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第九話 名前のない母


 朝。


 目を覚ますと。


 古い音楽プレイヤーが。


 枕元にあった。


 昨夜と同じ場所。


 けれど。


 昨日とは少し違って見えた。


 俺は手を伸ばした。


 電源を入れる。


 画面には。


 何も表示されない。


 再生履歴もない。


 昨日聞いたはずの声も。


 曲名も。


 全部。


 最初から存在しなかったみたいに消えていた。


「……なんだよ」


 俺は。


 しばらく画面を見つめた。


 それから。


 電源を切った。


 聞かなかったことにする。


 そういうことにした。


 昨日までは。


 この音楽プレイヤーが。


 俺を旅へ連れてきた。


 祖母からもらった。


 古い。


 小さな。


 何の変哲もない音楽プレイヤー。


 それだけだった。


 けれど。


 今は。


 違う。


 俺は。


 これが怖かった。


     *


 食堂へ行くと。


 老人はすでに座っていた。


 紅茶を飲んでいる。


「おはようございます」


「おはよう」


 老人は。


 いつものように笑った。


「眠れたかい?」


「まあ」


「そうか」


 俺は。


 老人の向かいに座った。


 昨日のことを。


 聞こうと思った。


 けれど。


 聞けなかった。


「……」


「……」


 二人とも。


 紅茶を飲んでいる。


 気まずい。


 そのとき。


「おはよう」


 女が入ってきた。


「遅い」


 老人が言う。


「おじいちゃんが早すぎる」


「昨日も聞いたよ、それ」


「じゃあ覚えてたんだ」


 女は。


 俺の隣に座った。


 そして。


 俺を見る。


「聞いた?」


「……何を?」


「夜」


「……」


 女の顔を見る。


 こいつ。


 知っている。


「聞いた」


「そう」


「お前も?」


「私は聞いてない」


「じゃあ何で分かるんだよ」


「顔」


「それ便利すぎない?」


 女は。


 紅茶を飲んだ。


「何て言ってた?」


「……」


 俺は。


 老人を見る。


 老人は。


 新聞を読んでいる。


 聞いていないふりをしている。


「『お金が欲しかったんじゃない』って」


「そう」


「その先が分からない」


「そう」


「お前は知ってる?」


「知らない」


「……」


「でも」


 女は。


 紅茶を置いた。


「今日なら聞けるかもね」


「何で?」


「昨日より近くにいるから」


「何に?」


 女は。


 答えなかった。


 その代わり。


 老人へ目を向けた。


「ねえ」


「何だい?」


「昨日の続きを話して」


 老人の手が。


 止まった。


 新聞の紙が。


 小さく揺れた。


「……」


 老人は。


 新聞を畳んだ。


「君は本当に遠慮がないね」


「そう?」


「そうだよ」


「じゃあ話して」


「……」


 老人は。


 窓の外を見る。


 朝の庭。


 昨日の海とは。


 何もかも違う。


「私の母親は」


 老人が言った。


「貧しい家の出だった」


「……」


「父親は?」


 俺が聞く。


「早くに死んだ」


「そうですか」


「だから。


 母親は。


 一人で私たち兄弟を育てた」


「兄弟?」


「弟が一人」


 昨日聞いた。


 弟。


 老人と一緒に海へ行った。


「二人とも。


 よく腹を空かせていた」


 老人は。


 淡々と話す。


「パン一つを。


 三人で分けるような日もあった」


「……」


「母親は。


 いつも自分の分を残した」


「優しい人だったんですね」


「いや」


 老人が言う。


「違う」


「え?」


「母親は。


 自分が食べたふりをしていただけだ」


 俺は。


 黙った。


「私たちが寝たあとに。


 残ったパンを食べていた」


「……」


「私は。


 ずっと気づいていた」


 老人は笑った。


「でも。


 気づかないふりをしていた」


 それから。


「子供だったからね」


 と言った。


「母親が笑っているなら。


 それでいいと思っていた」


「……」


「それが。


