第二話 富める者
列車を降りてから、二時間ほど歩いた。
正確には、歩かされた。
と、俺は思っている。
「なあ」
「なに?」
「まだ着かないの?」
前を歩く女は振り返らなかった。
「もう少し」
「それ、さっきも聞いた」
「じゃあ、もう少し前に聞いたんだね」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
分かってるなら腹が立つ。
けれど、怒鳴るほどの元気はなかった。
駅を出てからずっと、俺たちは山道を歩いていた。
舗装された道は途中でなくなり、今では土の道になっている。
スマートフォンは相変わらず圏外。
会社には連絡していない。
家にも帰っていない。
今頃どうなっているのか考えると少しだけ怖くなるが、不思議と戻ろうとは思わなかった。
女は前を歩いている。
黒い髪が、歩くたびに揺れる。
手には、あの小さな旅行鞄。
あれだけは絶対に手放さない。
「なあ」
「今度は何?」
「その鞄、何入ってるの?」
「色々」
「色々って?」
「色々は色々」
「見せて」
「嫌」
即答だった。
「なんで?」
「嫌だから」
「……お前さ」
「うん」
「俺が変な奴じゃなかったら、もっと普通に話してくれない?」
「あなたも十分変だよ」
「なんで俺が?」
「知らない駅で降りて、知らない女についてきてる」
反論できなかった。
女が初めて振り返る。
「それに」
「それに?」
「あなた、帰りたくないんでしょう?」
俺は足を止めた。
女も止まった。
木々の隙間から、午後の光が落ちている。
「……なんで分かるんだよ」
「顔」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
女はそう言って、また歩き出した。
「じゃあ、あんたは?」
「私?」
「帰る場所あるの?」
「あるよ」
「どこ?」
「遠いところ」
「それ、昨日からずっと言ってるよな」
「便利だから」
俺はため息をついた。
この女といると、どうにも調子が狂う。
何を聞いても答えているようで答えていない。
何を考えているのかも分からない。
それなのに、なぜか一緒に歩いている。
自分でも不思議だった。
しばらくすると、森が途切れた。
目の前に町が広がった。
小さな町だった。
赤い屋根。
石造りの家。
古い時計塔。
遠くには、さっきまでいた山が見える。
そして、その町の一番高いところに――
一軒の大きな屋敷が建っていた。
周囲の家が全部、そこから見下ろされている。
「……あれ?」
「そう」
「まさか」
「うん」
女が頷いた。
「ガルガンチュアに願いを叶えてもらった人の家」
俺は屋敷を見上げた。
「金持ちになりたいって願った人?」
「そう」
「本当に?」
「そういう話」
「名前は?」
「知らない」
「知らないの?」
「あなたが聞けばいいでしょう」
女は歩き出した。
俺も仕方なくついていった。
屋敷へ向かう道は、町の中心から少しずつ坂になっていた。
近づけば近づくほど、その大きさが分かる。
庭だけで学校の校庭くらいある。
門には鉄細工が施されていた。
けれど、不思議だった。
金持ちの家だというのに、派手ではない。
金色の飾りもない。
大きな噴水もない。
ただ、広い。
広すぎる。
そして静かだった。
門の前に立つ。
女が呼び鈴を鳴らした。
しばらく待つ。
何も起きない。
もう一度鳴らす。
「留守じゃない?」
「いるよ」
「なんで分かる?」
「窓」
女が指差す。
二階の窓。
カーテンの隙間から、誰かがこちらを見ていた。
俺と目が合った。
老人だった。
白い髪。
痩せた顔。
少し驚いたような顔をしている。
やがて姿が消えた。
少しして、門が開いた。
「どうぞ」
出てきたのは、背の高い老人だった。
黒い服を着ている。
執事なのだろう。
「旦那様がお待ちです」
「俺たちが来るって知ってたんですか?」
「はい」
「いつから?」
「分かりません」
「分からない?」
「旦那様は、時々そういうことをなさいますので」
執事はそれ以上何も言わなかった。
俺たちは屋敷の中へ通された。
