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魔王と真面目な娘、怠惰勇者を査定する

迷宮都市リグラード再生編 2話

 リグラードは、王都ルミナリアから西へ馬で七日。

 さらに西へ四日進めば、草木の色が薄くなる。

 人の村もまばらになる。

 やがて現れるのは、焦げた土と黒い岩が延々と続く帯。

 人間たちは、そこを《魔域境界》と呼んでいた。

 その先は、魔族の領分。

 前線要塞まで三日。

 さらに奥へ。

 火山地帯。

 黒い森。

 深い谷。

 それらを抜け、なお十日ほど進んだ場所に――。

 魔王の居城。

 ノクティアがある。

 つまり。

 リグラードは、王都と魔王領のほぼ中間。

 戦になれば。

 兵が通る。

 食料が通る。

 武器が通る。

 負傷者が戻る。

 西方の喉元とも言える場所だった。

 かつて大迷宮を抱えた冒険者の街。

 そして今。

 その街に、別の意味が生まれ始めていた。

     ◇

 魔王城ノクティア。

 黒曜の間。

 高い天井から吊るされた燐光が、室内を淡く照らしている。

 中央には巨大な卓。

 その上いっぱいに、大陸全図が広げられていた。

 赤い印。

 黒い印。

 白い印。

 王都。

 前線要塞。

 街道。

 補給路。

 廃村。

 古戦場。

 鉱山。

 港。

 その西方。

 つい最近になって、小さな黒い印が一つ追加されている。

《リグラード》

 その文字を、深い葡萄色の瞳が静かに見下ろしていた。

 ルクシア・ノクト=ヴァルグレイス。

 魔王の娘。

 外見だけなら、人間の若い女性と大きくは変わらない。

 漆黒に近い濃紺の髪は、低い位置できっちりとまとめられている。

 後れ毛ひとつない。

 黒を基調とした端正な衣服。

 皺のない襟元。

 磨かれた靴。

 左腕には、分厚い革表紙の手帳。

 右手には数枚の羊皮紙。

 そして。

 その紙の端まで、見事なほど揃っている。

 剣より帳簿の方が似合う娘だった。

「……報告書は読んだな」

 低い声が響いた。

 地図の向こう。

 黒曜石の玉座に、一人の男が座っている。

 闇を固めたような黒衣。

 角。

 そして、静かに燃えるような瞳。

 魔王。

 ノクト・ヴァルグレイス。

「はい」

 ルクシアは顔を上げた。

「リグラード大迷宮」

 羊皮紙へ視線を落とす。

「十年前に完全踏破」

「以降、冒険者人口減少」

「商業活動低下」

「宿泊・武器・薬品関連産業が縮小」

 淡々と読み上げる。

「現在、その攻略済み迷宮の一部を地下市として試験利用」

「訓練区画」

「倉庫候補」

「非常時避難施設候補」

「以上の用途への転用が始まっております」

 紙を一枚めくる。

「中心人物」

 一拍。

「アストリア王国レーヴェルト辺境領嫡男――アルノルト・レーヴェルト」

 さらに。

「通称」

 ほんの少しだけ間が空いた。

「《努力しない勇者志望》」

 ノクトの口元が、わずかに歪んだ。

「努力しない、か」

「はい」

「怠け者ほど厄介なものはない、と誰かが言っていたな」

「父上ご自身です」

「……そうだったな」

 魔王は小さく笑った。

 だが。

 その目は笑っていない。

 卓上のリグラードを見つめたまま。

「怠惰というものは」

 ゆっくりと言った。

「何もしないことだけを指すのではない」

 ルクシアは黙って聞く。

「自分が楽をするために」

 ノクトの指が、地図の上を滑る。

「世界の方を変えようとする者がいる」

 指先が。

 リグラードで止まった。

「私は、そういう者を何人も見てきた」

     ◇

 ノクトは玉座を立った。

 ゆっくりと地図へ近づく。

「報告によれば」

「はい」

「その少年は、戦場を市場へ変えた」

「正確には、攻略済み迷宮の第一層の一部を試験的に市場へ転用しております」

 ノクトが娘を見る。

