いきなりエンディング!? 勇者志望、攻略済みダンジョンを市場に変える
迷宮都市リグラード再生編 1話
大迷宮の都リグラード。
そう呼ばれていたのは、もう昔の話らしい。
かつて、その街には冒険者が溢れていた。
剣を背負った若者。
杖を抱えた魔術師。
地図を売る商人。
薬草を並べる露店。
朝になれば迷宮へ向かう者たちの足音が響き、夜になれば酒場で武勇伝が飛び交った。
完全踏破の日、街は三日三晩、祝いに沸いたという。
英雄たちが最深部の魔竜を討ち、大迷宮の主を倒し、最後の扉を開いた。
人々は泣き、笑い、歌い、鐘を鳴らした。
――だが、四日目から宿屋の客は減りはじめた。
一年後、武器屋が一軒閉じた。
三年後、薬屋が畳んだ。
五年後、若い冒険者は別の街へ流れた。
そして十年後。
残ったのは、英雄像と。
英雄の時代に取り残された人々だった。
◇
王都から西へ、馬で七日。
街道がぷつりと途切れ、乾いた草地の向こうに、石造りの街がぽつんと浮かんでいた。
「おお~~~!」
門が見えるなり、アルは荷台から身を乗り出した。
「来ましたよ! ついに! あの《リグラード大迷宮》ですよ! 冒険者たちの聖地ですよ! 僕もついに冒険者デビューですよ!」
「うるさい。句点を使え」
手綱を握るライネルが、額を押さえてため息をつく。
セリアは隣で手帳を開いたまま、冷静に街の外壁を見ていた。
「外壁の補修が遅れています。門番の数も少ない。聖地というより、維持費に困っている街です」
「現実をいきなり投げつけないで、セリア」
「観察です」
空を滑るように並走していたリュシエルが、くすりと笑った。
「いいじゃない。夢くらい見させてあげなさいよ」
そして、少しだけ意地悪そうに付け加えた。
「元・聖地だけどね」
「え。いま過去形入りました?」
アルの笑みが引きつる。
「……嫌な予感しかしないな」
ライネルの予感は、だいたい当たる。
門をくぐれば、それはすぐ分かった。
石畳はところどころひび割れている。
道沿いの建物には、《売却》《貸店舗》の札。
板で扉を打ち付けられた酒場。
看板だけが残った武器屋。
窓の割れた宿屋。
妙に広い大通りだけが、往時の賑わいを物語っていた。
その中央には、豪華すぎる英雄像がそびえている。
両手には剣と魔導書。
胸板は無駄に厚い。
足元には、かつての偉業を称える碑文。
だが、その英雄像を見上げる者はほとんどいなかった。
「立派な像ですねぇ……」
「像だけな」
ライネルの一言が、妙に寂しく響いた。
それでも石壁の一角には、《冒険者ギルド》の看板が残っていた。
アルの顔がぱっと明るくなる。
「よし! まずは登録ですね!」
「ようやく本来の目的に戻るのか」
ライネルが少し安堵する。
その安堵が長続きしないことを、セリアだけはすでに察していた。
◇
アルが勢いよくギルドの扉を開けた。
カラン。
鈴の音が、静かなホールに響く。
広い。
だが、人がいない。
テーブルが数卓。
壁の依頼掲示板には、数枚の紙が寂しく揺れている。
カウンターの奥では、茶色い髪の受付嬢――ミレイナ・クロフが頬杖をついたまま、ぼんやりと宙を見ていた。
「すみませーん、新規登録を――」
「はいはい。登録ね。身分証と推薦状と、死亡時の連絡先を――」
慣れた調子で答えながら、ミレイナが顔を上げる。
そして固まった。
「……え?」
「はい?」
「新人?」
「はい! これでも一応、勇者志望です!」
アルが胸を張る。
隣でライネルが、小さく咳払いした。
「『志望』を大きく強調しておいてくれ」
「え、ええと……」
ミレイナは、台詞を忘れた役者のように口をぱくぱくさせた。
やがて、気の毒そうな顔になった。
「いまどき、この街で冒険者になりたい人なんて、まだいたのね……」
「まだ?」
アルが固まる。
「まだって何ですか、まだって」
「だって――」
ミレイナは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「リグラード大迷宮は、十年前に完全踏破されています」
