第十話 最初の一枚
遥か彼方の巨神は一旦ここまでとさせていただきます。
続きはカクヨムで掲載させていただきますので引き続きよろしくお願いします。
老人は。
地下室を出る前に。
一枚の写真を持っていった。
母親の写真だった。
古びた。
色の褪せた写真。
そこに写る三人のうち。
今も生きているのは。
一人だけ。
老人は。
それを胸ポケットへしまった。
「行こう」
「どこへ?」
俺が聞く。
「書斎」
「まだ何かあるんですか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「私は。
自分のことをあまり知らないんだ」
「……」
それは。
冗談には聞こえなかった。
*
書斎は。
二階の一番奥にあった。
壁一面。
本棚。
机。
古いタイプライター。
大きな窓。
そして。
机の上には。
一冊の黒い手帳が置かれていた。
「それは?」
「日記」
「おじいさんの日記?」
「そう」
「読んでいいんですか?」
「そのために持ってきた」
老人は。
椅子に座る。
手帳を開いた。
ページをめくる。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
文字は。
若い頃のものらしい。
少し乱れている。
老人が。
指を止めた。
「ここ」
「……」
俺と女が。
覗き込む。
そこには。
短い文章があった。
――今日、母さんにパンを買った。
それだけ。
「これだけ?」
「ああ」
老人は。
次のページをめくる。
――母さんが笑った。
また。
それだけ。
次。
――弟が靴を欲しがった。
次。
――買えなかった。
次。
――母さんが謝った。
次。
――謝らなくていいと言った。
次。
――でも、母さんは謝った。
次。
――また謝った。
次。
――いつか絶対に金持ちになる。
俺は。
そこで目を止めた。
「……」
老人も。
その文章を見ている。
「ここから」
老人が言う。
「私は。
毎日同じことを書いていた」
ページをめくる。
――金持ちになる。
――金持ちになる。
――金持ちになる。
――金持ちになれば。
――金持ちになれば。
――金持ちになれば。
同じ言葉。
何度も。
何度も。
何度も。
ページいっぱいに。
書かれている。
俺は。
少し気分が悪くなった。
「……すごいな」
思わず。
そう言った。
「そうだね」
「これ。
どれくらい?」
「三年」
「三年?」
「ああ」
老人が。
ページを閉じる。
「三年間。
私は。
毎日これを書いた」
「どうして?」
「忘れないために」
「何を?」
「願いを」
俺は。
音楽プレイヤーを見る。
何も起こらない。
「それで」
女が聞いた。
「ガルガンチュアに会ったのは?」
老人の指が。
止まる。
「……」
「いつ?」
「二十一歳」
「どこで?」
「駅」
「駅?」
「そう」
老人は。
窓の外を見た。
「夜の駅だった」
*
その夜。
俺たちは。
老人の記憶を聞いた。
老人が。
二十一歳だった頃。
まだ。
金など一銭もなかった頃。
母親は。
病気だった。
弟は。
まだ小さかった。
家には。
食べるものがなかった。
老人は。
仕事を探した。
けれど。
どこも。
雇ってくれなかった。
「それで」
老人は言った。
「駅に行った」
「どうして?」
「どこかへ行こうと思った」
「どこかって?」
「どこでもよかった」
「……」
「母さんも。
弟も。
全部置いて。
一人で逃げようと思った」
俺は。
黙った。
「最低だろう?」
「……」
「私は。
家族を捨てようとした」
「でも」
俺は言った。
「行かなかったんですよね」
「ああ」
「どうして?」
「分からない」
「……」
「今でも分からない」
老人は。
苦笑した。
「駅に着いたら。
列車が来た」
ガタン。
ゴトン。
老人の声と。
遠くの列車の音が。
重なった。
「私は。
その列車に乗ろうとした」
「でも」
「乗れなかった」
「どうして?」
「切符を買う金がなかった」
「……」
「だから。
ホームに座っていた」
老人は。
少しだけ笑った。
「馬鹿みたいだろう?」
「……」
「逃げたいのに。
逃げる金もない」
「それで?」
「そのとき」
老人は。
言った。
「隣に。
誰かが座った」
女が。
少しだけ身を乗り出した。
「誰?」
「知らない人」
「男?」
「男だった」
「どんな?」
「大きかった」
「大きい?」
「ああ」
老人は。
少し考える。
「人間にしては。
妙に大きかった」
「……」
俺は。
背筋が寒くなった。
「髪は?」
「覚えてない」
「顔は?」
「覚えてない」
「服は?」
「……」
老人が。
眉を寄せる。
「黒かった気がする」
「何か言った?」
「うん」
「何て?」
老人が。
俺を見る。
「こう言った」
少し。
間を置いて。
「――何が欲しい?」
俺は。
息を止めた。
音楽プレイヤーが。
ポケットの中で。
ほんの少し。
熱くなった気がした。
「それで?」
女が聞く。
