第五話 持っていない者
その翌朝。
老人の姿がなかった。
食堂にもいない。
庭にもいない。
書斎にもいない。
「どこに行ったんだろう」
俺は窓から庭を覗いた。
いつもなら、あの大きな木の下にいる。
でも今日は、椅子だけが置かれていた。
「散歩じゃない?」
女が言った。
「一人で?」
「いつも一人でしょ」
「……そうだけど」
女はパンをかじっている。
「探してみる?」
「いや」
俺は椅子に座った。
「そのうち戻ってくるだろ」
そう言った直後。
屋敷の玄関から、老人が入ってきた。
息を切らしている。
「おじいちゃん?」
女が立ち上がる。
老人は手に何かを持っていた。
白い封筒。
「どうしたんです?」
俺が聞く。
「いや」
老人は封筒を見た。
「少し、町まで行ってきただけだ」
「郵便?」
「そう」
「何の?」
「手紙だよ」
老人は封筒を裏返した。
差出人の名前が書かれている。
俺には読めなかった。
老人はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「悪い知らせですか?」
「いや」
「じゃあ、いい知らせ?」
「分からない」
老人は封筒をポケットに入れた。
「まだ読んでいないからね」
そして食堂へ向かった。
いつもと同じ朝食。
パン。
卵。
果物。
スープ。
老人は席についた。
けれど、食べなかった。
「食べないんですか?」
「後で食べる」
「昨日より食欲ないですね」
「君はよく見ているね」
「暇だから」
「そうか」
老人は笑った。
けれど。
今日は笑顔が少し硬かった。
女も気づいているらしい。
何も言わない。
俺も聞かなかった。
朝食が終わる。
老人は封筒を持って、書斎へ戻った。
俺たちは庭へ出た。
「手紙、何だったんだろうな」
俺が言う。
「気になる?」
「そりゃ」
「じゃあ聞けば?」
「お前が聞いてよ」
「嫌」
「なんで?」
「あなたが聞いたほうが面白そうだから」
「性格悪いな」
「よく言われる」
女はベンチに座った。
俺も隣に座る。
しばらく空を見た。
雲が流れている。
昨日まで晴れていたのに、今日は少し曇っていた。
「なあ」
「何?」
「俺、あの人のこと誤解してたかもしれない」
「どういう意味?」
「最初は、金持ちになったのに不幸な人だと思ってた」
「うん」
「でも、違うんじゃないかって」
「どうして?」
「孫といるとき、楽しそうだったし」
「うん」
「市場で買い物してるときも」
「うん」
「湖でも」
俺はそこで言葉を止めた。
「……でも」
「でも?」
「何か変なんだよ」
女は俺を見る。
「何が?」
「分からない」
「またそれ?」
「うるさい」
俺は空を見上げた。
「何かが、噛み合ってない」
「例えば?」
「例えば……」
俺は考えた。
「金持ちなのに、金の話をするときだけ、すごく遠い目をする」
「うん」
「孫の木の実は大事にする」
「うん」
「でも、家にある高そうなものには興味がない」
「うん」
「食事も、たくさんあるのに少ししか食べない」
「うん」
「なのに、パンを一枚多く食べたことを俺が覚えてたら嬉しそうだった」
「……」
「変だろ?」
女は少し考えた。
「別に」
「え?」
「人間って、そういうものじゃない?」
俺は黙った。
「高いものより安いものが嬉しいこともあるし」
「……」
「たくさん持ってる人が、何か一つだけ大切にすることもある」
「……」
「逆もある」
「逆?」
「何も持ってない人が、何でも欲しくなることもある」
女は空を見た。
「だから、変じゃないよ」
「……そういうもんかね」
「そういうもの」
女はそう言って、目を閉じた。
俺は黙っていた。
しばらくして。
屋敷の中から、物音がした。
ガシャン。
何かが落ちたような音。
「今の」
俺が立ち上がる。
「行こう」
「うん」
二人で屋敷へ入る。
音がしたのは書斎だった。
扉は開いていた。
「大丈夫ですか?」
返事がない。
中に入る。
老人が床に座り込んでいた。
その前に、写真立てが落ちている。
「……」
老人は動かなかった。
