第一話 終点のひとつ手前
久しぶりでもあり、久しぶりでもなしです。
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@towachi315
電車というものは、不思議な乗り物だ。
どこへ行くのかを決めていなくても、乗ってしまえば、とりあえずどこかへ連れていってくれる。
だから、その日の俺には都合がよかった。
朝から会社へ行く気にはなれなかった。
かといって、家へ帰る気にもなれなかった。
どこかへ行きたい、というほど元気でもない。
ただ、今いる場所から少しだけ離れたかった。
それだけだった。
車内は空いていた。
平日の昼前なんて、こんなものなのだろう。
向かいの席には、買い物袋を膝に置いた老人がいる。隣には眠っている会社員。少し離れたところでは、制服姿の学生が二人、スマートフォンの画面を覗き込んで笑っていた。
俺だけが、どこにも属していないような気がした。
ポケットから古い音楽プレイヤーを取り出す。
銀色の、小さな機械だった。
祖母からもらったものだ。
もう新しいものではない。傷もあるし、ボタンも少し固い。それでも、捨てる気にはなれなかった。
イヤホンを耳に入れる。
再生。
しばらくして、懐かしい声が流れてきた。
――遥か彼方に、ガルガンチュアというものがおりました。
子供の頃から何度も聞いた話だった。
祖母が好きだった昔話。
ガルガンチュア。
それは神でも魔物でもなく、人間の願いを叶えるものだという。
金が欲しい。
美しくなりたい。
誰かに愛されたい。
強くなりたい。
どんな願いでも、一つだけ。
ただし――
老人の声が、そこで少し間を置いた。
――ガルガンチュアに願いを託す前に、自分が本当に欲しいものを考えなければなりません。
俺は目を閉じた。
そんなことを言われても困る。
俺は今、何が欲しいのだろう。
金か。
休みか。
仕事を辞める勇気か。
誰にも文句を言われずに眠れる場所か。
それとも、もっと単純なものかもしれない。
何も考えなくていい時間。
何をしても怒られない一日。
「お前のためだ」と言われない朝。
考えているうちに、電車が速度を落とした。
窓の外に、見覚えのない駅が見えてきた。
駅名を見ようとした。
そのときだった。
イヤホンから、聞き慣れない言葉が流れた。
――もし、あなたがガルガンチュアを探すのなら。
俺は目を開いた。
なんだ、これ。
こんなところ、聞いたことがない。
――終点のひとつ手前で、列車を降りなさい。
電車が停まった。
扉が開く。
俺は何となく、立ち上がった。
別に理由はなかった。
ただ、そのまま乗っている気になれなかった。
ホームへ降りる。
扉が閉まった。
電車が走り去る。
俺はしばらく、その背中を見送った。
やがて、妙なことに気がついた。
人がいない。
駅員もいない。
乗客もいない。
駅名の表示板だけが、古びた屋根の下で風に揺れている。
そして、その駅名を見ても――
俺には読めなかった。
知らない文字だった。
「……何だよ、これ」
スマートフォンを取り出す。
圏外。
ため息が出た。
そのとき、
「迷子?」
背後から声がした。
振り返る。
女がいた。
黒い髪。
年齢は、よく分からない。
若く見える気もするし、そうでもない気もする。
服装も妙だった。
古い映画の中から、そのまま出てきたような格好をしている。
手には小さな旅行鞄。
そして何より、妙に落ち着いていた。
「……あんた、ここ知ってる?」
「知ってる」
「ここ、どこ?」
「駅」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、何を聞いてるの?」
腹が立った。
でも、怒る気力もなかった。
「ガルガンチュアって知ってる?」
女の表情が、ほんの少しだけ変わった。
ほんの少しだった。
笑ったようにも見えた。
「知ってるよ」
「……本当に?」
「うん」
「どこにいる?」
「遠いところ」
「どこだよ、それ」
「遥か彼方」
俺は頭を抱えた。
疲れている。
間違いなく疲れている。
もしかすると、寝不足のせいで幻覚を見ているのかもしれない。
女は俺の横を通り過ぎ、ベンチに腰を下ろした。
「あなた、願いがあるんでしょう?」
「……ない」
「嘘」
「ないって」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」
答えられなかった。
女はそれ以上聞かなかった。
ただ、駅の時計を見た。
「次の列車、もうすぐ来るよ」
「どこ行き?」
「彼方」
「……ふざけてる?」
「まさか」
女は立ち上がった。
「乗る?」
俺は線路の向こうを見た。
何もない。
森が広がっている。
いや。
よく見ると、遠くに町があった。
知らない町。
見たことのない町。
なのに。
なぜだろう。
そこへ行けば、自分が今いる場所から少しだけ離れられる気がした。
「……乗る」
「そう」
女はそれだけ言った。
やがて、遠くから列車の音が聞こえてきた。
見慣れた電車とは少し違っていた。
けれど、完全に異なるものでもなかった。
古い。
長い。
車体の側面には、見たことのない紋章が描かれている。
列車がホームへ滑り込んでくる。
女が先に乗る。
俺も続いた。
座席に腰を下ろす。
窓の外で、知らない駅がゆっくり遠ざかっていく。
そして、
ガタン。
車輪が動いた。
少し遅れて、
ゴトン。
列車は、俺の知らない場所へ走り始めた。




