第八話 帰り道
帰りの列車は、行きより空いていた。
夕方の海は。
昼間より少しだけ暗い。
窓の向こうで、水平線が茜色に染まっている。
老人は。
ずっと黙っていた。
少女と、その母親は別の車両へ行った。
俺たちは。
三人だけだった。
老人。
女。
俺。
俺は窓際に座り。
古い音楽プレイヤーを膝の上に置いていた。
電源は切れている。
イヤホンも外してある。
それでも。
何となく。
気になって仕方がなかった。
海で写真を撮ったとき。
確かに震えた。
あれが。
何だったのか。
分からない。
けれど。
今は。
何も起こらない。
列車が走る。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
その音だけが。
車内に響いている。
「写真」
老人が言った。
「はい?」
「さっき撮った写真」
「ああ」
俺は端末を取り出した。
写真を開く。
海を背に。
三人。
老人。
女。
俺。
その後ろには。
夕暮れの海。
「これです」
老人は画面を覗き込んだ。
「……」
笑っている。
少女も。
女も。
俺も。
そして。
「いい写真だね」
老人が言った。
「そうですか?」
「ああ」
「普通の写真じゃないですか」
「普通が一番いいんだよ」
「……」
老人は。
しばらく写真を見ていた。
それから。
「これを」
俺を見る。
「私に送ってくれるかい?」
「もちろん」
「ありがとう」
その言い方が。
少し変だった。
まるで。
もう二度と見られないものを。
頼んでいるような。
「何です?」
「何が?」
「いや……」
俺は言葉を止めた。
老人は。
何でもない顔をしている。
だから。
俺も何でもないことにした。
「送ります」
「ああ」
老人は笑った。
列車が。
また一つの駅を通り過ぎる。
ホームに人が何人か立っていた。
誰かが手を振っている。
列車は止まらない。
その人たちも。
すぐに見えなくなった。
ガタン。
ゴトン。
*
「ねえ」
女が言った。
「何?」
「今日のこと」
「海?」
「うん」
「何かあった?」
「あなたはどう思った?」
「質問に質問で返すなよ」
「じゃあ答えて」
「……」
俺は考えた。
海。
老人。
昔の家族。
金。
ガルガンチュア。
そして。
写真。
「分からない」
「また?」
「うるさいな」
「分からないことばっかり」
「お前だって何も説明しないだろ」
「私は分かってるから」
「それが一番腹立つ」
女は笑った。
「でも」
「何?」
「今日のあの人」
女が老人を見る。
老人は眠っている。
目を閉じ。
腕を組み。
窓にもたれている。
「少し違った」
「……俺もそう思う」
「金持ちに見えなかった」
「それはどういう意味?」
「普通のおじいちゃん」
「……」
俺は。
老人を見る。
確かに。
そうだった。
海に入って。
孫と遊んで。
写真を撮って。
笑って。
砂を払って。
帰りの列車で眠っている。
どこにでもいる老人。
少なくとも。
俺にはそう見えた。
「でも」
女が言う。
「この人は」
「うん」
「何かを忘れてる」
俺は女を見る。
「何を?」
「そこまでは知らない」
「またそれか」
「でも」
女は窓の外へ目を向けた。
「本人も、忘れてることに気づいてないかもしれない」
「……」
それは。
妙に嫌な言葉だった。
忘れたことを。
忘れている。
そんなことが。
本当にあるのだろうか。
「例えば?」
「今日」
「今日?」
「海で」
女は言った。
「おばあさんの話をしてたでしょ」
「母親な」
「そう」
「それが?」
「名前を言わなかった」
俺は黙った。
「……」
「一度も」
確かに。
そうだった。
母親。
母親。
母親。
そればかりだった。
名前を。
俺は聞いていない。
「たまたまだろ」
「そうかも」
「なら」
「うん」
女はそれ以上言わなかった。
俺も。
それ以上は聞かなかった。
列車が。
森へ入る。
窓の外が暗くなる。
夕方の光が。
木々の間から細く差し込んでいる。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
俺は。
膝の上の音楽プレイヤーを見る。
何も起こらない。
それなのに。
胸の奥が。
妙にざわついていた。
*
老人が目を覚ました。
「……寝てたか」
「寝てましたよ」
「そうか」
「結構」
「そうか」
老人は。
窓の外を見た。
「もう夜だね」
「はい」
「早いものだ」
「寝てたからですよ」
「そうか」
老人は笑った。
それから。
俺の手元を見る。
「それ」
「これ?」
「ああ」
古い音楽プレイヤー。
「大切なものかい?」
「……まあ」
「誰から?」
「祖母」
「そうか」
「昔、もらったんです」
「いいおばあさんだった?」
「……」
俺は少し考えた。
「はい」
それだけ答えた。
老人は。
「そう」
と言った。
それ以上。
聞かなかった。
そのことが。
少しだけ嬉しかった。
普通なら。
「どんな人だった?」
とか。
「いつ亡くなった?」
とか。
