表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/10

第七話 海へ行く列車



 翌朝。


 老人は、いつもより早く起きていた。


 俺が食堂へ入ったときには、もう窓際の席に座っている。


 テーブルには紅茶が一杯。


 新聞が一部。


 それから、小さな木製の列車。


 見覚えがある。


「それ、一昨日買ったやつですよね」


「うん」


「海に?」


「ああ」


「何で持ってるんです?」


 老人は列車を指先で転がした。


「昨日も見ていたら、少し気が変わってね」


「……」


「昔の列車を思い出した」


 老人はそう言って、窓の外へ目を向けた。


 朝の町はまだ眠っている。


 屋敷の庭には薄い霧が残っていて、木々の向こうから鳥の声がする。


「昔、海へ行ったんですか?」


「そうだよ」


「その列車で?」


「ああ」


「お母さんと?」


「……よく覚えているね」


「昨日聞いたから」


「そうだった」


 老人は木の列車を掌に乗せた。


 それをじっと眺めている。


 まるで。


 何かを思い出そうとしているようだった。


「何歳の頃です?」


「八つ」


「そんなに小さい」


「弟もいた」


「弟さんも一緒だったんですね」


「ああ」


「じゃあ三人で?」


「母親もいたから、四人だ」


まただ、、、


「ということはお父さんも?」


 老人の指が止まった。


「……いなかった」


「すみません」


「いや」


 老人は微笑んだ。


「もう昔の話だ」


 それから少しして。


 食堂の扉が開いた。


 女が入ってくる。


「おはよう」


「遅い」


 老人が言う。


「まだ朝」


「約束の時間にはなっているよ」


「おじいちゃんは朝が早すぎる」


「老人を何だと思っているんだね」


「老人」


「そのままだな」


 女が欠伸をする。


 俺は時計を見る。


「お前、荷物は?」


「ない」


「海へ行くんだぞ」


「知ってる」


「着替えとか」


「ない」


「何で?」


「必要になったら買う」


 老人が笑った。


「なるほど」


「何がなるほどなんです?」


「金持ちらしい考え方だと思ってね」


「この人と一緒にしないで」


 女が俺を指差す。


「俺じゃないだろ」


「じゃあ誰?」


「そっち」


「私?」


「そう」


 老人が楽しそうに笑っている。


 ここ数日で。


 ずいぶん、この屋敷の空気にも慣れた気がする。


 最初に会ったときは。


 この老人のことを、ただの金持ちだと思っていた。


 何でも持っている。


 何でも買える。


 何でもできる。


 だから。


 何も欲しくない。


 そんな人だと思っていた。


 けれど。


 どうも違うらしい。


 老人には。


 欲しいものがないのではなく。


 欲しがることに、どこか怯えているようなところがある。


「じゃあ、行こうか」


 老人が立ち上がる。


「海へ」


 そう言った。


     *


 町の駅は、屋敷から歩いて二十分ほどのところにあった。


 駅と呼ぶには小さい。


 石造りの小さな建物。


 屋根の下にベンチが二つ。


 壁に古びた時計。


 売店が一つ。


 駅員が一人。


 猫が二匹。


 それだけ。


 けれど、ホームの向こうには線路がある。


 一本。


 町の端から伸びて。


 森を抜け。


 山を越え。


 海へ続いている。


「ここから?」


「そう」


 老人は杖をつきながら歩く。


「魔道鉄道って、もっとすごいものを想像してたんですけど」


「どんなもの?」


「空を飛ぶとか」


「飛ぶ列車もあるよ」


「あるの?」


「ある」


「じゃあ何でこれ?」


「海へ行くのに飛ぶ必要があるかい?」


「……ないです」


「そういうことだよ」


 女がベンチに腰掛ける。


「魔法って便利なのに、使い方が地味」


「地味?」


「だって線路を走るだけでしょ」


「魔力で走っているんだ」


「線路を?」


「そう」


「線路が?」


「列車が」


「じゃあ列車が魔法を使ってるの?」


「そういうことになるのかな」


「じゃあ列車にも意思がある?」


「知らないよ」


 老人が困った顔をする。


 俺は笑った。


 女も少しだけ口元を緩めた。


 この女は。