玄関に入った瞬間、空気が変わった。
広い。
天井が高い。
床は磨かれていて、俺の靴が妙に汚く見える。
壁には絵がいくつも飾られていた。
人物画。
風景画。
知らない街の絵。
どれも高そうだった。
けれど、俺は絵の価値なんて分からない。
女は絵を見ることすらしなかった。
「こっち」
執事についていく。
長い廊下を抜ける。
その間、誰とも会わなかった。
「使用人、少ないんですね」
「おりますよ」
「でも、誰もいない」
「必要な場所におります」
なるほど。
分からない。
大きな家というのは、そういうものなのかもしれない。
案内された部屋には、大きな窓があった。
窓の外には庭。
その向こうには町。
そして、山。
その景色を眺めている老人が一人いた。
「旦那様」
執事が頭を下げる。
老人が振り返る。
七十歳くらいだろうか。
白髪。
痩せている。
高そうな服を着ているが、本人は服に興味がなさそうだった。
「ありがとう」
執事が出ていく。
老人は俺たちを見た。
まず俺。
次に女。
それから、
「ガルガンチュアを探しているのかね」
と言った。
いきなりだった。
「……はい」
「そうか」
老人は椅子を勧めた。
俺たちは座った。
老人は向かいの椅子に座る。
「君は?」
俺が名乗る。
女も名乗った。
老人は二人の名前を聞いて、静かに頷いた。
「私はね」
老人は言った。
「ガルガンチュアに願いを叶えてもらった」
やはり。
「金持ちになりたい、と?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「それで――」
俺は部屋を見回した。
絵。
家具。
庭。
屋敷。
「金持ちになった」
「そうだね」
老人は笑った。
「見れば分かるだろう」
「……じゃあ、幸せなんですね」
言ったあとで、しまったと思った。
初対面の相手に聞くことじゃない。
でも老人は怒らなかった。
少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「いや……」
「金持ちなら幸せだと思った?」
俺は答えられなかった。
老人は笑った。
「昔の私は、そう思っていた」
「昔?」
「金があれば幸せになれると思っていたんだ」
老人は窓の外を見る。
「金があれば、寒くない」
「……」
「金があれば、腹が減らない」
「……」
「金があれば、病気になっても医者にかかれる」
老人の声は静かだった。
自慢するようなところがない。
むしろ、昔のことを思い出しているようだった。
「だから金が欲しかった」
「贅沢したかったわけじゃない?」
「贅沢?」
老人は少し考えた。
「したことはあるよ」
「じゃあ、やっぱり」
「でも最初は違った」
その言葉に、女が初めて口を開いた。
「最初は?」
老人は女を見た。
「君は、変なところを聞くね」
「そう?」
「ああ」
老人は少し笑った。
「そうだな。最初は、母親を助けたかった」
部屋が静かになった。
「お母さん?」
「ああ」
老人は窓の外を見た。
「私は貧しかったからね」
その言い方は妙にあっさりしていた。
貧しかった。
ただ、それだけ。
まるで他人の人生の話みたいだった。
「どのくらい?」
「食事が一日三回あると思っているなら、二回だ」
「……」
「二回あるなら、まだいい」
老人は笑った。
「冬に暖房がつくなら、もっといい」
俺は黙っていた。
「母親は病気だった」
「病院には?」
「行けなかった」
「どうして?」
「金がなかったから」
あまりにも簡単な答えだった。
「だから私は、金持ちになりたかった」
老人はテーブルの上に置かれた水差しへ手を伸ばした。
グラスに水を注ぐ。
飲む。
「金持ちになったら、母親を病院へ連れていこうと思っていた」
「……」
「暖かい家を買ってやろうと思っていた」
「……」
「腹いっぱい食わせてやろうと思っていた」
老人はグラスを置いた。
「それから、海を見せてやろうと思った」
俺は顔を上げた。
「海?」
「ああ」
「お母さん、海を見たことがなかったんですか?」
「なかった」
「それで?」
老人は笑った。
