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第三話 金持ちの朝



 朝は、音で始まった。


 ガタン。


 ゴトン。


 遠くで列車が走っている。


 俺は目を覚ました。


 見知らぬ天井。


 見知らぬ部屋。


 昨日のことを思い出すまでに、少し時間がかかった。


 ガルガンチュア。


 旅。


 あの女。


 そして、あの老人。


 枕元に手を伸ばす。


 古い音楽プレイヤーがあった。


 イヤホンは耳に入れたままだった。


 電源を入れる。


 昨夜の続きを再生する。


 けれど。


 ――遥か彼方に、ガルガンチュアというものがおりました。


 流れてきたのは、祖母の声だった。


「……戻った?」


 思わず口に出した。


 昨日聞いた老人の声は、どこにもない。


 ただ、いつもの昔話が流れている。


 ガルガンチュアは、どんな願いでも叶える。


 それを聞きながら、俺はベッドから起き上がった。


 昨夜のことは夢だったのかもしれない。


 そんな気もした。


 でも、音楽プレイヤーに残っている再生履歴は、確かに昨日とは違っていた。


 俺は画面を眺める。


 古い小さな画面。


 そこに表示された文字を見ていると、祖母の顔を思い出した。


 昔、これをくれたとき。


「古いけど、まだ使えるから」


 と笑っていた。


 俺はそれを何年も持っている。


 新しいものを買えばいいのに、と言われたこともある。


 でも、捨てる気にはなれなかった。


 これだけは。


 俺の人生で、誰かが俺のために選んでくれたものだったから。


 部屋を出る。


 廊下には朝の光が差していた。


 階段を下りると、食堂から声がした。


「おはよう」


 あの女だった。


 テーブルに座って、パンを食べている。


「早いな」


「あなたが遅い」


「何時だよ」


「朝」


「時間を聞いたんだけど」


「朝だよ」


「……お前、ほんと腹立つな」


 女は楽しそうに笑った。


 テーブルの上には朝食が並んでいた。


 パン。


 卵。


 果物。


 スープ。


 昨日の夕食よりはずっと少ない。


 それでも一人分としては多い。


「おじいさんは?」


「庭」


「朝から?」


「ずっといる」


 女が窓の外を指差した。


 庭。


 大きな木の下。


 老人がいた。


 一人で椅子に座っている。


 何をするでもない。


 ただ、庭を眺めている。


「何してるんだ?」


「見てるんじゃない?」


「何を?」


「庭」


「……」


 俺は女を見た。


「お前、もう少しまともに答えられないの?」


「答えてるよ」


 仕方なく窓の外を見る。


 老人がこちらに気づいた。


 手を上げる。


 俺も手を上げ返した。


 それから、老人のところへ行った。


「おはようございます」


「おはよう」


「何してるんです?」


「朝食を待っている」


「食堂に行けばいいじゃないですか」


「そうだな」


 老人は立ち上がった。


「行こうか」


 歩き出す。


 俺はその後ろについていった。


「昨日の夜」


「うん?」


「……何でもないです」


 言えなかった。


 あの音声のこと。


 本人に直接、


「昨日、あなたの声が音楽プレイヤーから流れました」


 なんて言っても、信じてもらえるとは思えない。


 それに。


 怖かった。


 もし本人が知らないのだとしたら。


 あの音声は一体何なのか。


 もし本人が知っているのだとしたら。


 なぜ、俺のプレイヤーに入っているのか。


 どちらにしても、聞く勇気がなかった。


 食堂に戻る。


 三人で朝食を食べた。


 老人は昨日より少しだけ多く食べた。


 パン。


 卵。


 それから果物を一切れ。


「今日は町を歩こう」


 老人が言った。


「町を?」


「ああ」


「何かあるんですか?」


「何もないよ」


「じゃあ、何で?」


「何もないところを歩くのも、悪くない」


 女がパンを食べながら、


「いいんじゃない?」


 と言った。


 俺たちは食事を終えると、三人で屋敷を出た。


 門を出ると、老人は杖を使わずに歩いた。


 ゆっくり。


 でも、しっかりと。


「この町、昔からこんな感じなんですか?」


「昔はもっと小さかった」


「あなたが来たころは?」


「私が来たときには、もう少し大きかったかな」


「どのくらい?」


「今の半分くらい」


 老人は笑った。


「金を持つと、町まで大きく見えるものだよ」


「どういう意味です?」


「子供の頃は、自分の家から町の端までが世界の全部だった」


 老人は道を見ながら歩いていく。


「大人になって金を持つと、世界はどこまでも広がる」


「じゃあ、今は?」