 笑うと、少しだけ普通の人間に見える。


 普段は。


 何を考えているのか分からない。


 年齢も。


 どこから来たのかも。


 何を目的に旅をしているのかも。


 聞いても。


 「忘れた」


 とか。


 「秘密」


 とか。


 適当に返される。


 ただ。


 老人のそばにいることだけは、妙に自然だった。


「お前」


 俺は女に声をかけた。


「何?」


「おじいさんとは、どこで知り合ったんだ?」


「知らない?」


「昨日会った」


「嘘つけ」


「じゃあ一昨日」


「そういう意味じゃない」


 老人が笑った。


「彼女とは昔からの知り合いだよ」


「そうなんですか?」


「うん」


「じゃあ、何者なんです?」


「さあ」


「本人に聞いてください」


「聞いてるんだけど答えないんですよ」


「それなら、私にも分からないな」


「あなたも知らないの?」


 女が老人を見る。


「知ってるよ」


「何を?」


「君が秘密を守るのが好きなこと」


「……」


「違うかい?」


「合ってる」


「だろう?」


 また笑う。


 この二人。


 どういう関係なんだ。


 そう思ったところで。


 遠くから音が聞こえた。


 最初は。


 小さな振動だった。


 やがて。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 鉄の車輪が線路を叩く。


 木々の向こうから。


 列車が現れた。


 黒い車体。


 その側面には、細い銀色の線が走っている。


 魔力を流すための導路らしい。


 派手な魔法陣もない。


 空を飛ぶこともない。


 ただ。


 普通の列車と同じように。


 線路を走ってくる。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 俺は。


 その音が好きだった。


 何故かは分からない。


 けれど。


 一定の間隔で響くその音を聞いていると。


 頭の中に溜まっていたものが。


 少しずつ遠ざかっていくような気がする。


 列車が止まる。


 扉が開いた。


「行こう」


 老人が言った。


     *


 車内は空いていた。


 木製の座席。


 大きな窓。


 荷物を置く棚。


 天井には小さな魔石灯がぶら下がっている。


 窓際に老人。


 その向かいに女。


 俺はその横に座った。


 列車が動き出す。


 ガタン。


 ゴトン。


 身体が僅かに揺れる。


 駅が遠ざかる。


 町が遠ざかる。


 家々が。


 畑が。


 通りが。


 全部、後ろへ流れていく。


 老人は窓の外を眺めていた。


 その顔は。


 どこか懐かしそうだった。


「昔も、こんな感じでした?」


 聞いてみた。


「何が?」


「列車」


「ああ」


「同じ?」


「似ているね」


「魔道鉄道って昔からあるんですか?」


「私が子供の頃には、もうあったよ」


「じゃあ相当古い」


「そうだね」


 老人は窓の外を見たまま。


「この線路も、昔からある」


「海まで?」


「海まで」


「じゃあ、昔も同じところを走ってた?」


「ああ」


「へえ」


 俺は窓の外を眺めた。


 森。


 草原。


 遠くに山。


 そして。


 ときどき見える町。


「じゃあ」


 俺は言った。


「この景色も、昔見たんですか?」


「そうだね」


「覚えてます?」


「覚えている」


「全部?」


「全部ではないよ」


「じゃあ何を?」


 老人は少し考えた。


「海」


「海?」


「海が見える前の匂い」


「匂い?」


「ああ」


 老人が笑う。


「子供だったから、海が見える前から海が分かった」


「そんなもんですか?」


「そんなものだよ」


「今は?」


「今?」


「今も分かります?」


 老人は窓を少し開けた。


 風が入ってくる。


 木々の匂い。


 土の匂い。


 どこか遠くに水の匂い。


 老人は目を閉じる。


「……まだ分かる」


 そう言った。


 女が目を開けた。


「良かったね」


「何が?」


「まだ覚えてた」


 老人は少し黙った。


「そうだね」


 それだけだった。


     *


 しばらくして。


 老人は眠った。


 杖を胸元に置いて。


