第四話 買える者
朝、老人はパンを二枚食べた。
昨日より一枚多かった。
「今日はよく食べますね」
俺が言うと、老人はパンを見た。
「そうかね?」
「昨日は一枚だった」
「よく見ているね」
「暇なんですよ」
「それは結構」
老人は笑った。
向かいでは、あの女が黙々と食べている。
この屋敷に来てから、こいつはよく食べる。
遠慮というものを知らない。
「今日はどこへ行くんです?」
「市場へ」
老人が答えた。
「市場?」
「買い物だよ」
「何を?」
「食べるもの」
「ここにもいっぱいあるじゃないですか」
「そうだね」
「じゃあ、何で?」
「市場のほうが面白いから」
老人はそう言った。
その顔を見て、俺は少し意外に思った。
昨日から何度も見ているけれど。
この人が「面白い」と言ったのは初めてだった。
*
市場は町の中心にあった。
屋敷から坂を下りるだけで着く。
昨日見た広場よりもずっと賑やかだった。
野菜。
果物。
魚。
パン。
服。
靴。
工具。
花。
何でも売っている。
老人は、その一つ一つを眺めながら歩いた。
店の人たちは老人を見ると、軽く頭を下げる。
「旦那様」
「おはよう」
「今日は珍しいですね」
「そうかね」
「いつも使用人の方に任せるでしょう」
「今日は自分で来たくなったんだ」
「そうですか」
老人は野菜を手に取った。
赤いトマト。
ひっくり返したり、匂いを嗅いだりしている。
「それ、買うんですか?」
俺が聞いた。
「うん」
「そんなに見なくても、屋敷に持って帰れば食べられるでしょう」
「そうだね」
「じゃあ何で?」
老人はトマトを眺めながら、
「自分で選ぶのが好きなんだよ」
と言った。
俺は黙った。
なるほど。
金持ちでも、買い物はする。
当たり前の話だ。
けれど、なんとなく不思議だった。
この人なら。
店ごと買えるんじゃないか。
そんなことを考えていると、老人が言った。
「君」
「はい?」
「これと、これ。どちらがいいと思う?」
老人は二つのトマトを俺に見せた。
「……俺に聞くんですか?」
「君に聞いている」
「分かんないですよ」
「見た目でいい」
俺は二つを見比べた。
「こっち」
左を指差す。
「なぜ?」
「なんとなく」
「そうか」
老人は右のトマトを買った。
「なんでだよ」
「なんとなく」
店主が笑った。
俺も笑った。
女は隣で呆れた顔をしていた。
市場を歩く。
老人は何でもないものを買った。
パンを一つ。
林檎を二つ。
花を一輪。
それから、昨日の少女に渡すための小さな菓子。
どれも高級品ではない。
むしろ、この屋敷ならいつでも用意できるようなものばかりだった。
それなのに老人は楽しそうだった。
俺は少しだけ安心していた。
昨日の夜まで、俺はこの人が何かを失っていると思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
この人には。
ちゃんと嬉しいものがある。
そう思った。
「旦那様」
後ろから声がした。
振り返ると、昨日の少女がいた。
「おじいちゃん!」
「おや」
少女は老人に駆け寄る。
「何買ったの?」
「色々だよ」
「見せて!」
老人が袋を開ける。
少女は一つずつ覗き込んだ。
「お花!」
「ああ」
「誰にあげるの?」
「君に」
「ほんと?」
「ああ」
老人が花を差し出す。
少女は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
「ねえ、おじいちゃん」
「何だい?」
「今日も来る?」
「どこへ?」
「湖」
「ああ」
「一緒に行こうよ」
老人は少し考えた。
「いいよ」
「やった!」
少女が走っていく。
「待ちなさい」
「はーい!」
老人が笑った。
その笑顔を見ていると。
やっぱり、この人は幸せなのだと思った。
「……よかったな」
俺が言う。
「何が?」
老人が振り返った。
「いや」
なんとなく。
そう言いたくなった。
老人は少し不思議そうな顔をした。
それから、
「そうだね」
と言った。
*
湖は町から少し離れた場所にあった。
小さな湖だった。
森に囲まれている。
水面に空が映っていた。
少女は水辺を走り回っている。
老人は木陰に座っていた。
俺と女も、その近くに座る。
「ここ、いいところですね」
「そうだろう」
「よく来るんですか?」
「昔はね」
「昔?」
「ああ」
老人は湖を眺めている。
「金持ちになる前?」
「なった後だよ」
「じゃあ、よく来てた?」
「最初の頃は」
「最初の頃?」
老人は答えなかった。
しばらくして、少女が戻ってきた。
「おじいちゃん!」
「何だい?」
「これ!」
少女の手には、小さな石があった。
「宝物」
「昨日も宝物をくれたじゃないか」
「今日のはもっとすごいよ」
「どこが?」
「白い!」
確かに白い。
それだけだった。
老人は受け取った。
「これはすごい」
「でしょ?」
「ああ」