俺が写真立てを拾う。
古い写真だった。
若い老人。
その隣に、一人の女性。
さらに、小さな男の子。
そして。
老人の腕の中に、小さな赤ん坊。
「家族ですか?」
聞いてから、余計なことを言ったと思った。
老人は写真を見ている。
「そうだ」
「お母さん?」
「ああ」
「弟さん?」
「ああ」
「……」
俺は写真を見た。
若い老人が笑っている。
今とは全然違う。
歯を見せて笑っている。
母親も笑っている。
小さな弟も。
みんな笑っている。
幸せそうだった。
老人は写真を受け取った。
「その写真は」
俺が言う。
「いつ撮ったんです?」
「金持ちになる前だ」
「……」
意外だった。
金がなかった頃。
何も持っていなかった頃。
その写真の中の人たちは。
今よりずっと幸せそうだった。
「この写真、好きなんですか?」
「好きだった」
「今は?」
老人は答えなかった。
「……好きだよ」
そう言って、写真を机の上に置いた。
俺はその言い方が気になった。
好きだった。
好きだ。
同じようで、違う。
「手紙」
女が言った。
老人が顔を上げた。
「手紙がどうかした?」
「さっきの」
「ああ」
老人はポケットから封筒を取り出した。
「読んでいいんですか?」
「君が?」
「いや、俺は読まないですけど」
「なら聞かないほうがいい」
老人は封筒を開けた。
一枚の紙を取り出す。
読む。
目が少しだけ動く。
それから。
老人は紙を折った。
「どうでした?」
「孫からだよ」
「え?」
「明日、遊びに来るそうだ」
「じゃあ、いい知らせじゃないですか」
「ああ」
老人は笑った。
今度の笑顔は、本物に見えた。
「それはよかった」
俺も笑った。
「じゃあ、明日楽しみですね」
「……」
老人が止まった。
「どうしたんです?」
「いや」
老人は紙を見る。
「楽しみ、か」
「楽しみじゃないんですか?」
「そうだね」
「じゃあ――」
老人は少し考えてから、
「楽しみだよ」
と言った。
けれど。
俺には。
その一瞬だけ。
老人が「楽しみ」という言葉を、思い出そうとしているように見えた。
*
昼過ぎ。
老人は町へ出かけると言った。
「俺も行っていいですか?」
「もちろん」
女もついてきた。
今度は市場ではない。
町の外れにある店だった。
「何の店です?」
「玩具屋」
「玩具?」
「孫に何か買ってやろうと思ってね」
老人が店に入る。
店内には、木でできた玩具が並んでいる。
車。
人形。
積み木。
小さな列車。
老人は棚を眺める。
「どれがいいと思う?」
俺は驚いた。
「また俺?」
「君は若いからね」
「俺、子供のこと分かんないですよ」
「私も分からない」
「え?」
老人は真顔だった。
「孫の年齢に合う玩具が分からない」
俺は笑った。
「それくらい調べてくださいよ」
「調べる?」
「本とか、店の人に聞くとか」
「そうか」
老人は店主を見る。
「この子に合うものは?」
店主が笑った。
「お孫さんですか?」
「ああ」
「何歳です?」
老人が黙る。
「……」
「旦那様?」
「七歳」
「七歳ですか」
店主がいくつか玩具を出した。
「これなんかどうでしょう」
老人が見る。
「高いね」
「……」
俺は思わず老人を見た。
金持ちなのに。
玩具の値段を気にしている。
店主も少し驚いた顔をした。
「いや」
老人が続ける。
「高いから悪いと言っているんじゃない」
「はい」
「この子にとって、これが高いものかどうかが分からない」
「……」
俺には意味が分からなかった。
老人は玩具を手に取った。
小さな木製の列車。
「これ」
老人が言った。
「私が買ってもいいかな?」
「もちろんです」
店主が包み始める。
老人はその様子を見ていた。
「列車が好きなんですか?」
「私が?」
「お孫さんが」
「ああ」
老人は笑った。
「この子は列車が好きなんだ」
「へえ」
「昔の私も好きだった」
「列車?」
「そう」
老人は包み紙を眺めた。
「母親が、たまに駅まで連れていってくれた」
「……」
「列車を見るだけだったけどね」
「乗らなかったんですか?」
「乗れなかった」