「訂正が細かいな」

「監査では重要です」

「そうだったな」

 ルクシアは続けた。

「今のところ、大規模な改築は行われておりません」

「既存構造を利用し、入口付近のみを開放」

「来客数、事故、苦情を記録」

「問題発生時には改善」

「一ヶ月単位で運用を見直しております」

 ノクトの眉がわずかに上がる。

「完成させずに始めたか」

「はい」

「なぜだ」

「失敗を安く済ませるためかと」

 ノクトが娘を見る。

「お前ならどうする」

「同じです」

 即答だった。

「全域改修後に欠陥が発覚するより、一部運用で問題を洗い出した方が損失を限定できます」

「……気に入ったか?」

「制度としては合理的です」

「人間としては?」

「未評価です」

 間髪を入れずに返した。

 ノクトの口元が、ほんの少しだけ上がる。

「お前らしい」

「ありがとうございます」

「褒めてはいない」

「承知しております」

     ◇

 ノクトは再び、リグラードへ目を落とした。

「我が軍が、あの迷宮を要塞へ転用しなかった理由を知っているか」

「旧戦場であるためです」

「それだけではない」

 魔王の指が古い迷宮図をなぞった。

「あの場所では、人間だけではない」

「魔族も死んだ」

 ルクシアの瞳がわずかに動く。

「長い攻略戦だった」

「互いに何人死んだか」

「正確な数など、もう誰にも分からぬ」

 静かな声だった。

「だから捨てた」

「戦場として?」

「違う」

 ノクトは首を横へ振る。

「利用価値だけで扱えば、何があった場所か忘れるからだ」

 ルクシアは少し考えた。

「ですが、放置すれば」

「腐る」

「はい」

「人間どもは、それを嫌ったらしい」

 ノクトの目が細くなる。

「戦場を市場へ」

「死地を訓練場へ」

「廃墟を避難所へ」

 少し間を置き。

「見事だ」

 ルクシアは父を見る。

 称賛だった。

 だが。

 同時に、警戒でもあった。

「父上は、この計画を危険と?」

「危険だ」

「理由を伺っても?」

「美しいからだ」

 ルクシアの眉が、わずかに動いた。

「美しいから?」

「人は、美しい答えを疑わない」

 ノクトの指が地図を叩く。

「廃墟を再利用しました」

「街に仕事が戻りました」

「若者が訓練できるようになりました」

「避難所にもなりました」

「誰もが喜ぶ」

「では」

 声が低くなる。

「その影で、誰が損をした?」

 ルクシアは答えない。

「誰の商売が潰れた」

「誰の記憶が踏まれた」

「誰が新しい制度から外された」

「誰が責任を引き受けた」

「誰が維持費を払う」

 ひとつ。

 ひとつ。

 問いが重なる。

 ルクシアの指が、無意識に革表紙の手帳へ触れた。

「……それを調べろ、と?」

「まだ命じてはいない」

「失礼しました」

「だが、良い着眼だ」

 ノクトは小さく笑った。

「お前なら分かるだろう」

「はい」

 ルクシアの声がわずかに硬くなる。

「制度の価値は、成功例だけでは判断できません」

「そうだ」

「作った本人がいる間だけ成功する制度もあります」

「ある」

「善人だけなら回る制度も」

「ある」

「金がある間だけ回る制度も」

「ある」

「では」

 ルクシアは父を見る。

「アルノルト・レーヴェルトを、どう処理なさるおつもりですか」

     ◇

 ノクトは答えなかった。

 しばらく。

 燐光だけが揺れる。

「お前なら、どうする」

 逆に問われた。

 ルクシアは即答しなかった。

 情報。

 実績。

 再現性。

 意図。

 副作用。

 いくつもの項目を頭の中で並べる。

 そして。

「情報不足です」

 ノクトの口元が上がった。

「続けろ」

「報告書から確認できるのは、結果だけです」

「はい」

「彼が本当に怠惰なのか」

「あるいは、怠惰を装っているだけなのか」

「単なる理想主義者なのか」