 窓にもたれかかっている。


 俺は小声で女に話しかけた。


「なあ」


「何?」


「昨日のことだけど」


「うん」


「この人」


 老人を見る。


「本当に、ガルガンチュアに願ったのかな」


「さあ」


「お前は知ってるんじゃないの?」


「知らない」


「……」


「でも」


 女が窓の外を見る。


「願ったんじゃない?」


「何で?」


「本人がそう言ったから」


「それだけ?」


「それ以上必要?」


 俺は黙った。


 確かに。


 そうだ。


 老人本人が。


 願ったと言っている。


 だったら。


 それを疑う理由なんてない。


 けれど。


 俺が気になっているのは。


 そこじゃない。


「ガルガンチュアってさ」


「うん」


「願いを叶える代わりに、何かを取るのかな」


 女は答えなかった。


「昨日、音声が言ってた」


「うん」


「金持ちになった代わりに、喜びが消えたって」


「うん」


「偶然だと思う?」


「何が?」


「この音楽プレイヤー」


 俺はポケットから取り出す。


 古い音楽プレイヤー。


 祖母からもらった。


 もう何年も使っている。


 壊れているのか。


 壊れていないのか。


 最近は分からない。


 ただ。


 あの声だけは。


 確かに聞こえる。


「おばあちゃんからもらったんだろ?」


「そう」


「じゃあ」


 女が言う。


「信じてあげれば?」


「何を?」


「その声」


「いや、そうじゃなくて」


「じゃあ何?」


「……」


 説明できない。


 自分でも。


 何を怖がっているのか分からない。


 女はそれ以上聞かなかった。


 窓の外へ目を戻す。


 列車は森を抜ける。


 視界が開ける。


 遠くに町が見える。


 屋根。


 煙突。


 小さな教会。


 人々。


 市場。


 それらが。


 あっという間に後ろへ流れていく。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


「ねえ」


 女が言った。


「何?」


「あなたは」


「俺?」


「ガルガンチュアに会ったら、何を願う?」


 俺は。


 すぐに答えられなかった。


「……分からない」


「本当に?」


「本当に」


「嘘」


「何で?」


「顔に書いてある」


「何て?」


 女がこちらを見る。


「足りない」


「……」


 胸の奥を。


 指で押されたような気がした。


「何それ」


「そのまま」


「俺、何が足りないんだよ」


「知らない」


「じゃあ言うなよ」


「自分で分かってるんじゃない?」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 答えたくなかった。


 けれど。


 頭の中には。


 いくつも浮かんでいた。


 金。


 家。


 自由。


 才能。


 愛情。


 安心。


 誰かに認めてもらうこと。


 何者かになること。


 そして。


 何も持っていない自分を。


 そのまま肯定してくれる何か。


 どれも。


 欲しかった。


 けれど。


 どれが一番欲しいのか。


 分からなかった。


「……分からないんだよ」


 俺は言った。


「何が欲しいのか」


 女は何も言わない。


「ただ」


 俺は続ける。


「このままじゃ嫌なんだ」


「うん」


「何が嫌なのかも、よく分からないけど」


「うん」


「それだけ」


 女は。


 小さく頷いた。


「それで十分じゃない?」


「何が?」


「旅に出る理由」


 俺は女を見た。


 けれど。


 女はもう窓の外を見ていた。


     *


 昼を過ぎた。


 老人が目を覚ました。


「寝てました?」


「ああ」


「珍しいですね」


「何が?」


「こんなところで寝るなんて」


「列車は眠くなるんだよ」


「子供みたい」


「君も寝ていいんだよ」


「寝ません」


「そうか」


 老人は窓の外を見る。


 そして。


「ああ」


 と呟いた。


「もうすぐだ」


「何が?」


「海」


 老人が窓を開ける。


 風が変わった。


 少し冷たい。


 そして。


 塩の匂いがした。


 老人は目を閉じる。


 その表情が。


 ほんの少しだけ。