そういうことを聞かれる。
でも。
この老人は。
何も聞かなかった。
ただ。
頷いた。
「私の母もね」
老人が言った。
「そういう人だった」
「……」
「余計なことは聞かなかった」
「へえ」
「だから」
老人は笑った。
「私は母親に何でも話した」
俺は。
少しだけ驚いた。
「仲良かったんですね」
「ああ」
「じゃあ」
俺は。
何気なく聞いた。
「お母さんの名前は?」
老人が。
止まった。
「……」
ほんの一瞬。
列車の音だけになる。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
老人は。
窓の外を見た。
「名前?」
「はい」
「……」
老人は笑った。
「何だったかな」
「え?」
「いや」
老人は。
困ったように頭を掻いた。
「思い出せない」
「……」
「おかしいね」
女が老人を見る。
俺も。
何も言えなかった。
「毎日呼んでいたはずなんだけどね」
老人は笑っている。
でも。
その笑い方は。
海で見たものとは違った。
「変だな」
老人は。
もう一度言った。
「母親の名前くらい」
思い出そうとする。
目を細める。
眉間に皺が寄る。
「……」
何も出てこない。
「まあ」
老人が。
諦めるように息を吐いた。
「昔のことだからね」
「……」
俺は。
音楽プレイヤーを見た。
何故か。
今すぐ。
イヤホンをつけたくなった。
でも。
つけなかった。
怖かった。
もし。
あの声が。
老人の母親の名前を知っていたら。
そう思った。
*
駅に着く頃には。
もう完全に夜だった。
老人の屋敷へ向かう道を。
三人で歩く。
街灯が。
一定の間隔で並んでいる。
風が冷たい。
老人は。
さっきから何も喋らない。
女も。
何も言わない。
俺だけが。
妙に落ち着かなかった。
屋敷が見えてきた。
門をくぐる。
庭を抜ける。
玄関へ。
老人が鍵を取り出す。
そのとき。
「あ」
老人が言った。
「どうしました?」
「……」
老人は。
自分のポケットを探った。
「ない」
「何が?」
「列車」
俺は。
すぐに分かった。
「ああ」
老人が。
あの木製の列車を探している。
「海に?」
「……」
老人の顔が固まった。
「落とした?」
「分からない」
「駅かもしれませんね」
「そうだね」
老人は。
玄関の前に立ったまま。
動かなかった。
「明日、探しに行きましょうか」
「……」
「おじいさん?」
老人が。
ゆっくり首を振る。
「いい」
「でも」
「いいんだ」
その声だけ。
妙に強かった。
老人は。
そのまま玄関を開ける。
俺と女も。
後に続いた。
屋敷の中は。
静かだった。
明かりが灯っている。
廊下。
階段。
壁に飾られた絵。
どれも。
金持ちの家らしい。
高価そうなものばかり。
なのに。
何故か。
空っぽに見えた。
老人は。
居間へ向かった。
そして。
暖炉の前に座る。
杖を置く。
「疲れた」
「そりゃあ海まで行けば」
「そうだね」
老人は。
暖炉の火を見る。
「……」
俺は。
部屋へ戻ろうとした。
けれど。
「君」
呼び止められた。
「はい?」
「少し」
老人が言う。
「話をしてもいいかね」
「もちろん」
俺は椅子へ座った。
女も。
向かいに座る。
老人はしばらく暖炉を見ていた。
「今日」
「はい」
「海へ行って」
「はい」
「母親のことを思い出した」
「……」
「いや」
老人が訂正する。
「思い出したというより」
「はい」
「思い出そうとした」
「……」
「でも」
老人は。
自分の手を見る。
「思い出せない」
俺は黙って聞いた。
「顔は分かる」
「はい」
「声も分かる」
「はい」
「好きだった食べ物も」
「……」
「癖も」
「はい」
「怒ったときの顔も」
「はい」
老人が。
少し笑う。
「でも」
その笑顔が消える。
「名前だけが分からない」
暖炉の薪が。
小さく爆ぜた。
「変だと思わないかい?」
「……思います」
「そうだよね」
老人は。
火を見る。
「私はね」
「はい」
「昔から」
「はい」
「何かを忘れるのが怖かった」
その言葉に。
俺は少し驚いた。
「だから」
老人は続ける。
「金を持った」
「……」
「金があれば」
「はい」
「何でも残せると思った」
「……」
「家を買った」
「はい」
「絵を買った」
「はい」
「本を買った」
「はい」
「思い出の品も買った」
「……」
「何でも買った」
老人は。
ゆっくり部屋を見回した。
壁。
棚。
家具。
絵。
置物。
時計。
全部。
高価なものなのだろう。
「なのに」
老人が言った。
「どうして私は」
少し間があった。
「母親の名前を忘れたんだろうね」
俺は。
答えられなかった。
女も。
黙っている。
老人は。
笑った。
「おかしいだろう?」
「……」
「金なら」
老人が。
自分の胸元を指す。
「ここにいくらでもある」
それから。
頭を指した。
「なのに」
老人は。
自分の頭を。
軽く叩いた。
「ここにはない」
俺は。
ポケットの音楽プレイヤーを握った。
その瞬間。
