第六話 幸福の値段
翌朝。
老人の孫がやって来た。
玄関の扉が開くより先に、声が聞こえた。
「おじいちゃん!」
屋敷の中を、小さな足音が駆けてくる。
老人が立ち上がった。
「おやおや」
「おじいちゃん!」
「走っちゃいけないよ」
「だって早く会いたかったんだもん」
「そうか」
老人は笑った。
昨日まで何度も見た笑顔だった。
けれど。
今日は少し違って見えた。
老人は、少女の頭を撫でた。
「大きくなったね」
「昨日も会ったよ」
「それでもだよ」
「一日しか経ってないよ」
「一日あれば、子供は大きくなる」
「じゃあ、おじいちゃんは?」
「私は?」
「大きくなった?」
老人は少し考えた。
「どうだろうね」
少女は老人の腕を引っ張った。
「ねえ、早く!」
「何だい?」
「遊ぼう!」
「何を?」
「昨日買ったやつ!」
老人の顔が固まった。
「ああ」
それから。
「そうだったね」
俺は、その瞬間だけ違和感を覚えた。
老人は玩具を買った。
昨日。
孫に渡すために。
楽しみにしていた。
なのに。
忘れていた。
「おじいちゃん、早く!」
「分かった、分かった」
老人が笑う。
俺たちも後ろからついていく。
老人の部屋へ向かう。
昨日買った木製の列車が、机の上に置いてあった。
「わあ!」
少女が目を輝かせた。
「列車!」
「ああ」
「走らせていい?」
「もちろん」
「やった!」
少女は列車を手に取った。
床に置く。
小さな木の車輪が転がる。
カラカラ。
カラカラ。
「おじいちゃんも!」
「私も?」
「一緒にやろう」
老人は床に座った。
俺は少し驚いた。
あの老人が。
この大きな屋敷の主が。
床に座っている。
しかも。
小さな木の列車を走らせている。
「出発!」
少女が言う。
「出発」
老人も言った。
列車が走る。
カラカラ。
カラカラ。
「トンネル!」
「トンネル?」
「そこ!」
少女が椅子の下を指差した。
「ここを通るの!」
「なるほど」
老人は列車を押す。
椅子の下へ。
「ゴー!」
少女が笑う。
老人も笑った。
俺はその光景を眺めていた。
何だか。
昨日までとは違う人に見えた。
そのとき。
「ねえ」
少女が言った。
「何だい?」
「おじいちゃんは、昔、列車に乗った?」
老人の手が止まった。
「……ああ」
「ほんと?」
「ああ」
「どこに行ったの?」
「遠くへ」
「どこ?」
「遠いところだ」
「だからどこ?」
老人は笑った。
「昔のことだから、忘れたよ」
「嘘だ」
「どうして?」
「おじいちゃん、昔のことばっかり覚えてるもん」
「そうかな」
「そうだよ」
少女は列車を走らせる。
カラカラ。
カラカラ。
「私も列車乗りたい」
「乗ればいい」
「一緒に?」
「もちろん」
「どこ行く?」
老人は黙った。
「海!」
少女が言った。
「海か」
「海がいい」
「じゃあ海へ行こう」
「いつ?」
「いつでもいいよ」
「明日!」
「明日?」
「うん!」
老人は少し困った顔をした。
「明日は――」
少女が見上げる。
「明日は?」
老人は笑った。
「……明日でいい」
「やった!」
少女が飛び跳ねる。
老人はその様子を見ていた。
嬉しそうだった。
けれど。
俺には。
何かを決めることを怖がっているようにも見えた。
*
昼食の後。
少女が昼寝をしている間。
俺は庭に出た。
老人もいた。
いつもの木の下。
「海、行くんですか?」
「うん」
「明日?」
「そうだね」
「いいですね」
「そうかな」
「何で?」
「何でも買える人間が、海に行くのは珍しいことかい?」
「そうじゃなくて」
俺は隣の椅子に座った。
「楽しそうだから」
老人は黙った。
「何です?」
「いや」
老人は空を見た。
「君は、楽しそうという言葉をよく使うね」
「そうですか?」
「昨日も言った」
「……」
「孫といるときも」
「……」
「市場にいるときも」
「……」
「湖でも」
老人は俺を見る。
「君は、私が楽しそうかどうかを気にしている」
「そりゃ」
「なぜ?」
「……」