「…………」
「モンスターも、ほぼいません」
「…………」
「罠も解除済みです」
「…………」
「探索依頼も、ほぼゼロです」
「…………」
「残っているのは、古い石と、たまに記念の小銭を拾う観光客くらいですね」
アルの笑顔が、ゆっくりと固まっていった。
「じゃ、じゃあ……最深部の魔竜とか」
「討伐済みです」
「五層同時殲滅戦とか」
「終了済みです」
「英雄たちの死闘とか……」
「十年前です」
「全部、過去形……」
「はい」
アルの肩が落ちた。
「冒険者デビュー前にエンディング迎えた感じなんですけど……」
ライネルが少し気の毒そうに言う。
「まあ、危険がないのは良いことだ」
「勇者志望としては良くないです」
「安全で何よりだろう」
「物語が始まる前に終わってます」
ミレイナは少し笑った。
だが、その笑みはすぐに薄くなる。
胸元から、小さなペンダントを取り出した。
中には、あの英雄像と同じ男の肖像が収められている。
「父が、最後の攻略隊にいました」
「お父様、伝説側の人!?」
アルは背筋を伸ばし、本人がいないのにペンダントへ向かってぺこりと頭を下げた。
「……変な人ですね、あなた」
「よく言われます」
ミレイナはギルドの奥を見た。
ひっそりした酒場。
磨かれたまま埃をかぶるカウンター。
壁には、かつて使われていた大迷宮の地図。
無数の赤い印が打たれている。
そのすべてが、
《踏破済》
だった。
「完全攻略してから、街はこうなりました」
声は淡々としている。
だが、その奥には悔しさがあった。
「派手な戦いは終わりました。残ったのは、行き場のない街と、やることのないギルドです」
アルはしばらく黙っていた。
そして。
目が変わった。
さっきまで肩を落としていた少年の瞳に、急に光が入る。
ライネルの胃が反射的に痛んだ。
「ねぇ、ライネル」
「……なんだ」
「モンスターがいない」
「ああ」
「罠もほぼ解除済み」
「そうだな」
「構造調査も終わってる」
「そう言っていたな」
「つまり――」
アルの口元が、にっと上がる。
「安全で、涼しくて、頑丈で、広くて、上下にたくさん区画がある巨大地下施設が、丸々余ってるってことですよね?」
「その言い方だと、急に宝の山に聞こえるのをやめろ」
セリアが手帳を開いた。
「いえ。兄さまの認識は間違っていません。維持可能なら、地下施設として相当な価値があります」
「セリア様まで乗らないでください」
ライネルが頭を抱える。
リュシエルはミレイナを見る。
「見に行ける?」
「迷宮ですか?」
「うん」
ミレイナは少し迷った。
やがてギルドの奥へ声を飛ばす。
「アーノルドさん。入口まで案内してもらえます?」
奥の席から、壮年の男が顔を上げた。
肩幅が広い。
額には古い傷。
装備はもう冒険者のものではないが、立ち姿だけで長く戦場を歩いてきた男だと分かる。
「また観光客か」
「いえ」
ミレイナはアルを見る。
「たぶん、もっと面倒です」
「ひどい」
「終わった迷宮を見て、宝の山みたいな顔をする人ですから」
アーノルドはアルを一度だけ見た。
「……嫌な客だな」
「まだ何もしてませんよ?」
「そういう奴ほど何かする」
ライネルが小さく頷いた。
「分かる」
「裏切らないで」
◇
実際に見に行こう。
アルのその一言で、一行はギルド裏口から迷宮へ向かった。
重厚な石造りの階段を降りていく。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
足音が壁にぶつかり、二度、三度と返ってきた。
「温度、一定ですねぇ」
アルが周囲を見回す。
「湿度も悪くない。夏は涼しくて、冬は暖かいタイプの空気です、これ」
「感想がおっさんの倉庫管理人なんだよな」
ライネルがぼそりと突っ込む。
第一層。
かつて猛獣がうろつき、罠が冒険者の足をすくったという通路は――。
「……何もないな」
本当に、何もなかった。
古びた松明台。
壁に残る焼け跡。
床には昔のチョーク跡。
残っていた罠をアルが踏む。
きゅぽん。