 私の母親だった」


 女が。


 静かに聞いている。


「それで」


 老人は続ける。


「私は。


 金持ちになろうと思った」


「母親を楽にするため?」


「そう」


「だから願った?」


「……」


 老人は。


 少しだけ考えた。


「それもある」


「それも?」


 老人は。


 俺を見る。


「君は。


 金持ちになりたいと思ったことはあるかい?」


「……あります」


「何のために?」


「何のためって……」


 考える。


 家。


 服。


 車。


 旅行。


 好きなもの。


 嫌な仕事をしなくていい生活。


 それから。


 誰にも何も言われない自由。


「自由になりたいから」


「そう」


「あと。


 誰にも馬鹿にされたくない」


 老人は。


 頷いた。


「そうだね」


「それが?」


「私も。


 似たようなものだった」


 老人は。


 紅茶を一口飲んだ。


「母親を楽にしたかった」


「はい」


「弟にも。


 腹いっぱい食わせてやりたかった」


「はい」


「それから」


 老人が。


 少し黙る。


「二度と。


 誰かに頭を下げたくなかった」


 俺は。


 老人の顔を見る。


「貧しいとね」


「……」


「何をするにも。


 誰かに頭を下げる」


 老人の声は。


 静かだった。


「働かせてください」


「金を貸してください」


「少し待ってください」


「申し訳ありません」


「すみません」


「ごめんなさい」


「そういう言葉ばかり。


 覚えていった」


「……」


「だから。


 金持ちになりたかった」


 老人は。


 そこで。


 少しだけ笑った。


「誰にも。


 頭を下げなくて済むように」


 俺は。


 昨日の声を思い出した。


『私は、金持ちになりたかった』


『金があれば、母を助けられると思った』


『金があれば、誰も私を馬鹿にしなくなると思った』


『金があれば、もう誰にも捨てられないと思った』


 そして。


『でも本当は』


 そこから先。


 声は止まった。


「それで」


 俺は聞いた。


「願いは叶ったんですか?」


「叶ったよ」


 老人は。


 即答した。


「……本当に?」


「ああ」


「どうやって?」


「働いた」


「え?」


「私は。


 自分の手で稼いだ」


「ガルガンチュアに頼んだんじゃ?」


「頼んだ」


「じゃあ」


「でも。


 金が空から降ってきたわけじゃない」


「……」


 老人は。


 笑った。


「私は。


 死ぬほど働いた」


 その言葉に。


 妙な重みがあった。


「寝る時間を削って。


 働いた」


「……」


「失敗して。


 借金をして。


 また働いた」


「……」


「騙されたこともある」


「はい」


「騙したこともある」


「……」


「人を蹴落としたこともある」


「……」


「誰かの仕事を奪ったこともある」


「……」


「それでも。


 私は金を手に入れた」


 老人は。


 自分の手を見る。


「一枚。


 また一枚。


 一枚。


 また一枚」


「……」


「気づいたら。


 数えるのが馬鹿らしくなるほど。


 金があった」


「それで」


 俺は聞いた。


「幸せになった?」


 老人は。


 答えなかった。


 女も。


 黙っている。


 長い沈黙。


 そして。


「分からない」


 老人は言った。


「……」


「私は。


 幸せというものを。


 あまり考えたことがない」


「じゃあ」


「金があったから。


 困らなくなった」


「はい」


「食べるものには困らない」


「はい」


「住むところにも困らない」


「はい」


「人から馬鹿にされることもなくなった」


「……」


「欲しいものは買えた」


「……」


「でも」


 老人は。


 窓の外を見る。


「嬉しかったかと聞かれると」


 少し。


 困ったような顔をした。


「よく分からない」


     *


 そのあと。


 老人は。


 俺たちを屋敷の地下へ連れていった。


 地下室は。


 思っていたより広かった。


 棚が並んでいる。


 箱。


 絵。


 古い家具。


 置物。


 時計。


 写真。