「偶然、周囲に優秀な人材が揃っただけなのか」

「本人がいなくても制度が動くのか」

 一つずつ挙げる。

「それらを確認しない限り、敵とも味方とも判断できません」

「よろしい」

 ノクトは満足そうに頷いた。

「では、命じる」

 黒曜の間の空気が変わった。

 玉座背後の壁が、音もなく開く。

 その奥から。

 白い封蝋の施された封書が一つ、せり出した。

「密命だ」

 封書は魔力に乗り。

 ゆっくりとルクシアの前へ飛ぶ。

 彼女は両手で受け取った。

 白い蝋。

 半月の紋章。

 中央には、ごく小さな紅点。

 魔王家直命の証だった。

「表向きの身分は」

 ノクトが言う。

「王都ギルド監査局派遣監査官」

「名は」

「ルク・アーベント」

 ルクシアは封書を見る。

「経歴も用意済みですか」

「当然だ」

「王国側から照会された場合は?」

「問題ない」

「……どこまで手を回されたのです」

「知らない方が、お前も自然に振る舞える」

「それは監査対象を増やす発言です」

「帰ってきてからにしろ」

「承知しました」

     ◇

「目的は三つ」

 ノクトが指を一本立てた。

「第一」

「リグラード地下市、および迷宮再利用事業を査定せよ」

「人間側の基準で?」

「違う」

「我々にとって利用価値があるか」

「危険となり得るか」

「他地域へ再現可能か」

「そこまで含めて見ろ」

「承知しました」

 二本目。

「第二」

「アルノルト・レーヴェルト」

「その少年の《怠惰の質》を見極めろ」

「怠惰の質」

「単なる責任逃れなら、価値はない」

「はい」

「だが」

 ノクトの瞳が細くなる。

「無駄な努力をなくすために、構造そのものを変えているのであれば」

「……危険ですか」

「極めて」

 ルクシアは少し考えた。

「父上」

「何だ」

「もし」

 言葉を選ぶ。

「その怠惰が、人間と我々双方の損失を減らす方向へ働くと確認された場合は?」

 ノクトが笑った。

「いい質問だ」

 三本目。

「第三」

 声が低くなる。

「もし、その少年の仕組みが」

「戦争を短くする」

「あるいは」

「戦争そのものを必要としない方向へ働くと判断した場合――」

 ルクシアが息を止める。

「可能な限り利用しろ」

「……利用」

「そうだ」

「排除ではなく?」

「排除して何になる」

 ノクトは平然と答えた。

「使える敵を、敵だからという理由だけで捨てるほど私は裕福ではない」

「ですが、危険では」

「危険だから監査する」

 きっぱりと言った。

「殺せば止まる剣士なら話は簡単だ」

「だが」

 指がリグラードを叩く。

「この少年は違う」

「本人が去った後にも」

「水帳が残る」

「橋番記録が残る」

「透明帳簿が残る」

「そして今度は、地下市が残った」

 ノクトの目が、鋭くなる。

「本人を殺しても」

「仕組みまで死ぬとは限らん」

 ルクシアは黙った。

「だから測れ」

 魔王は言った。

「使えるなら使え」

「危険なら監視しろ」

「どうしても止めるべきなら」

 一拍。

「その時に考えればいい」

「……はい」

     ◇

 ノクトは娘を見る。

「ルクシア」

「はい」

「お前は、怒りを知っている」

 その言葉に。

 ほんの一瞬だけ。

 ルクシアの瞳が揺れた。

 炎。

 叫び。

 崩れた砦。

 焼けた旗。

 倒れた兵。

 遠い記憶。

 だが。

 忘れてはいない。

「理不尽を見れば怒る」

「不正を見れば許せない」

「責任から逃げる者を嫌う」

「はい」

「我が娘らしい」

 ノクトはそう言った。

 だが。

「しかし」

 声が変わる。

「世界を長く動かすのは、怒りだけではない」

 ルクシアは父を見る。

「むしろ」

「無駄を嫌い」

「遠回りを嫌い」

「誰も苦しまなくて済む線を探す」

「そういう怠惰な知恵の方が」

 魔王は薄く笑った。

「時に世界を大きく変える」