妙に間の抜けた音がした。
「……何です、これ」
「誰かがバネだけ残して遊び道具にした」
アーノルドが答える。
アルはもう一度踏んだ。
きゅぽん。
さらに踏む。
きゅぽん。
「やめろ」
「いい音」
「やめろと言っている」
壁には、当時の案内文字まで残っている。
《こっち宝箱》
《こっちボス》
《ここ落ちるな》
「かなり親切ですね」
「攻略末期には、迷宮じゃなく工事現場みたいになってたからな」
アーノルドが苦く笑う。
リュシエルは天井へ顔を向けた。
黄金の瞳が細くなる。
「柱も梁もまだ生きてる」
「分かるんですか?」
「匂いでね。魔力の傷も浅い。大きな地殻変動でもなければ、あと百年くらいは持つんじゃない?」
「百年!」
アルの声が迷宮に響いた。
「百年も使える構造物を放置してるんですか!」
「声が大きい」
「だって、もったいないですよ!」
アルは通路を見回した。
「雨が入らない。風にも強い。温度は安定。棚を置けば倉庫になる。広間は人が集まれる。通路は区画を分けやすい。避難場所にもなる」
そして、ぽつりと言った。
「ここ、市場にしたら面白そうですね」
「市場?」
アーノルドの顔から、わずかに笑みが消えた。
「ここは、血と汗と涙を流して攻略した戦場だ」
低い声だった。
「屋台を並べて酒を飲む場所じゃない」
空気が変わる。
その言葉には怒りがあった。
だが、それ以上に。
置いてきた者への痛みがあった。
アルは、すぐには答えなかった。
壁へ手を触れる。
焼け跡。
剣傷。
そこに刻まれた時間を見るように。
「……そうですね」
アーノルドが少し意外そうに見る。
「軽く扱っていい場所じゃない」
アルは静かに言った。
「でも」
壁から手を離す。
「血と汗と涙が流れた場所なら、今度は水とお金を流してもいいんじゃないでしょうか」
「何?」
「役目を終えた剣は、壁に飾るだけが仕事じゃありません」
アルは振り返った。
「刃を丸めて鋤にすれば、畑を耕せます」
声はいつものように柔らかい。
けれど目だけは真剣だった。
「戦場だったから、ずっと戦場のままでいなきゃいけないんでしょうか」
アーノルドは答えない。
「ここで戦った人たちが安全にしてくれたから、次の人が別のことに使える」
アルは続けた。
「戦場の後始末まで含めて、残った人間の仕事だと思うんです」
沈黙。
やがてアーノルドが息を吐いた。
「……口だけは達者だな」
「剣より得意です」
「そこは威張るな」
ライネルが即座に突っ込んだ。
セリアは手帳に短く記す。
《観察》
《攻略済み迷宮を地下インフラとして再評価》
《ただし、戦場記憶への配慮必須》
◇
その日の夕方。
ギルドの会議室に、人が集められた。
リグラード冒険者ギルド長、フォルク・バレン。
数人の元冒険者。
街の商人。
役所の担当者。
ミレイナ。
アーノルド。
そして、アルたち。
壁には、もう何年も書き換えられていない《迷宮攻略状況板》が掛けられている。
その前に、アルが立った。
「というわけで――」
ぱん。
棒で断面図を叩く。
「《大迷宮再利用計画・仮》です」
「仮、を強調しろ」
ライネルが言う。
「仮です」
迷宮の断面図には、いくつかの文字が書き込まれていた。
《地下市》
《訓練区画》
《倉庫》
《避難区画》
《追憶区画》
「全部を一気に変えるつもりはありません」
アルはまず、そう断った。
「そんなお金も人もありませんし、僕も面倒です」
「最後の理由が台無しだ」
「重要ですよ」
アルは第一層の入口近くを指す。
「まずはここ。第一層の一画だけを、一ヶ月試験運用します」
新しい板を出す。
《試験運用》
一ヶ月限定。
第一層入口付近のみ。
出店条件。
一、地上で店を維持できなくなった商人。
二、まだ独立した店を持てない職人見習い。
三、リグラードに居住、もしくは定期的に商売を行う者。
商人の一人が手を挙げた。
「地下で安売りされたら、地上の店が潰れるぞ」
「そうなります」
アルはあっさり答えた。
「おい」
ライネルが顔をしかめる。
「だから、同じものを売らせません」