「間に合わなかった」
それだけだった。
あまりにも簡単に言うので、俺は何も返せなかった。
老人はしばらく黙っていた。
やがて、
「私が金持ちになったのは、母親が死んだあとだった」
と言った。
女が窓の外を見る。
俺は老人を見る。
「……ガルガンチュアに願ったんですよね」
「ああ」
「そのとき、何歳だったんです?」
「三十くらいだったかな」
「じゃあ、そのときにはもう――」
「死んでいたよ」
「……」
「それでも願った」
老人は不思議そうに俺を見る。
「金持ちになりたかったんだからね」
俺には、その気持ちが分からなかった。
分からないのに、なぜか少しだけ分かる気もした。
母親を助けたかった。
そのために金が欲しかった。
でも、母親はもういない。
それでも金が欲しかった。
願いだけが取り残されたみたいだった。
「願いは叶ったんですか?」
「ああ」
「どうやって?」
「気がついたら、金があった」
「それだけ?」
「それだけだ」
「……ガルガンチュアは?」
「会ったよ」
俺は思わず身を乗り出した。
「どこで?」
「森の中」
「どんな姿でした?」
老人は少し考えた。
「大きかった」
「大きい?」
「ああ」
「人間みたいな?」
「いや」
「じゃあ、どんな?」
「忘れた」
「忘れた?」
老人は笑った。
「顔なんて、あったかな」
俺は女を見る。
女は老人を見ていた。
「何を言われたんです?」
「何も」
「何も?」
「願いを言ったら、叶えてくれた」
「代わりに何か要求された?」
「いや」
「じゃあ、何も?」
「何も」
俺は少し黙った。
だったら。
ガルガンチュアは、ただ願いを叶えただけじゃないのか。
男は金持ちになった。
それだけなら、何も悪いことはない。
「じゃあ、どうして――」
俺は言葉を探した。
「どうして、そんな顔してるんですか」
老人の表情が止まった。
女が俺を見る。
俺も自分で驚いていた。
初対面の人間に、何を言っているんだ。
老人は怒らなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そんな顔?」
「……すみません」
「いや」
老人は笑った。
「君は面白いことを言う」
「面白い?」
「ああ」
老人は自分の顔を手で触った。
「私はどんな顔をしている?」
「それは……」
分からなかった。
悲しそうではない。
怒ってもいない。
嬉しそうでもない。
ただ、
何かがない。
そんな顔だった。
「分かりません」
正直に答える。
老人は、
「そうか」
と言った。
そして立ち上がった。
「夕食を一緒にどうかね」
「え?」
「せっかく来たんだ」
老人は扉へ向かった。
「それとも、もう帰るか?」
帰る。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
帰る場所。
会社。
家。
親。
自分の部屋。
どれも、今は考えたくなかった。
「……夕食、いただきます」
「そうか」
老人が振り返る。
「君は?」
女に聞く。
「食べる」
「そうか」
老人はまた笑った。
「それはよかった」
部屋を出る。
廊下を歩いていると、女が小さな声で言った。
「変なこと聞くね」
「お前に言われたくない」
「でも、あの人は嬉しそうだった」
「何が?」
「君が夕食を食べるって言ったとき」
俺は振り返った。
老人はもう遠くにいる。
小さな背中が廊下の奥へ消えていく。
「……そうか?」
「うん」
「分からない」
「そういうものだよ」
「何が?」
女は答えなかった。
俺たちはそのまま食堂へ向かった。
その日の夕食は、三人で食べるにはあまりにも多かった。
大きなテーブル。
何種類もの料理。
銀色の食器。
ワインまで出てきた。
俺は酒を飲む気になれず、水を頼んだ。
女は平気な顔で料理を食べていた。
老人はほとんど食べなかった。
「食べないんですか?」
俺が聞く。
「食べているよ」
「それだけ?」
「十分だ」
老人の皿には、パンが一切れだけあった。
俺は自分の皿を見る。
肉。
魚。
野菜。
スープ。
こんなにあるのに。
老人はパンを少しずつ食べている。