俺は答えられなかった。
なぜだろう。
老人が幸せなのか。
不幸なのか。
それが妙に気になる。
「自分と似ているからじゃない?」
老人が言った。
「え?」
「君も疲れているだろう」
胸を突かれた。
「……別に」
「そうか」
「何でそう思うんです?」
「目」
「目?」
「私も昔、そういう目をしていた」
俺は黙った。
「何も欲しくないように見えて」
「……」
「本当は、欲しいものがたくさんある目だ」
何も言えなかった。
老人は笑った。
「私もそうだったよ」
「あなたは、何が欲しかったんです?」
老人はすぐには答えなかった。
やがて。
「金だよ」
「……」
「金があれば、母親を助けられると思った」
「病気だったんですよね」
「ああ」
「でも、間に合わなかった」
「そう」
「それで金持ちになった」
「そう」
「……」
俺は聞いた。
「そのとき、どう思ったんです?」
老人は目を細めた。
「嬉しかった」
予想していなかった答えだった。
「嬉しかったんですか?」
「ああ」
「母親が亡くなった後なのに?」
「だからだよ」
「……」
「私は、母親を助けられなかった」
老人は静かに言った。
「だからせめて、もう二度と何も失わない人間になろうと思った」
風が吹く。
葉が揺れる。
「金があれば、失わなくて済む」
「……」
「そう思った」
俺は聞いた。
「それで?」
「それで?」
「何も失わなくなった?」
老人は笑った。
「いや」
その笑顔が。
昨日よりずっと寂しかった。
「金が増えるほど、失うものが増えた」
「……どういうこと?」
「まず、時間を失った」
「仕事?」
「そう」
「次に?」
「友人」
「金持ちになったから?」
「そういう人もいた」
「じゃあ、家族は?」
「……」
老人は黙った。
「弟さん?」
「死んだ」
「……」
「病気だった」
「お金は?」
「間に合わなかった」
また。
同じ言葉。
間に合わなかった。
「それから妻も」
「……」
「離れていった」
「亡くなった?」
「いや」
老人は首を振った。
「生きている」
「じゃあ――」
「私から離れた」
俺は何も言えなかった。
「金があれば幸せにできると思った」
老人は続ける。
「欲しいものは何でも買った」
「行きたい場所にも連れて行った」
「食べたいものも食べさせた」
「何でもしてやった」
「それなのに?」
「それなのに」
老人は苦笑した。
「ある日、妻に言われたよ」
「何て?」
老人はしばらく黙っていた。
それから。
「あなたといると、何も欲しくなくなる」
俺は息を止めた。
「……」
「最初は褒め言葉だと思った」
老人は笑った。
「でも違った」
「どういう意味?」
「欲しいものがないんじゃない」
「……」
「欲しいと思うこと自体が、なくなったんだそうだ」
俺は昨夜聞いた音声を思い出した。
――私は、何が欲しいのか分からなくなった。
「妻は」
老人が言った。
「自分が何を好きだったのか、分からなくなったと言った」
俺は言葉を失った。
「そして出ていった」
「……」
「私は引き止めなかった」
「何で?」
「分からなかったから」
「何が?」
「どうすればいいのか」
老人は空を見た。
「金ならいくらでもあった」
「……」
「家もある」
「車もある」
「土地もある」
「人もいる」
「なのに」
老人は自分の胸に手を置いた。
「ここだけは、どうすればいいのか分からなかった」
俺はその手を見る。
老人の胸。
そこには何もない。
当たり前だけど。
何も見えない。
「……ガルガンチュア」
俺が呟いた。
老人の顔が変わった。
「何?」
「ガルガンチュア」
もう一度言う。
「あなたは、ガルガンチュアに願ったんですよね?」
老人は黙った。
「金持ちになりたいって」
「……」
「そうなんでしょう?」
長い沈黙。
やがて老人は、
「ああ」
と答えた。
「願ったよ」
「どこで?」
「遥か彼方で」
「本当にいるんだ」
「いる」
即答だった。
俺は思わず立ち上がった。
「じゃあ」
声が大きくなる。