「父上は、それを嫌っておられる」

「嫌いだ」

 即答だった。

「なぜです」

 口から出た。

 問い返してから。

 ルクシア自身が、ほんの少し驚く。

 しかしノクトは咎めなかった。

「戦を、綺麗に終わらせようとするからだ」

 ルクシアは黙って待つ。

 ノクトは地図の一角を指した。

 すでに国名の消えた土地。

「ここを覚えているか」

「はい」

 かつて。

 人間と魔族が何度も奪い合った場所。

「最後には、双方とも引いた」

「和平が成立しました」

「表面上はな」

 ノクトが言う。

「国境を引き直した」

「補償金を払った」

「捕虜を返した」

「碑を取り壊した」

「古戦場を畑へ戻した」

 そして。

「二十年後」

 指先が止まる。

「子の世代が、なぜ親が憎み合っていたのか分からなくなった」

 ルクシアは黙る。

「忘れた結果」

「同じ土地を、同じ理由で再び奪い合った」

 燐光が揺れた。

「父上は」

 ルクシアが静かに聞く。

「恨みを残すべきだと?」

「違う」

 ノクトの声が鋭くなった。

「私は憎しみを残したいのではない」

 一歩。

 娘へ近づく。

「忘れたふりをするのが嫌いなのだ」

 ルクシアの瞳が、わずかに見開かれる。

「戦があったなら」

「戦があったと残せ」

「誰かが死んだなら」

「名を残せ」

「誰かが間違えたなら」

「何を間違えたのか残せ」

 地図。

 城壁。

 墓標。

 記録。

「痛みを消すな」

「見える形へ変えろ」

「次の世代が」

「ここで一度失敗したのだと分かるように」

 声が少しだけ静かになる。

「痛みを忘れた土地は、また同じ場所で血を流す」

 ルクシアは父を見た。

 そして。

 リグラードの報告書を見る。

「ですが」

「何だ」

「アルノルトは、迷宮を市場にしました」

「ああ」

「それは、過去を薄める行為でしょうか」

 ノクトはしばらく答えなかった。

「だから、お前が見てこい」

 ルクシアの目が動く。

「報告書には、数字しかない」

 ノクトが言う。

「そこに死者の記憶が残っているのか」

「市場の笑い声に埋もれているのか」

「私には分からん」

 そして。

「お前が見ろ」

 魔王の娘。

 監査官。

 その両方へ向けて言った。

「もし、あの少年が」

「努力しない方法で」

「誰も苦しまない仕組みなどという夢を語るのなら」

 ノクトの目が冷たく光る。

「その夢の代償を探せ」

「誰を切った」

「誰を置いていった」

「誰が金を払った」

「誰が黙った」

「誰が我慢した」

「それを見つけろ」

 ルクシアは封書を握った。

「そして」

 ノクトが続ける。

「何も見つからなかった場合は?」

 今度は。

 ルクシアが少しだけ考えた。

「もう一度調べます」

 ノクトが笑った。

「そう言うと思った」

「監査ですので」

「それでもなければ?」

「……その時は」

 少しだけ言いにくそうに。

「制度として評価します」

「よろしい」

     ◇

 ルクシアは膝をついた。

「拝命いたしました」

 白い封書を胸元へ。

「ルク・アーベントとして王都ギルド監査局より派遣」

「その実」

「魔王ノクト・ヴァルグレイス直命の監査官として」

 深く頭を下げる。

「アルノルト・レーヴェルト」

「ならびに、リグラード迷宮再利用事業を査定いたします」

 ノクトは頷いた。

「行け」

「名を隠せ」

「牙も隠せ」

 そこで。

 ほんの少しだけ声が柔らかくなる。

「だが、自分の判断までは隠すな」

 ルクシアが顔を上げた。

「はい」

「判断を誤るなよ」

「はい、父上」

     ◇

 黒曜の間を出る。

 重い扉が閉じた。

 途端。

 廊下は静かになった。

 窓の外には、黒い森。

 遠くには稲光。

 低い雷鳴。

 ルクシアは歩きながら、白い封筒を見る。

《ルク・アーベント》

 王都ギルド監査局。