「昔はね」
老人が言った。
「パン一つを三人で分けたこともある」
「三人?」
「母親と、私と、弟」
「弟もいたんですか」
「いたよ」
「今は?」
老人はパンを食べる手を止めた。
「死んだ」
俺は何も言えなくなった。
老人は続けなかった。
食器の音だけが聞こえる。
カチ。
カチ。
女がスープを飲んでいる。
俺は肉を食べる。
老人はパンを食べる。
なんだか、変な食卓だった。
やがて老人が言った。
「昔は、食べることが好きだった」
俺は顔を上げた。
「今は?」
「……」
老人は自分の皿を見た。
「分からない」
「何を食べても?」
「ああ」
「美味しくない?」
「美味しいよ」
「じゃあ――」
老人は俺を見る。
「美味しいことと、嬉しいことは違うだろう?」
その言葉が、妙に残った。
食事が終わった。
俺たちは客室へ案内された。
部屋へ入る前、老人が言った。
「明日、町を案内しよう」
「いいんですか?」
「構わない」
「何か用事は?」
「ないよ」
「金持ちって暇なんですね」
言ってから後悔した。
女が隣で笑った。
老人も笑った。
「そうだね」
老人は言った。
「昔は、暇が欲しかったんだ」
それだけ言って、老人は去っていった。
俺は部屋に入った。
女も向かいの部屋へ入ろうとする。
「なあ」
「なに?」
「この人、本当にガルガンチュアに願ったんだよな」
「本人がそう言ってたね」
「じゃあ、どうして幸せそうじゃないんだ?」
女は少し考えた。
「幸せじゃないの?」
「……分からない」
「じゃあ、明日見てみれば?」
女は部屋へ入った。
「何を?」
「この人が、何を見て笑うのか」
扉が閉まる。
俺は一人になった。
窓の外を見る。
屋敷の庭は暗い。
その向こうに、町の明かりが見える。
古い音楽プレイヤーを取り出した。
祖母からもらったもの。
イヤホンを耳に入れる。
再生。
老人の声が流れる。
――遥か彼方に、ガルガンチュアというものがおりました。
俺はベッドに横になった。
目を閉じる。
――ガルガンチュアは、どんな願いでも一つだけ叶えてくれました。
その声を聞きながら、今日会った老人のことを考える。
金持ち。
何でも持っている。
なのに、何かが足りない。
その「何か」が何なのか。
まだ俺には分からない。
音声が続く。
――あるところに、一人の貧しい少年がおりました。
俺は目を開けた。
その瞬間。
声が変わった。
祖母の声ではない。
聞き覚えのある声だった。
低く、少しかすれている。
今日、何度も聞いた声。
老人の声。
――私は、金が欲しかった。
俺は起き上がった。
音楽プレイヤーを見る。
画面には、いつものタイトルが表示されている。
『遥か彼方のガルガンチュア』
それだけ。
なのに、聞こえてくるのは、あの老人の声だった。
――私は、金持ちになりたかった。
俺はイヤホンを外さなかった。
外せなかった。
――寒かったからだ。
しばらく沈黙があった。
そして、
――腹が減っていたからだ。
俺は息を呑んだ。
老人の声は続いた。
――母親が病気だった。
――弟もいた。
――家には、明日の飯がなかった。
その一つ一つを、老人は淡々と話した。
まるで誰か別の人間の人生を説明するように。
けれど、時々。
声がほんの少しだけ震えた。
――だから私は、ガルガンチュアに願った。
――金が欲しい。
――金持ちになりたい。
そして、
――ガルガンチュアは、私の願いを叶えた。
音声がそこで途切れた。
俺は画面を見つめた。
再生時間はまだ進んでいる。
なのに、音がない。
数秒。
十秒。
やがて、また老人の声が戻った。
――その日、私は初めて、腹いっぱい飯を食べた。
俺は目を閉じた。
老人の声が、暗い部屋の中で続いていく。
――美味かった。
たった一言だった。
でも、その声だけは。
今まで聞いたどの言葉よりも、嬉しそうだった。
俺は思った。
この話は、まだ終わっていない。
そしてたぶん。
明日、あの老人が話すことと、この音声の続きは同じだ。
俺は音楽プレイヤーを握りしめた。
その夜、眠るまで。
俺は一度もイヤホンを外さなかった。