 何でもあった。


「ここは?」


「倉庫」


「……」


「私が買ったものを置いてある」


「これ全部?」


「ああ」


「すごい」


 俺は。


 棚を見て回った。


 古い時計。


 宝石。


 食器。


 絵画。


 古い玩具。


 どれも。


 高そうだった。


 けれど。


 どこか。


 寂しい。


 誰も使っていないからだ。


「これは?」


 棚の奥。


 小さな木箱があった。


 老人が。


 足を止めた。


「それは」


「はい」


「昔のものだ」


 老人が。


 箱を開ける。


 中には。


 一枚の写真。


 古い。


 色褪せている。


 そこには。


 三人の人間が写っていた。


 少年。


 少年より少し幼い男の子。


 そして。


 若い女性。


「これが」


 老人が言った。


「母親」


 俺は。


 写真を見る。


 老人の母親。


 笑っている。


 優しそうな人だった。


 その横に。


 小さな老人。


 そして弟。


「これ」


 俺は。


 写真の端を指差した。


「列車?」


「ああ」


 写真の隅。


 少年が。


 小さな木製の列車を持っている。


 昨日のものと。


 同じ形。


「これって」


「昨日の列車だよ」


「……」


 老人は。


 写真を見た。


「そうだったのか」


「え?」


「これ」


 老人が。


 写真を指差す。


「昨日買った列車と。


 同じだったんだ」


「……」


 俺は。


 何も言えなかった。


 老人自身が。


 気づいていなかった。


 何十年も。


 この写真を持っていたのに。


 それなのに。


 昨日。


 偶然買った木製の列車が。


 同じものだった。


「どうして」


 女が言った。


「昨日それを買ったの?」


 老人は。


 少し考えた。


「……分からない」


「覚えてない?」


「ああ」


「変だね」


「そうだね」


 老人は。


 写真を持ったまま。


 黙り込んだ。


 俺は。


 その写真をよく見る。


 母親。


 少年。


 弟。


 三人。


 海へ行く前。


 きっと。


 幸せだった。


 少なくとも。


 この写真の中では。


 そう見えた。


「この写真」


 俺は言った。


「誰が撮ったんです?」


「……」


 老人が。


 止まる。


「分からない」


「え?」


「分からないんだ」


「でも」


「母親が撮ったのかもしれない」


「じゃあ。


 写ってないじゃないですか」


「……そうだね」


 老人が。


 写真を見る。


「じゃあ。


 誰が撮ったんだろうね」


 俺は。


 女を見る。


 女も。


 写真を見ている。


「弟さんは?」


 俺が聞く。


「何が?」


「この弟さん」


 写真の少年を指差す。


「今は?」


 老人が。


 黙った。


「……」


 その顔を見て。


 俺は。


 嫌な予感がした。


「死んだ?」


 老人は。


 首を横に振った。


「……」


「じゃあ?」


「分からない」


「え?」


「分からないんだ」


 老人は。


 写真を握りしめた。


「どこにいるのか」


「……」


「いつから会っていないのか」


「……」


「どうして会わなくなったのか」


「……」


「何も」


 老人の声が。


 震えた。


「覚えていない」


 俺は。


 背中が寒くなるのを感じた。


 母親の名前。


 弟の行方。


 家族との別れ。


 それらが。


 全部。


 老人の中から。


 抜け落ちている。


 でも。


 金はある。


 家もある。


 名誉もある。


 財産もある。


 何もかも。


 手に入っている。


 なのに。


 肝心なものだけが。


 ない。


「……やっぱり」


 俺は。


 呟いた。


「何?」


 老人が見る。


「ガルガンチュアは」


 言葉が。


 喉につかえる。


「……」


「何?」


 俺は。


 言った。


「何かを食べてるんですよ」


 老人が。


 俺を見る。


「人間が願いを叶えると」


「……」


「代わりに。


 何かを食べる」


「……」


「お金が欲しいなら。