「大事にしてね」
「もちろん」
少女は満足して、また水辺へ戻っていった。
俺は老人を見る。
老人は石を眺めている。
「……嬉しいですか?」
「うん」
「昨日の木の実より?」
「それは比べられないよ」
「同じようなものでしょ」
「違う」
「何が?」
老人は石を指先で転がした。
「昨日の木の実は、昨日のものだ」
「?」
「これは今日のものだ」
俺には意味が分からなかった。
老人は笑った。
「君にはまだ分からないか」
「何がです?」
「そのうち分かる」
女が横から口を挟んだ。
「私には分かる」
「本当かね?」
「たぶん」
「たぶんか」
老人が笑った。
湖に風が吹いた。
木の葉が揺れる。
水面に細かな波が立つ。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて老人が、
「昔は、何でも買ったよ」
と言った。
俺は老人を見る。
「何でも?」
「何でも」
「家とか?」
「家」
「車?」
「車」
「宝石?」
「買った」
「服?」
「買った」
「食べ物?」
「買った」
「じゃあ……」
俺は少し考えた。
「何が一番高かった?」
老人は湖を見た。
「時間」
「……時間?」
「ああ」
「時間って買えるんですか?」
「買えると思っていた」
老人は笑った。
「金があれば、何でも買えると思っていたんだ」
「でも買えなかった?」
「買えなかった」
「何を?」
「過去」
湖の向こうに、山がある。
その向こうには、海があるらしい。
老人はその山を見ていた。
「母親が死ぬ前に戻ることもできなかった」
「……」
「弟が病気になる前に戻ることもできなかった」
「弟さんも?」
「ああ」
「じゃあ……」
「金持ちになった頃には、もう二人ともいなかった」
風が止まった。
俺は何も言えなかった。
「それでも金は増え続けた」
老人は続ける。
「家を買った」
「土地を買った」
「会社を買った」
「船を買った」
「絵を買った」
「宝石を買った」
「食べ物も買った」
「服も買った」
「旅行にも行った」
淡々と。
本当に淡々と。
「欲しいものは、だいたい手に入った」
「じゃあ――」
俺は聞いた。
「幸せだった?」
老人は黙った。
今度は、すぐに答えなかった。
湖の向こうで鳥が鳴いた。
「……最初は」
やがて、老人は言った。
「最初は、幸せだったよ」
「最初は?」
「ああ」
老人は笑った。
その笑顔は、昨日と同じだった。
何かが足りない。
「金を手に入れたときは、嬉しかった」
「母親のために使えなくても?」
「それでも嬉しかった」
「どうして?」
「分からない」
老人は自分でも分からないというように首を傾げた。
「金があったから」
「それだけ?」
「それだけだ」
俺は納得できなかった。
「じゃあ、いつから?」
「何が?」
「嬉しくなくなったのは」
老人は黙った。
女も何も言わない。
少女は遠くで石を投げている。
ぽちゃん。
水面に波紋が広がる。
「分からない」
老人は言った。
「気づいたら、だ」
その答えが妙に怖かった。
「ある日、何かを買った」
「何を?」
「高価な時計だったかな」
「嬉しくなかった?」
「買った瞬間は嬉しかった」
「じゃあ?」
「その翌日に、別の時計が欲しくなった」
「……」
「その時計を買った」
「それで?」
「また別のものが欲しくなった」
老人は苦笑した。
「金は、いくら使ってもなくならなかった」
「だから?」
「欲しいものも、なくならなかった」
俺は湖を見る。
水面は穏やかだった。
「でも、ある日」
老人が言った。
「欲しいものがなくなった」
「え?」
「何を買っても、どうでもよくなった」
「……」
「それでも金だけは増えた」
老人は自分の手を見た。
「だから、買った」
「何でも?」
「何でも」
「それでも?」
「何も感じなかった」
老人は、静かに笑った。
「それが一番困った」
*
帰り道。
少女は母親に連れられて帰っていった。
老人は何度も手を振っていた。
少女も何度も振り返った。
姿が見えなくなっても、老人はしばらく立っていた。
「好きなんですね」
俺が言った。
「何が?」
「孫」
「もちろん」
「じゃあ、嬉しいんじゃないですか?」
老人は俺を見た。
「そうだね」
「なら――」
俺は言葉を止めた。
老人は笑っていた。
「どうした?」
「……何でもないです」
「そうか」
屋敷へ戻る。
夕食まで少し時間があった。
俺は自分の部屋に戻った。
ベッドに座る。
古い音楽プレイヤーを取り出す。
昨日の続き。
再生する。
祖母の声。
――金持ちになった男は、世界中のものを買いました。
いつもの物語。
けれど、少しすると。
音が変わった。
まただ。
俺はイヤホンを押さえた。
老人の声。
――最初は、嬉しかった。
俺は目を閉じた。
――初めて家を買ったとき。
――初めて腹いっぱい食べたとき。
――初めて暖かい服を着たとき。