「どういうことだ?」
「地上の店は品揃えと専門性。地下は小さな屋台と新規参入」
アルは二本の線を引いた。
「同じ客を奪い合うんじゃなくて、地下で新しい客を増やします」
「そんなにうまくいくか?」
「たぶん、うまくいきません」
会議室がざわついた。
フォルクが片眉を上げる。
「お前さん、計画を売り込みに来たんじゃないのか?」
「はい。でも、最初から完璧にいく計画なんて怖いです」
アルはさらりと言った。
「だから、一ヶ月だけやって、失敗を全部見えるようにします」
次の板。
一、来客数。
二、売上。
三、事故件数。
四、苦情件数。
五、白石と黒石。
「白石と黒石?」
役人が首をかしげる。
「役に立ったら白石。困ったことがあったら黒石」
「それだけか?」
「それだけです。字が読めなくても参加できます」
セリアが横から補足する。
「黒石には、受付で理由を記録します。集計だけで終わらせず、原因と改善内容を残します」
「なるほど」
「そして、地下市と地上商店の調整日を週に一度」
アルが続ける。
「揉めるのは止められません。でも、揉める日と場所は決められます」
「……お前さん、本当に十五か?」
フォルクが呟く。
「もうすぐ十六です」
「そこは疑ってない」
セリアはすでに別の紙を書き始めていた。
《地下市試験運用規則》
一、使用区画を勝手に広げない。
二、火気は指定場所のみ。
三、通路を商品で塞がない。
四、事故は大小を問わず当日報告。
五、黒石の理由は必ず記録。
六、旧攻略記念区画では商売禁止。
七、元ボス部屋で鍋は禁止。
アルが最後の一文を見る。
「元ボス部屋で鍋、駄目?」
「駄目です」
「雰囲気出そうなのに」
「追憶と油煙を混ぜないでください」
リュシエルが吹き出した。
「セリアは容赦ないわね」
「規則がなければ、兄さまの夢は三日で揉め事になります」
「それは正しい」
ライネルが即答する。
フォルクは腕を組んだ。
「……反対意見は?」
アーノルドが手を上げた。
「俺は反対だ」
会議室が静かになる。
「迷宮で仲間を失った」
ゆっくりと言った。
「そこを酒場や市場へ変えられるのは、理屈でどう言われても腹が立つ」
アルは逃げなかった。
「はい」
「認めるのか」
「腹が立つのは当然だと思います」
アルは迷宮図を指した。
「だから、旧攻略拠点の一画を《追憶区画》として残したいです」
「追憶?」
「昔の姿をできるだけ残す」
指で一角を囲む。
「当時の地図。使われていた武器。攻略隊の名簿。亡くなった人たちの記録。若い冒険者が訓練を始める前に、まずここを見る」
アーノルドは黙っている。
「ここがあったから、今があるって分かるようにします」
「……商売は?」
「禁止」
「酒は?」
「禁止」
「鍋は?」
「セリアが禁止しました」
「当然です」
アーノルドはしばらくアルを見ていた。
やがて、苦い顔で笑った。
「……あんた、ずるいな」
「よく言われます」
「仲間を忘れないなら……全部腐らせて残すよりは、ましかもしれん」
フォルクが深く息を吐いた。
「一ヶ月だ」
アルの顔が明るくなる。
「では――」
「第一層の一画だけ。事故が出たら即時見直し。死人が出る危険があるなら中止。追憶区画では商売禁止。地上商人との調整も義務」
フォルクはアルをまっすぐ見る。
「それでよければ、試してみろ」
アルは勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
ライネルがぼそりと言った。
「冒険者登録に来たはずなのに、街の再開発会議を始めやがった」
「兄さまですから」
セリアは平然としている。
「でも、まだ登録してませんね」
「……あ」
アルが固まる。
ミレイナがにっこり笑った。
「会議が終わったら書類を書いてもらいます」
「寝たら駄目?」
「駄目です」
◇
一ヶ月後。
迷宮第一層。
全部が変わったわけではない。
開放されたのは、入口に近い広間と、そこへ続く二本の通路だけ。
だが。
かつてオークがうろついていたという広間には、人の声が満ちていた。