 派遣監査官。

 用意された偽装経歴は、すでに一冊にまとめられていた。

 出生。

 学歴。

 職歴。

 派遣理由。

 上司。

 照会先。

 給与記録。

「……」

 ルクシアは歩きながら、一ページずつ見る。

「父上」

 小さく呟いた。

「どこまで偽装されたのですか」

 完璧すぎる。

 むしろ少し怖い。

 だが。

 それよりも気になる名前がある。

《アルノルト・レーヴェルト》

《努力しない勇者志望》

「怠惰に見える知恵……」

 ルクシアは呟いた。

「随分と、面倒な監査対象ですね」

 自分は真面目だ。

 規則は守る。

 報告期限も守る。

 帳簿の数字は合わせる。

 責任の所在は明確にする。

 善意だけで動く制度など信用しない。

 だから。

 正反対に見えた。

 昼寝を好み。

 努力を嫌い。

 面倒を避けると言いながら。

 なぜか。

 周囲の仕事を減らす仕組みばかり作る少年。

「私とは」

 一度、言葉を止める。

「……相性が悪そうです」

 少し考える。

「非常に」

 さらに考える。

「たぶん」

 監査手帳を開く。

《事前評価》

《対象:アルノルト・レーヴェルト》

《第一印象:胡散臭い》

 そこまで書いて。

 ルクシアは手を止めた。

「……まだ会っていませんね」

 線を一本引いた。

《第一印象:保留》

 歩き出す。

 十歩。

 また止まる。

《ただし、かなり胡散臭い》

「……」

 そのまま残した。

     ◇

 数日後。

 黒い森の外れ。

 一台の商用馬車が待っていた。

 豪華ではない。

 ありふれた旅馬車。

 商人。

 役人。

 学者。

 そのあたりが使っていそうな外見。

 ルクシアも、もう魔王城の服ではなかった。

 黒地。

 灰色の縁取り。

 仕立ての良い監査官用ジャケット。

 白いシャツ。

 実務的なロングスカート。

 歩きやすいショートブーツ。

 腰には書類ケース。

 腕には。

 あの分厚い革表紙の監査手帳。

 角は魔術で隠している。

 髪は変わらない。

 漆黒に近い濃紺。

 きっちりとまとめたまま。

 姿勢も変わらない。

 どこから見ても。

 真面目すぎる若い監査官。

 それが。

 ルク・アーベントだった。

 御者が頭を下げる。

「ルク監査官殿。準備が整いました」

「ありがとうございます」

 馬車へ乗ろうとして。

 ルクは一度、止まった。

 東を見る。

 いや。

 人間領から見れば西へ向かうことになる。

 その途中。

 リグラード。

 そこに。

 魔王が嫌うという怠け者がいる。

「アルノルト・レーヴェルト」

 名を口にする。

「あなたの理想が正しいかどうかは」

 一歩。

 馬車へ。

「私には、どうでもいいのです」

 手帳を抱く。

「それが」

「アルノルト様がいなくても」

「善人がいなくても」

「十年後にも」

「壊れず動くのか」

 馬車へ乗り込む。

「そこを査定させていただきます」

 扉が閉まった。

     ◇

 車輪が動き出す。

 黒い森を抜ける。

 焦げた大地を越える。

 国境を越える。

 そして。

 人間の街へ。

 ルクシアは窓の外を見ながら、もう一度だけ自分へ確認した。

 これは任務である。

 監査である。

 調査である。

 断じて。

 好奇心ではない。

「……」

 三度も確認した時点で。

 少し怪しかった。

 ルクは無言で監査手帳を開いた。

《アルノルト・レーヴェルト》

 最初のページ。

 余白は、まだ広い。

 やがて。

 その余白が足りなくなることを。

 この時のルクは、まだ知らない。

 魔王の娘は。

 監査官の名をまとい。

 世界の形を変える怠け者を測るため。

 静かに、人間の国へ旅立った。

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