 幼くなった。


「分かるんですか?」


「何が?」


「海」


「ああ」


「匂いで?」


「そう」


「本当に分かるんだ」


「昔と同じだ」


 老人が笑った。


「不思議だね」


「何が?」


「何十年経っても、海の匂いは変わらない」


 俺は老人を見る。


「人は変わるのに?」


「……」


 老人が俺を見る。


「そうだね」


 それから。


 少しだけ笑った。


「人間のほうが、ずっと忘れっぽい」


 列車が。


 長いトンネルへ入った。


 車内が暗くなる。


 魔石灯が灯る。


 窓の外は。


 何も見えない。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 その音だけが。


 妙に大きく聞こえた。


 老人が言った。


「昔ね」


「はい」


「母親が、このトンネルに入ったときに言ったんだ」


「何て?」


「目を閉じてみなさいって」


「何で?」


「知らない」


「閉じたんですか?」


「ああ」


「何かあった?」


「何も」


「じゃあ何で?」


「母親がそう言ったから」


「なるほど」


 老人が笑う。


「それだけだった」


「子供ってそんなものですよね」


「そうだね」


 列車がトンネルを抜けた。


 光が差し込む。


 俺は目を細めた。


 そして。


 海が見えた。


 青かった。


 空よりも。


 ずっと濃い青。


 水平線が。


 どこまでも伸びている。


「……」


 老人が。


 何も言わなくなった。


 ただ。


 海を見ている。


 俺も。


 女も。


 誰も喋らなかった。


 列車は海沿いを走っていく。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 その音に合わせるように。


 波が寄せて。


 引いていく。


 しばらくして。


 老人が呟いた。


「大きくなったな」


「海が?」


「私が」


 老人は笑った。


「昔は、海が怖かった」


「意外ですね」


「怖いよ」


「今も?」


「ああ」


「何で?」


 老人は答えなかった。


 代わりに。


 小さな木製の列車を。


 ポケットから取り出した。


 掌に乗せる。


「母親がね」


「はい」


「海を見ながら言ったんだ」


「何て?」


「いつか、また来ようって」


 俺は。


 何も言えなかった。


「でも」


 老人は木の列車を見つめる。


「来られなかった」


「……」


「母親は、その後すぐに病気になった」


 列車の速度が落ちていく。


「それから私は」


 老人は言った。


「金が欲しいと思った」


 俺は老人を見る。


「金があれば」


 老人の声は。


 静かだった。


「母親を助けられると思った」


「……」


「金があれば」


「何でもできると思った」


「……」


「何でも買える」


「……」


「何でも取り戻せる」


 老人はそこで。


 初めて。


 苦しそうな顔をした。


「そう思っていた」


 列車が駅へ入っていく。


 ブレーキの音。


 車輪が軋む。


 ガタン。


 ゴトン。


 そして。


 止まった。


     *


 駅を出る。


 潮風が吹いている。


 老人は砂浜へ向かって歩いた。


 俺たちもついていく。


 海は。


 思ったより静かだった。


 波が寄せる。


 老人は靴を脱ぐ。


 裾をまくる。


 そして。


 波打ち際へ入った。


「冷たいですか?」


「冷たい」


「でしょうね」


 老人が笑う。


 その顔を見て。


 俺は思った。


 この人。


 今。


 ちゃんと笑っている。


 金持ちになった話をしていたときとは。


 少し違う。


 もっと。


 子供みたいな笑い方だった。


「おじいちゃん」


 声がした。


 振り返る。


 孫の少女が。


 少し離れたところに立っていた。


「……どうして?」


 老人が驚く。


 少女は母親らしい女性と一緒だった。


「お母さんが連れてきてくれた」


「どうしてここに?」


「海に行くって言ったでしょ」


「ああ……」


「一緒に行くって言ったじゃん」


 老人は。


 しばらく少女を見ていた。


 それから。


 笑った。


「そうだったね」