天井から吊るされた灯り。
壁際に並ぶ小さな屋台。
焼きたてのパン。
串焼き。
古道具。
錬金薬の試作品。
見習い仕立て屋の服。
地下水で冷やした果実水。
そして。
「階段下の謎スープだよ! 安全だけど味は冒険!」
「説明が不安でしかないんだが」
ライネルが顔をしかめる。
「面白いじゃない」
リュシエルは楽しそうだった。
地上で店を維持できなくなった商人。
まだ自分の工房を持てない若い職人。
仕事を失っていた元冒険者。
小さな場所だった。
だが、そこには確かに仕事が生まれていた。
入口には、《本日の集計》が掲げられている。
《本日の集計》
来客数 三百二十七人
事故件数 ゼロ
事故ゼロ継続 十日
白石 七十二
黒石 四
セリアがミレイナに尋ねる。
「黒石四。内容は?」
「床が滑る。一件」
「はい」
「匂いがこもる。一件」
「はい」
「値札が小さい。一件」
「はい」
「元ボス部屋で鍋をやるな。一件」
ライネルが即座に頷いた。
「最後は全面的に支持する」
アルが不服そうな顔をする。
「まだ言ってるの?」
「雰囲気が」
「諦めてください」
セリアは続ける。
「改善は?」
「床には滑り止めの敷物。空気は換気用の魔道具。値札は倍の大きさ。元ボス部屋には『鍋禁止』の札を立てました」
「対応済みですね」
「黒石が見えると、放っておけませんから」
ミレイナが笑った。
以前のような、諦めた笑いではなかった。
忙しい。
面倒。
仕事は増えた。
それでも、自分が働いた分だけ街が動いていると分かる人間の顔だった。
広間の奥。
木製の仕切りの向こうでは、小規模な訓練区画も試験運用されていた。
若者たちが、木製の罠や擬似ゴーレムを相手に汗を流している。
指導するのは、かつて迷宮を生き延びた元冒険者たち。
「足元だけ見るな!」
アーノルドの怒声が響く。
「罠は床だけにあると思うな! 壁! 天井! 仲間の背後! 全部見ろ!」
「はい!」
「英雄譚を信じる前に、床板を疑え! 死なねえ奴が一番偉い!」
アルが感心したように頷いた。
「いい先生ですね」
「言い方は怖いがな」
ライネルが言う。
アーノルドがこちらへ歩いてきた。
「……悪くない」
「何がです?」
「全部だ」
彼は訓練区画を見た。
「戦った場所が、次の連中を生きて帰す場所になってる」
アルは湯飲みを差し出した。
「お茶、どうぞ」
「お前はほんと、茶と制度で世界を動かそうとするな」
「剣より安全ですから」
「その割には面倒ばかり拾ってるけどな」
ライネルが横から言った。
◇
その日の夜。
地下市から少し離れた旧攻略拠点。
《追憶区画》には、静かな灯りだけがともっていた。
壁には、かつて迷宮で命を落とした者たちの名。
傷だらけの盾。
折れた剣。
古い地図。
攻略隊の名簿。
英雄たちの肖像画。
そして中央には、小さな札が置かれている。
『ここで戦った人たちのおかげで、いま私たちは、この場所を安全に歩くことができます』
その下に、少し小さな字。
『だから、帰りに地下市で何か買ってください』
セリアが無言で札を見た。
「兄さま」
「はい」
「下の一行を消します」
「駄目?」
「駄目です」
「経済循環が」
「追憶区画で営業しないでください」
リュシエルがくすくす笑う。
「でも、上の文は悪くないわ」
アーノルドは札を眺めていた。
しばらくして、静かに笑った。
「……あいつらなら、下の一行の方を笑うだろうな」
フォルクも、壁に刻まれた名前を見ていた。
「この街は、終わったと思っていた」
低い声が、石の空間に響く。
「迷宮が終わった時、この街の役目も終わったんだと」
アルは首を横に振った。
「終わったのは、迷宮攻略です」
フォルクが少年を見る。
「街まで終わる必要はありません」
「簡単に言うな」
ライネルが言った。
「簡単じゃないですよ」
アルは笑う。
「だから、みんなで分けてやるんです」
ミレイナが少しだけ目を伏せる。
アーノルドは古い盾を見る。
フォルクは、遠くから聞こえてくる地下市の声に耳を澄ませた。
笑い声。
食器の音。