 老人は立ち止まった。


 町の中心に、小さな広場があった。


 噴水がある。


 その横にベンチが並んでいる。


「今は」


 老人は広場を眺めた。


「世界は、ずいぶん狭い」


 その言葉の意味が分からなかった。


 老人は広場のベンチへ座った。


 俺も隣に座る。


 女は向かい側に座った。


 しばらく三人で町を眺めた。


 子供が走っている。


 老人が一人、新聞を読んでいる。


 店からパンの焼ける匂いがする。


 どこにでもありそうな町だった。


「この町に、あなたのことを知っている人は?」


「いるよ」


「有名なんですか?」


「少しはね」


「じゃあ、みんな金持ちだって知ってる?」


「知っているだろうね」


「嫌われたりしないんですか?」


 老人が笑う。


「どうして?」


「金持ちだから」


「金持ちだから嫌われるのか?」


「……まあ」


「じゃあ、貧乏なら好かれるのか?」


「そういう意味じゃ」


「分かってるよ」


 老人は楽しそうだった。


 俺は少し安心した。


 この人は、昨日よりよく喋る。


 笑うことも多い。


 もしかしたら。


 俺が思っているほど、この人は不幸じゃないのかもしれない。


 そのときだった。


 広場の向こうから、一人の少女が走ってきた。


「おじいちゃん!」


 老人が顔を上げる。


「おお」


 少女は老人のところまで来ると、何かを差し出した。


「これ!」


「何だね?」


「見つけた!」


 小さな木の実だった。


 老人はそれを受け取った。


「これは?」


「昨日の木の下!」


「そうか」


「きれいでしょ」


「ああ」


 老人は木の実を眺めた。


 少女が笑う。


「宝物なんだよ」


「それは大切だ」


「おじいちゃんにあげる」


「私に?」


「うん」


 老人は少し困った顔をした。


「いいのかい?」


「いいよ」


「ありがとう」


 老人は木の実をポケットに入れた。


 少女は満足そうに笑った。


「また明日ね!」


「ああ。また明日」


 少女は走っていった。


 俺は老人を見た。


「孫?」


「ああ」


「可愛いですね」


「可愛いよ」


 老人はポケットの上から木の実を触った。


 そして笑った。


 俺は、その顔を見ていた。


 昨日の夕食のときとは違う。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 嬉しそうだった。


「……嬉しいんですね」


 老人がこちらを見る。


「何が?」


「今の」


「何が?」


「その木の実」


 老人はポケットに手を入れた。


「そうだね」


「金持ちなのに」


 言ってから、自分でも変なことを言ったと思った。


「すみません」


「いや」


 老人は笑った。


「金持ちでも、木の実くらいは嬉しいよ」


 女が、


「よかったね」


 と言った。


 老人は頷いた。


「ああ」


 そのとき。


 遠くから汽笛が聞こえた。


 町の向こう。


 山のふもとを走る線路。


 白い煙を上げながら、列車が走っている。


 ガタン。


 ゴトン。


 ガタン。


 ゴトン。


 列車は町の向こうへ消えていった。


 俺はそれを目で追った。


「駅、近いんですか?」


「歩いて二十分くらい」


「昨日の駅とは別?」


「同じだよ」


「じゃあ、ここから帰れるんだ」


 老人が俺を見る。


「帰りたいのかね?」


「……」


 答えられなかった。


 老人は何も言わなかった。


 ただ、ポケットに入れた木の実をもう一度撫でた。


 しばらくして、


「私も昔は、列車が好きだった」


 と言った。


「昔?」


「ああ」


「今は?」


「嫌いじゃない」


「じゃあ、乗らないんですか?」


「乗る理由がない」


 俺は線路の向こうを見た。


「どこか行きたいところとか?」


「昔はあった」


「どこ?」


「海」


 また、その言葉だった。


 俺は老人を見る。


「海、好きなんですか?」


「見たことがあるだけだ」


「でも、お母さんを連れていきたかったんでしょう?」


 老人の顔から、笑みが消えた。


 俺はしまったと思った。


「……そうだったね」


 老人はそれだけ言った。


 女が俺を見る。


 責めているわけではない。


 ただ、やめたほうがいい、と言っているようだった。


 俺は黙った。


 老人は立ち上がった。


「そろそろ帰ろう」


 それから三人で屋敷へ戻った。


 帰り道、老人はほとんど喋らなかった。


 屋敷に着く。


 老人は自分の部屋へ戻った。


 俺たちは庭に残った。


「やっちゃったな」


 俺が言った。


「うん」


「やっぱり?」


「うん」