 少女が走ってくる。


「おじいちゃん!」


「走るな」


「だって!」


「転ぶよ」


「転ばない!」


 少女は老人のところまで来ると。


 海を見た。


「わあ……」


 目を輝かせる。


「大きい!」


 老人は。


 何も言わなかった。


 少女が老人の手を握る。


「入ろう!」


「私も?」


「うん!」


「冷たいよ」


「大丈夫!」


「そうか」


 老人は。


 少女と一緒に。


 海へ入った。


 水が跳ねる。


 少女が笑う。


 老人も笑う。


 俺は。


 その光景を見ていた。


 そして。


 ポケットの中の音楽プレイヤーに触れた。


 何故か。


 少し怖かった。


 もし。


 また声が聞こえたら。


 そう思った。


 でも。


 聞こえなかった。


 何も。


 ただ。


 海の音だけ。


 波の音。


 少女の笑い声。


 老人の声。


 風。


 それだけ。


 女が隣に立つ。


「良かったね」


「何が?」


「声」


「……」


「今日は何も聞こえない」


「お前」


 俺は女を見る。


「知ってたのか?」


「何を?」


「この音楽プレイヤーのこと」


「知らない」


「本当に?」


「本当に」


 女は海を見る。


「でも」


「何?」


「聞こえるものが、いつも悪いとは限らないよ」


「……」


 その言葉の意味を。


 俺は考えた。


 老人を見る。


 少女と一緒に。


 海に足を浸している。


 笑っている。


 幸せそうに。


 見える。


 けれど。


 俺は知っている。


 この人は。


 願いを叶えた。


 金持ちになった。


 そして。


 何かを失った。


 妻。


 弟。


 友人。


 そして。


 もしかすると。


 もっと大切なもの。


 ――喜ぶ心。


 ――悲しむ心。


 ――誰かを愛する心。


 それらを。


 ガルガンチュアに。


 食べられた。


 そう考えれば。


 全部説明できる。


 願いを叶える代わりに。


 人間の心から。


 何かを食べる。


 だから。


 願いは叶う。


 けれど。


 叶ったあとには。


 空っぽだけが残る。


「……」


 俺は海を見る。


 遠く。


 水平線の向こう。


 空と海の境目が。


 分からない。


 その向こうに。


 ガルガンチュアがいる。


 どんな願いでも叶える巨神。


 けれど。


 その正体は。


 人間から何かを奪う怪物。


 俺は。


 そう思い始めていた。


 そのとき。


 老人がこちらを振り返った。


「君」


「はい?」


「写真を撮ってくれないか」


「写真?」


「ああ」


 老人は少女の肩に手を置いた。


「せっかく海に来たんだ」


 俺は。


 少しだけ笑った。


「いいですよ」


 古い音楽プレイヤーをポケットへ戻す。


 代わりに。


 持っていた端末を取り出す。


「もう少し寄って」


「こうか?」


「おじいちゃん、もっと!」


「これ以上?」


「もっと!」


 少女が老人に抱きつく。


 老人が困った顔をする。


「重いよ」


「嘘!」


「本当だ」


「じゃあ私が持つ!」


「どうやって?」


「こう!」


 少女が老人の腕を抱える。


 老人が笑う。


 俺も。


 笑った。


「じゃあ、撮りますよ」


 女が横から言う。


「私も入る」


「え?」


「何?」


「いや」


「何?」


「……何でもない」


 女が老人の反対側に立つ。


 三人。


 海を背にして。


「はい」


 俺は端末を構えた。


「笑って」


 老人が言う。


「私は笑ってるよ」


「もっと」


「無茶を言うね」


 少女が笑う。


 女が。


 ほんの少しだけ笑った。


 俺も。


 シャッターを切った。


 その瞬間。


 ポケットの中で。


 古い音楽プレイヤーが。


 ほんの一度だけ。


 震えた。


 俺は振り返らなかった。


 確かめなかった。


 聞かなかったことにした。


 今だけは。


 そうしておきたかった。


 海は。


 何も知らない顔をして。


 静かに波打っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