商人の呼び声。
十年前にはなかった音。
それでも確かに。
迷宮が生きていた頃と同じ、人の暮らす音だった。
◇
その頃。
遥か東。
魔王城。
黒曜石で造られた玉座の間に、燐光が淡く揺れていた。
一枚の報告書が、玉座へ捧げられる。
宰相が淡々と読み上げた。
「《リグラード大迷宮・戦略価値再評価報告》」
玉座の上。
魔王ノクト・ヴァルグレイスが頬杖をついている。
「続けろ」
「かつて完全踏破された大迷宮の一部が、現在――」
宰相が紙をめくる。
「地下市としての経済活動」
「訓練施設としての人材育成」
「将来的な倉庫利用」
「非常時の避難施設」
「戦没者記録を保存する追憶区画」
「以上の用途を持つ都市施設として再編されつつあります」
ノクトの目が細くなった。
「……迷宮を壊さず、意味だけを変えたか」
「はい」
「これは勇者の発想ではない」
低い声。
「統治者の発想だ」
宰相は続ける。
「中心人物は、レーヴェルト家嫡男――アルノルト・レーヴェルト」
一拍。
「通称、努力しない勇者志望」
「努力しない、ね」
ノクトが、くつ、と笑う。
「怠け者ほど厄介なものはない」
玉座の横には、一枚の地図が広げられていた。
その上に、小さな印がいくつもある。
牧場。
井戸。
川。
透明帳簿の村。
眠らぬ橋。
そして。
リグラード。
ノクトの指が、その名を叩く。
「自分が楽をするために、世界の形そのものを変えようとする」
「要警戒対象へ加えますか」
「加えろ」
「御意」
「それと」
ノクトは報告書を閉じなかった。
「地下市の運用規則を軍務局へ回せ」
宰相がわずかに眉を上げる。
「採用されるので?」
「違う」
ノクトは薄く笑った。
「使える部分と、使えない部分を調べさせろ。敵の知恵でも、役に立つなら捨てる理由はない」
「承知しました」
魔王は再び報告書へ目を落とす。
「剣を振るう勇者なら、倒せば止まる」
声が静かになる。
「だが、仕組みを作る勇者は違う」
指先が、アルノルトの名を叩いた。
「本人が寝ていても、仕組みは働き続ける」
玉座の間に、低い笑いが落ちた。
「こちらの方が、よほど厄介だ」
◇
同じ頃。
当の本人は――。
「アル。閉店時間だぞ」
「うん。じゃあ寝ます」
「ここで寝るな!」
地下市の片隅。
アルは、丸めたマントを枕にしようとしていた。
ライネルが襟首をつかむ。
「宿へ戻れ!」
「でも地下って、寝るのに最適な温度なんですよ……」
「知っている。だからこそ、お前を置いていけないんだ」
セリアは横で手帳を閉じた。
「兄さまをここへ放置した場合、明朝には地下市の備品と誤認される可能性があります」
「僕、備品?」
「寝台の展示物です」
「ちょっと面白そう」
「面白がらないでください」
リュシエルは三人を見て、ふっと笑った。
「じゃあ、この街が本当に最強になる前に、アルの睡眠時間を削る制度でも作ろうかしら」
アルが目を見開いた。
「それは全力で阻止します」
「急に起きたな」
「努力しないで回る街を作るのが、僕の目標ですから」
いつもの眠そうな顔。
だが、その目だけは妙にまっすぐだった。
リュシエルが少し黙る。
「……今のは、少し勇者っぽかったわ」
「ほんと?」
「少しだけ」
「じゃあ褒めて」
「調子に乗るな」
ライネルはアルを引きずりながら、深々とため息をついた。
地下市の灯りが、石壁に揺れている。
閉じたはずの物語。
終わったはずの冒険。
だが、その場所には今、新しい声が満ちていた。
終わったのは、迷宮攻略という一つの役目だけだった。
街はまだ、生きている。
そして。
アルが作った仕組みが、これからどこまで広がっていくのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
魔王でさえ。
この廃れかけた迷宮都市から、
「勇者が戦わなくても、人が生きていける時代」
その最初の形が生まれようとしていることまでは。
地下の灯りは消えない。
その真ん中で。
努力しない勇者志望は、今日も宿へ引きずられていった。