 お金を与える代わりに」


 俺は。


 写真を見る。


「大切なものを」


「……」


「一つずつ」


 老人の顔から。


 表情が消えた。


「そうか」


 それだけ。


 言った。


 否定しない。


 怒らない。


 笑わない。


 ただ。


「そうだったのか」


 老人は。


 写真の中の母親を見る。


 それから。


 小さな列車を見る。


「だから」


 老人が言った。


「私は。


 こんなに金を持っているのに」


「……」


「母親の名前も。


 弟のことも。


 思い出せないのか」


 俺は。


 答えなかった。


 答えられなかった。


 そのとき。


 女が。


 ぽつりと言った。


「違う」


 俺と老人が。


 女を見る。


「何が?」


 俺が聞く。


 女は。


 写真を見ている。


「まだ分からない」


「何がだよ」


「ガルガンチュアが。


 何を食べたのか」


「……」


「それが分かってない」


 女は。


 老人を見る。


「この人が忘れたものが。


 全部。


 ガルガンチュアに食べられたとは限らない」


「じゃあ」


「知らない」


「……」


「だから。


 探すんでしょ」


 女が。


 写真を老人へ返す。


「何を?」


「この人が。


 何を願ったのか」


「……」


「本当の願いを」


 老人は。


 写真を受け取った。


 そして。


 しばらく。


 母親の顔を見ていた。


 そのとき。


 俺のポケットの中で。


 音楽プレイヤーが。


 また震えた。


 俺は。


 取り出した。


 画面を見る。


 昨日と同じ。


 何も表示されていない。


 なのに。


 イヤホンから。


 小さな音が漏れた。


 女の声。


『私は』


 俺は。


 イヤホンを耳に当てた。


『本当は』


 老人も。


 こちらを見る。


『お金なんて』


 そこで。


 音が途切れた。


「……」


 俺は。


 息を吐く。


 老人が。


 呟いた。


「またか」


「はい」


「何て?」


「……」


 俺は。


 答えられなかった。


 そのとき。


 女が。


 俺の手から音楽プレイヤーを取った。


「おい」


「少し借りる」


「何するんだよ」


「見るだけ」


 女は。


 裏返す。


 側面を見る。


 それから。


 裏蓋を指で撫でた。


「……」


「どうした?」


「これ」


「何?」


「傷」


 女が。


 側面の小さな傷を指差す。


「昨日ついた?」


「いや。


 昔から」


「そう」


「何?」


「なんでもない」


 女は。


 音楽プレイヤーを返した。


「……」


 俺は。


 女を見る。


「何か知ってるだろ」


「知らない」


「嘘」


「本当」


「じゃあ何で」


 女は。


 俺の目を見る。


「この話」


「……」


「最後まで聞いたら。


 たぶん。


 あなたは。


 ガルガンチュアを嫌いになるよ」


 俺は。


 何も言えなかった。


 老人が。


 写真を胸元へしまった。


「なら」


 老人が言う。


「最後まで聞こう」


 俺は。


 老人を見る。


「いいんですか?」


「うん」


「怖くない?」


「怖いよ」


 老人は。


 笑った。


「でも」


 写真をしまった胸を。


 そっと押さえる。


「知りたい」


「……」


「私は。


 何を失ったのか」


 地下室を。


 静寂が包む。


 しばらくして。


 遠くから。


 列車の音が聞こえた。


 この屋敷の近くを。


 線路が通っている。


 夜の列車。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 音は。


 遠ざかっていく。


 老人は。


 その音を聞きながら。


 小さく呟いた。


「……母さん」


 俺は。


 初めて聞いた。


 老人が。


 母親をそう呼んだのを。


「母さん」


 もう一度。


 老人が言った。


 その名前だけは。


 まだ。


 食べられていなかった。

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