「じゃあ、何でそんなことになったんです?」
老人は答えない。
「金持ちにはなった」
「そうだ」
「願いは叶った」
「そうだ」
「なのに、家族も、友達も、奥さんも、全部失った」
「……」
「それって」
胸の奥が熱くなった。
「それって、願いを叶えたことにならないだろ!」
老人は俺を見上げた。
怒らなかった。
ただ。
悲しそうだった。
「そうだね」
「……」
「君の言う通りだ」
「じゃあ」
俺は拳を握った。
「ガルガンチュアって、何なんです?」
老人は答えなかった。
その代わり。
古い音楽プレイヤーから。
突然、音が聞こえた。
俺は振り返った。
イヤホンは外れている。
なのに。
音が。
流れている。
――私は、金持ちになった。
老人が立ち上がった。
「……」
――私の願いは、叶った。
俺は音楽プレイヤーを掴む。
画面は消えている。
なのに。
声だけが続いている。
――だから私は、幸せになった。
老人の顔から血の気が引いた。
「止めろ」
「え?」
「それを止めろ」
「でも――」
「止めるんだ!」
初めてだった。
老人が声を荒らげた。
俺は慌てて電源を押す。
止まらない。
イヤホンを抜く。
それでも。
声は聞こえる。
――そう思っていた。
老人が震えている。
俺は気づいた。
この人は。
この声を知っている。
知っているどころじゃない。
怖がっている。
――私は金持ちになった。
――願いは叶った。
――そして。
声が。
一瞬だけ途切れた。
次の瞬間。
今まで聞いたことのない言葉が続いた。
――私の中から、喜びが消えた。
老人が目を閉じた。
「……やめろ」
俺は何もできない。
――嬉しいということが、分からなくなった。
――悲しいということも。
――悔しいということも。
――怒ることも。
――何かを好きになることも。
俺は老人を見た。
老人は動かない。
――だから私は。
そこで。
声が止まった。
庭に風が吹いた。
俺は息を吐いた。
「……今の」
老人が目を開く。
「何ですか?」
老人は答えなかった。
「今の声」
俺は音楽プレイヤーを見る。
「あなたが言ったんですか?」
「……」
「喜びが消えたって」
「……」
「何で?」
老人はゆっくりと顔を上げた。
「君は」
「はい」
「ガルガンチュアに会ったら」
「……」
「何を願う?」
突然だった。
俺は答えられなかった。
「……分かりません」
「そうか」
「でも」
俺は言った。
「今は一つあります」
「何だね?」
「あなたが、本当に幸せだったのか知りたい」
老人は目を見開いた。
俺自身。
どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。
老人はしばらく俺を見つめていた。
そして。
小さく笑った。
「変な子だね」
「よく言われます」
「そうか」
「はい」
老人は空を見上げた。
雲の隙間から光が差している。
「なら」
老人が言った。
「明日、海へ行こう」
「……え?」
「列車で」
その瞬間。
遠くから。
列車の音が聞こえた。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
老人は線路のある方向を見た。
「海には」
老人が言った。
「昔、私が一度だけ乗った列車が行く」
「……」
「母親と一緒にね」
俺は黙って聞いていた。
「君も来るか?」
「行きます」
「そうか」
「君も?」
老人が彼女を見る。
女は肩をすくめた。
「私は暇だから」
「それはよかった」
老人が笑う。
そして。
俺はその日の夜。
一つのことを決めた。
ガルガンチュアに会う。
そして聞く。
なぜ。
願いを叶えたはずの人間から。
こんなにも多くのものが消えてしまったのか。
もし。
もし本当に。
ガルガンチュアが願いを叶える代わりに。
人間の何かを奪っているのなら。
俺は。
そんなものに願いを叶えてもらいたくない。
――そう思った。
その夜。
古い音楽プレイヤーは。
何も喋らなかった。