――カチ。
小さな音がした。
「……」
俺は固まった。
電源は。
入れていない。
老人も。
顔を上げた。
女が。
俺を見る。
「……」
イヤホンから。
音が漏れた。
今まで聞いたことのない声。
女の声だった。
若い。
静かで。
少しだけ低い。
それなのに。
どこか懐かしい。
『私は、金持ちになりたかった』
俺は。
息を止めた。
老人が立ち上がる。
「……」
女も。
動かない。
『金があれば、母を助けられると思った』
老人の顔から。
血の気が引いていく。
「お前……」
老人が。
音楽プレイヤーを見る。
『金があれば、誰も私を馬鹿にしなくなると思った』
「……」
『金があれば、もう誰にも捨てられないと思った』
俺は。
イヤホンを外した。
けれど。
声は止まらない。
今度は。
音楽プレイヤーそのものから。
『だから私は』
老人が。
一歩。
後ずさった。
『ガルガンチュアに願った』
「やめろ」
老人が言った。
初めて。
老人が。
怒った。
俺に向かってではない。
音楽プレイヤーに向かって。
「やめろ」
声が震えている。
『どうか』
声は続く。
『世界で一番、金持ちにしてください』
「やめろ!」
老人が叫んだ。
俺は。
音楽プレイヤーを握りしめる。
そして。
その声の続きを。
聞いてしまった。
『その代わりに』
女が。
初めて。
険しい顔をした。
『あなたの中から』
老人が。
震えている。
『「足りない」と思う心を』
俺は。
意味が分からなかった。
『ひとつ』
声が。
そこで途切れた。
静寂。
暖炉の火が。
ぱちりと鳴った。
「……」
老人は。
何も言わなかった。
俺も。
何も言えなかった。
やがて。
老人が。
ゆっくりと椅子へ座った。
「……そうか」
呟いた。
「そうだったのか」
「おじいさん」
「私は」
老人は。
自分の胸を押さえた。
「何を願ったのか」
「……」
「忘れていたんじゃない」
「え?」
老人が。
顔を上げた。
「願ったことそのものを」
老人の目が。
暗い。
「忘れさせられていたんだ」
俺は。
音楽プレイヤーを見た。
画面には。
何も表示されていない。
ただ。
暗い画面が。
俺の顔を映している。
そして。
その中で。
自分の顔が。
ひどく怯えていることに。
初めて気づいた。
女が。
静かに言った。
「……違う」
俺は女を見る。
「何が?」
女は。
音楽プレイヤーではなく。
老人を見ていた。
「まだ」
「……」
「全部は聞いてない」
老人が。
女を見る。
「どういう意味だ?」
女は答えない。
俺も。
分からない。
ただ。
そのとき。
音楽プレイヤーの画面が。
一瞬だけ。
白く光った。
そして。
知らない曲名が。
一行だけ表示された。
――『ガルガンチュアの食卓』
俺は。
その文字を見つめた。
その下に。
小さく。
再生時間が表示されていた。
00:00:00
まだ。
始まっていない。
俺は。
何故か。
その先を聞くのが怖かった。
老人も。
同じ顔をしていた。
女だけが。
静かに立ち上がった。
「今日はもう寝よう」
「お前」
俺が呼ぶ。
「何?」
「これ」
音楽プレイヤーを掲げる。
「明日も聞くのか?」
女は。
少しだけ考えた。
「たぶん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
「……」
「だから聞くんでしょ」
女は。
それだけ言って。
部屋を出ていった。
俺は。
老人と二人になった。
暖炉の火が。
揺れている。
「……君」
「はい」
「明日も」
老人は。
音楽プレイヤーを見る。
「付き合ってくれるかね」
俺は。
しばらく答えられなかった。
けれど。
「はい」
と言った。
老人が。
小さく笑った。
「ありがとう」
その夜。
俺は自分の部屋へ戻った。
ベッドに横になる。
古い音楽プレイヤーを。
枕元へ置いた。
眠れなかった。
目を閉じる。
海を思い出す。
老人の笑顔。
少女の声。
夕暮れ。
写真。
そして。
あの女の声。
『私は、金持ちになりたかった』
俺は。
目を開いた。
部屋は暗い。
窓の外も暗い。
音楽プレイヤーは。
沈黙している。
しばらく。
何も起きなかった。
だから。
俺も目を閉じた。
その瞬間。
イヤホンから。
ほんの小さな声がした。
『……でも』
俺は。
飛び起きた。
『本当は』
声は。
泣いていた。
俺は。
イヤホンを耳に当てた。
『お金が欲しかったんじゃない』
その声の主が。
誰なのか。
俺はまだ知らない。
けれど。
その声を聞いた瞬間。
何故か。
胸が苦しくなった。
『私は』
少しの沈黙。
『ただ』
そして。
その続きを。
聞く前に。
音が途切れた。
俺は。
真っ暗な部屋の中で。
しばらく動けなかった。
窓の向こう。
遠くの線路を。
夜の列車が走っていく。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
その音だけが。
暗闇の中を。
いつまでも。
どこかへ向かっていた。