「……何でお前、そこで否定しないんだよ」


「事実だから」


 女はベンチに座った。


 俺も座る。


「なあ」


「なに?」


「あの人、本当に幸せなのかな」


 女は空を見た。


「さあ」


「またそれ」


「だって、分からない」


「でも、さっき笑ってた」


「うん」


「木の実をもらって嬉しそうだった」


「うん」


「じゃあ、幸せなんじゃないの?」


 女は少し黙った。


「じゃあ、どうしてあなたは幸せそうじゃないの?」


「……は?」


「あなたは何でも持ってる?」


「持ってない」


「お金は?」


「ない」


「家は?」


「ある」


「家族は?」


「いる」


「友達は?」


「……」


「仕事は?」


「ある」


「じゃあ、どうして?」


 俺は答えられなかった。


 女は笑わなかった。


 ただ、


「幸せって、持ってるものの数じゃないんじゃない?」


 と言った。


 俺は何も返せなかった。


 その日の夕方。


 老人は部屋から出てこなかった。


 夕食にも来なかった。


 使用人に聞くと、


「旦那様はお疲れなのです」


 と言われた。


 俺は庭に出た。


 ベンチに座る。


 音楽プレイヤーを取り出した。


 昨日の音声を思い出す。


 老人の声。


 ――私は、金が欲しかった。


 イヤホンを耳へ入れる。


 再生。


 しばらくは祖母の声だった。


 ――貧しい少年は、ガルガンチュアに願いました。


 俺は目を閉じた。


 ――どうか、金持ちにしてください。


 そこで。


 音が止まった。


 まただ。


 俺は目を開けた。


 画面を見る。


 再生は続いている。


 けれど、声がない。


 やがて。


 老人の声がした。


 ――金持ちになったら。


 俺は息を止めた。


 ――母親を暖かい家に住ませる。


 ――腹いっぱい食わせる。


 ――病院へ連れていく。


 昨日と同じ声。


 けれど、今日は違った。


 老人は、願いの続きを話していた。


 ――それから、海を見せる。


 少しだけ沈黙。


 ――私は、そう思っていた。


 俺はイヤホンを押さえた。


 音声の向こうで、誰かが小さく笑った。


 老人だった。


 ――馬鹿な話だ。


 その声は。


 今までで一番、寂しかった。


 ――母親は、もう海を見ることができなかったのだから。


 俺は立ち上がった。


 そのとき。


「何してるの?」


 背後から声がした。


 女だった。


 俺は慌ててイヤホンを外した。


「……何でもない」


「聞いてた?」


「何を?」


「それ」


 女は音楽プレイヤーを指差した。


「……」


「また、あの人?」


「……そう」


「何て言ってた?」


 俺は答えなかった。


 女は俺の隣に立った。


「教えて」


「嫌だ」


「どうして?」


「分からない」


「じゃあ、聞かせて」


「もっと嫌だ」


 女は少し笑った。


「変なの」


「お前に言われたくない」


 俺はイヤホンを握りしめた。


「なあ」


「うん」


「これ、何なんだろうな」


「何が?」


「この音声」


「ガルガンチュアの物語」


「違う」


 俺は画面を見た。


「どうして、あの人の声が入ってるんだ?」


 女は答えなかった。


 俺は続けた。


「しかも、あの人が俺たちに話してないことまで」


「……」


「お前、何か知ってる?」


「知らないよ」


「本当に?」


「本当に」


 女は空を見上げた。


 夕暮れが、町の屋根を赤く染めている。


「でも」


「何?」


「少しだけ面白くなってきたね」


「何が?」


 女は俺を見た。


「この旅」


 俺はため息をついた。


 その夜。


 俺はまた音声を聞いた。


 老人の声は、まだ続いていた。


 ――私は、金持ちになった。


 ――そして。


 そこで、長い沈黙。


 俺は待った。


 やがて。


 ――私は、何でも買えるようになった。


 声はそこで途切れた。


 俺は画面を見た。


 まだ再生時間は残っている。


 なのに、続きは流れない。


「……何だよ」


 俺はプレイヤーを振った。


 当然、直るわけがない。


 布団に寝転がる。


 イヤホンを外す。


 静寂。


 すると、また。


 ガタン。


 ゴトン。


 遠くで列車が走った。


 俺は目を閉じた。


 あの列車は。


 どこへ向かっているのだろう。


 俺たちは。


 どこへ向かっているのだろう。


 そして。


 金持ちになったあの老人は。


 いったい何が欲しいのだろう。


 その答えを知るのは、もう少し先のことだった。

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