ません?」
「現場?」
「キノコ農園」
「地上青果店」
「地下市」
「排水」
「換気」
「出荷所」
「あとハルドさんの菌類講義」
「待て」
ライネルが止めた。
「一日に詰め込みすぎだ」
「そう?」
「そうだ」
「では二日に分けましょう」
ルクが即答した。
アルが感心する。
「さすが」
「詰め込みすぎれば確認精度が落ちます」
「ちゃんと休む派?」
「仕事の質を落とさないためです」
「同じですね」
「違います」
「また?」
「またです」
ルクは監査手帳を閉じる。
「ただし、現場確認には賛成です」
「やった」
「監査に必要ですので」
「これで僕の仕事が減る」
「減りません」
「え?」
「むしろ質問が増えます」
「……監査官って怖い」
「今さら気づきましたか」
セリアが言った。
◇
会議が終わる頃。
屋台から差し入れが届いた。
大皿。
その上に。
焼きたてのマッシュルーム串。
バター。
香草。
少量の塩。
香りが広がる。
ハルドが胸を張った。
「第三層南区画!」
「温度一定!」
「湿度六十二!」
「菌床第三番!」
「本日朝収穫!」
「完璧な子たちだ!」
「キノコを子扱いするな」
ライネルが言った。
「愛情だ!」
「対象が菌類なんだよな」
アルが一本取る。
同時に。
ルクも一本へ手を伸ばした。
指が止まる。
「あ」
「……失礼」
ルクが先に手を引く。
アルも手を引いた。
「ルクさんからどうぞ」
「いえ。監査対象から食品を譲られる理由がありません」
「そこまで監査します?」
「します」
「じゃあ同時に取ります?」
「なぜですか」
「面倒なので」
「……」
二人。
別々の串を取った。
同時に。
一口。
噛む。
ルクの目が、ほんの少しだけ動いた。
香り。
旨味。
歯ごたえ。
「……」
アルが見る。
「どうです?」
「悪くありません」
「やっぱりそれ、かなり褒めてる言い方ですよね」
「評価です」
「半分?」
ルクが少しだけ眉を寄せる。
「その言い方を、今後ずっと続けるつもりですか」
「たぶん」
「やめてください」
アルも一口。
「おいしい」
魔王の娘と。
努力しない勇者志望。
本来なら。
同じ食卓につく理由などない二人。
それが。
同じ地下迷宮で。
同じ皿から。
同じマッシュルームを食べている。
◇
少し離れた席。
リュシエルは串を食べながら、ルクをじっと見ていた。
「……やっぱり変」
ライネルが小声で答える。
「何が」
「匂い」
「まだ言ってるのか」
「だって変なんだもの」
「今は騒ぐな」
「騒いでない」
「分かった。後で話を聞く」
「最初からそう言えばいいのよ」
その横。
セリアもまた、ルクを見ていた。
書類。
数字。
質問。
判断。
仕事は速い。
理屈も通っている。
しかし。
隙がなさすぎる。
セリアは手帳へ書く。
《ルク・アーベント》
《王都ギルド監査局》
《能力:高》
《制度理解:高》
《現場理解:高》
《責任分界への関心:極めて高い》
一度止まる。
《正体:未確認》
《リュシエルが異臭を指摘》
「異臭じゃないわよ」
リュシエルが横から言った。
「匂いが違うの」
「訂正します」
《人間と異なる匂いを指摘》
さらに。
《要観察》
最後。
少し考え。
《兄さまとの相性》
一拍。
《悪くない》
さらに。
《そこが少し不安》
手帳を閉じた。
◇
一方。
ルクも。
監査手帳へ書いていた。
《対象》
《アルノルト・レーヴェルト》
しばらく考える。
《事前評価》
《怠惰な貴族子弟》
横線。
《修正》
《危険な楽観主義者》
また止まる。
アルを見る。
地上商人とキノコ組合の間で。
「それなら、規格外品はスープ屋さんに回せば?」
などと言っている。
ルクはさらに線を引いた。
《再修正》
《危険な実務家》
少し考える。
《制度設計能力:要継続査定》
《問題:本人の自己評価が低すぎる》
そして。
最後。
《怠惰の質:未判定》
手帳を閉じる。
父の言葉が蘇った。
怠け者ほど厄介なものはない。
自分が楽をするために、世界の形を変えようとする。
(もし)
ルクはアルを見る。
(本当に、この人が自分の昼寝のためだけに)
(ここまで考えているのなら)
深い葡萄色の瞳が、わずかに細くなる。
(父上が一番嫌う種類の怠惰かもしれません)
◇
会議室には。
キノコの匂い。
お茶の湯気。
紙をめくる音。
地下市の笑い声。
かつて戦場だった場所に。
そんなものが満ちている。
アルは。
当然のように二本目のマッシュルーム串へ手を伸ばした。
同時に。
ルクの手も伸びる。
また。
止まった。
「……」
「……」
アルが言った。
「じゃんけんします?」
「食事に制度を導入しないでください」
「監査官なのに?」
「監査官だからです」
セリアが手帳を開く。
《補記》
《味覚:近い可能性》
《思想:未確認》
リュシエルは鼻を鳴らした。
「味覚より、匂いを確認してよ」
ライネルが額を押さえる。
「今日はもうキノコだけ食って帰ろう」
ルクは。
ほんのわずか。
本当にわずかだけ。
笑った。
アルは気づかなかった。
セリアは気づいた。
リュシエルは匂いの方が気になっていた。
ライネルはもう疲れていた。
こうして。
魔王の娘と。
努力しない勇者志望は。
初めて同じ制度を眺め。
初めて意見をぶつけ。
そして。
同じマッシュルームを食べた。
距離が縮まったわけではない。
信頼したわけでもない。
まして。
味方になったわけでもない。
ただ。
互いに。
「もう少し調べてみる価値がある」
そう思った。
それだけだった。
だが。
監査というものは。
たぶん、そこから始まる。