――初めて、誰かに「もう心配しなくていい」と言われたとき。
声が少しだけ明るい。
今の老人からは想像できないほどだった。
――私は嬉しかった。
俺は息を吐いた。
やっぱり。
この人にも、嬉しい時期があったんだ。
音声が続く。
――金があれば、もう何も怖くないと思った。
――腹が減ることもない。
――寒さに震えることもない。
――病気になることもない。
――母親を失った悲しみさえ、いつか忘れられると思った。
そこで。
老人の声が止まった。
長い沈黙。
そして。
――だが。
その一言が、部屋に落ちた。
――金は、私の母親を返してはくれなかった。
俺は目を開けた。
音声は続いている。
――だから私は、もっと金が欲しくなった。
――もっとあれば。
――もっとたくさんあれば。
――いつか何かを取り戻せるような気がした。
俺は動けなかった。
老人の声が、少しずつ早くなっていく。
――家を買った。
――土地を買った。
――船を買った。
――会社を買った。
――宝石を買った。
――絵を買った。
――何でも買った。
――金で買えるものなら、何でも。
そして。
――けれど。
また沈黙。
――何を買っても、母親は戻らなかった。
俺はイヤホンを外そうとした。
けれど。
できなかった。
――ある日、私は気づいた。
老人の声が、急に静かになった。
――私は、金が欲しかったのではない。
俺の手が止まる。
――私は。
その先を待った。
けれど。
音声はそこで途切れた。
「……またかよ」
俺はプレイヤーを見た。
再生は終わっていない。
なのに。
続きがない。
何度押しても同じだった。
俺はイヤホンを外した。
部屋が静かになる。
窓の外。
夕方の空。
遠くで鳥が鳴いている。
すると。
廊下から足音がした。
コン。
コン。
扉を叩く音。
「はい」
扉が開いた。
老人だった。
「夕食だよ」
「あ……はい」
俺は立ち上がった。
老人が部屋の中を見る。
古い音楽プレイヤー。
イヤホン。
そして俺。
「何を聞いていたんだね?」
「……昔話です」
「そうか」
「ガルガンチュアの」
老人の顔が、ほんの少しだけ変わった。
俺はそれを見逃さなかった。
「……そうか」
老人はもう一度言った。
「それは、懐かしいね」
「知ってるんですか?」
「何を?」
「この話」
老人は答えなかった。
俺は音楽プレイヤーを握った。
「あなたが主人公なんでしょう?」
老人が止まった。
部屋の入口。
夕方の光を背にして。
老人はしばらく俺を見ていた。
「どうして、そう思う?」
「声が同じです」
「声?」
「音楽プレイヤーから、あなたの声がする」
老人は黙った。
「あなたが昔、金持ちになったときの話をしてる」
「……」
「母親の話も」
老人の顔から笑みが消えた。
「弟の話も」
沈黙。
「何を買ったかも」
老人は部屋へ入ってきた。
扉を閉める。
俺は少しだけ身構えた。
「その話を」
老人が言った。
「最後まで聞いたかね?」
「まだです」
「そうか」
「途中で止まります」
「そうか」
「何で?」
老人は答えなかった。
代わりに、俺の手の中の音楽プレイヤーを見た。
懐かしむような。
怖がるような。
そんな目だった。
「それは」
老人が言う。
「私の話ではないよ」
「でも声が」
「声が同じだから、私の話だと思った?」
「……はい」
老人は窓の外を見た。
「それなら、君はまだ何も知らない」
「何を?」
老人は答えなかった。
ただ、
「夕食が冷める」
と言った。
そして部屋を出ていった。
俺はしばらく動けなかった。
やがて、音楽プレイヤーを見る。
古い小さな機械。
昨日までなら、ただの思い出だった。
祖母がくれた。
それだけのもの。
けれど今は違う。
この中には。
誰かの人生が入っている。
しかも。
その誰かは。
俺が今、旅の途中で出会っている人間だ。
俺はイヤホンを耳に戻した。
再生ボタンを押す。
老人の声は、もう流れなかった。
代わりに。
祖母の声が聞こえた。
――そして男は、ついに気づきました。
俺は息を止めた。
――自分が本当に欲しかったものは、金ではなかったのだと。
そこで音が途切れた。
俺は画面を見た。
再生時間は、まだ残っている。
それなのに。
また終わった。
俺は立ち上がった。
夕食へ向かう。
廊下を歩く。
遠くから食器の音がする。
そして。
窓の外を、列車が走っていった。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
ほんの数秒。
それだけだった。
けれど、その音を聞いたとき。
俺は初めて思った。
この旅は。
ガルガンチュアを探す旅なのではないのかもしれない。
ガルガンチュアに願いを叶えてもらった人間が。
そのあと、何を失ったのか。
それを見て回る旅なのかもしれない。
そして。
もし本当にそうなのだとしたら。
次に会う人間も。
何かを失っている。
そんな気がした。