「お金が?」
「ああ」
老人は笑った。
「だから、見るだけ」
俺は店の外を見る。
町の向こう。
線路が伸びている。
列車が通るたびに、音が聞こえる。
ガタン。
ゴトン。
「でも、好きだった」
老人が言った。
「列車が?」
「ああ」
「何で?」
老人は少し考えた。
「どこかへ行けるから」
その言葉だけが。
妙に残った。
*
夕方。
俺たちは屋敷へ戻った。
老人は買った玩具を自分の部屋へ置いた。
明日、孫に渡すらしい。
俺は自分の部屋へ戻った。
窓を開ける。
風が入ってくる。
古い音楽プレイヤーを取り出す。
再生する。
祖母の声。
――男は、金持ちになりました。
俺は目を閉じる。
――大きな家を買いました。
――立派な服を買いました。
――美しい絵を買いました。
――おいしい食事を買いました。
――遠い国へ行くための船を買いました。
そこで。
老人の声に変わった。
――何でも買えた。
俺は息を止めた。
――本当に、何でも。
声は穏やかだった。
――欲しいものを言えば、誰かが持ってきてくれた。
――欲しい場所へ行きたいと言えば、誰かが連れていった。
――食べたいものを言えば、目の前に並んだ。
――見たいものを言えば、見せてくれた。
そして。
――だから私は、願うことをやめた。
俺は目を開いた。
今までと違う言葉だった。
願うことを。
やめた。
老人の声が続く。
――欲しいものは、願う前に手に入る。
――行きたい場所には、いつでも行ける。
――食べたいものは、いつでも食べられる。
――会いたい人には、金を払えば会える。
俺は思った。
それは。
幸せなんじゃないのか?
何でもできる。
何でも買える。
何でも手に入る。
そんな人生を。
俺なら。
俺なら、欲しい。
老人の声が言った。
――けれど。
俺は動きを止めた。
――ある日。
老人は静かに言った。
――私は、何が欲しいのか分からなくなった。
胸の奥が、ざわついた。
――欲しいものがない。
――行きたい場所もない。
――食べたいものもない。
――会いたい人もいない。
俺は思わずイヤホンを外した。
部屋が静かになる。
けれど。
耳の奥にはまだ声が残っていた。
――何でも持っているのに。
――私は、何も持っていなかった。
「……何だよ、それ」
誰に言うでもなく呟く。
そのとき。
扉が開いた。
「夕食」
女だった。
「……なあ」
「何?」
「金持ちって、何でも買えるんだよな」
「たぶん」
「じゃあ」
俺は音楽プレイヤーを見る。
「何で、何も欲しくなくなるんだ?」
女は答えなかった。
「お前ならどうする?」
「私?」
「何でも買えるくらい金持ちになったら」
女は少し考えた。
「列車を買う」
「……は?」
「列車」
「何で?」
「好きだから」
「お前、列車好きなの?」
「今決めた」
「適当だな」
女は笑った。
俺も少し笑った。
そして。
ふと。
思った。
俺にも。
欲しいものがある。
金。
自由。
安心。
誰かに認められること。
何も言われずに眠れる場所。
それから。
――何だ?
自分でも分からなかった。
「どうしたの?」
女が聞く。
「いや」
俺は窓の外を見た。
「何でもない」
遠くで列車が走っていた。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
夕暮れの町を抜けて。
列車はどこかへ向かっている。
俺は思った。
もし。
もしガルガンチュアが本当にいるなら。
俺も一つ、願いを叶えてもらいたい。
そうすれば。
俺が本当に欲しいものが、分かるかもしれない。
けれど、その夜。
音楽プレイヤーから聞こえてきた言葉は。
俺のその考えを。
少しだけ怖いものに変えた。
――私は、金持ちになった。
――だから。
――もう、願う必要がなくなった。
そこで。
老人の声が、初めて泣きそうになった。
――願わなくなったら。
――人は。
――何を楽しみに生きればいいのだろう。
音声が途切れる。
俺はイヤホンを外した。
そして、初めて。
ガルガンチュアという存在を。
少しだけ怖いと思った。