「私は」
老人は。
遠い昔を見るように。
目を細めた。
「金が欲しいと言った」
「……」
「世界で一番。
金持ちになりたいと」
「ガルガンチュアは?」
「笑った」
「笑った?」
「うん」
「何て?」
老人は。
思い出そうとした。
しばらく。
何も言わない。
「……」
「おじいさん?」
「いや」
老人が。
頭を押さえる。
「そこだけ。
思い出せない」
「……」
「顔も。
声も。
言葉も」
老人は。
苦しそうに目を閉じた。
「でも。
一つだけ」
「何?」
「覚えている」
老人は。
手帳を指差した。
「願いを叶えるなら。
何かを食べさせろと言われた」
「……」
俺は。
女を見る。
「何かを?」
「ああ」
「何を?」
「分からない」
「……」
「だから」
老人は。
日記を開いた。
「ここに書いた」
ページ。
古い文字。
そこには。
こう書かれていた。
――ガルガンチュアに会った。
――願いを叶えてもらった。
――代わりに、一つ食べさせた。
――これで私は、もう貧しくない。
俺は。
その文章を。
何度も読み返した。
「……」
おかしい。
何か。
おかしい。
「これ」
俺は。
指差す。
「はい」
「『一つ食べさせた』って」
「うん」
「何を食べさせたんです?」
「分からない」
「でも。
書いたんですよね?」
「そう」
「じゃあ。
覚えてるはずじゃ」
老人は。
首を振った。
「書いたことだけ。
覚えている」
「……」
「何を食べさせたのか。
そこだけ。
思い出せない」
女が。
手帳を取った。
ページをめくる。
「……」
そして。
あるページで止まった。
「これ」
「何?」
俺も覗き込む。
そこには。
たった一行。
――最初の一枚。
「……?」
俺は。
意味が分からなかった。
「何ですか。
これ」
老人も。
覗き込む。
「……」
そして。
顔色が変わった。
「知らない」
「え?」
「こんなこと。
書いた覚えがない」
「でも。
おじいさんの字ですよね」
「そうだ」
「じゃあ」
「知らない」
老人は。
ページから目を離せない。
「こんな言葉。
私は使わない」
「……」
「一枚って。
何だ?」
俺は。
考えた。
最初の一枚。
何かを。
一枚。
食べた?
いや。
食べるという言葉とは。
関係ないのかもしれない。
そのとき。
女が。
ぽつりと言った。
「写真」
「え?」
「一枚」
女は。
地下室から持ってきた写真を見る。
「写真は。
一枚?」
「……」
俺は。
写真を見る。
母親。
老人。
弟。
三人。
「でも」
俺は言った。
「これが最初の一枚って。
どういう……」
その瞬間。
音楽プレイヤーが。
鳴った。
今度は。
はっきりと。
俺たち全員に聞こえた。
――カチ。
老人が。
立ち上がる。
「……」
音楽プレイヤーの画面が。
光る。
昨日とは違う。
そこに。
文字があった。
再生:1 / 13
俺は。
息を呑んだ。
「十三?」
女が。
画面を見る。
「何の数字?」
「分からない」
音楽プレイヤーから。
声が流れる。
昨日の女。
若い声。
けれど。
今度は。
泣いていない。
『私は』
老人が。
凍りついた。
『金持ちになりたかった』
同じ言葉。
昨日と。
同じ。
けれど。
今度は。
続きがあった。
『でも』
老人が。
一歩。
後ろへ下がる。
『本当に欲しかったものは』
音が。
一瞬。
遠くなる。
『金じゃなかった』
「……」
俺は。
音楽プレイヤーを握る。
『私が欲しかったのは』
老人が。
小さく呟いた。
「やめろ」
声は。
止まらない。
『母さんの笑顔だった』
老人が。
動きを止める。
『弟が笑っていることだった』
「……」
『そして』
声が。
少しだけ。
震えた。
『私自身が』
沈黙。
『自分を』
老人の目に。
涙が浮かんだ。
『貧しい人間だと』
そこで。
音が途切れた。
「……」
誰も。
何も言わなかった。
しばらくして。
老人が。
椅子へ座った。
「違う」
「……」
「そんなこと」
老人は。
頭を振る。
「私は。
そんなことを。
願っていない」
「でも」
「違う」
「おじいさん」
「違うんだ!」
初めて。
老人が。
怒鳴った。
その声に。
俺も。
女も。
黙った。
老人は。
荒い息を吐いている。
「私は。
金が欲しかった」
「……」
「金があれば。
母さんを助けられた」
「……」
「弟を学校へ行かせられた」
「……」
「誰にも。
頭を下げずに済んだ」
「……」
「だから。
私は。
金が欲しかった」
老人の声が。
震える。
「それだけだ」
女が。
静かに言った。
「じゃあ」
老人を見る。
「どうして。
そんな顔をしてるの?」
「……」
老人が。
止まる。
「今」
女が続ける。
「お金の話をしてるのに」
「……」
「どうして。
そんなに悲しそうなの?」
老人は。
答えなかった。
答えられなかった。
俺も。
何も言えない。
ただ。
手帳の一行だけが。
頭に残っている。
――最初の一枚。
そして。
音楽プレイヤーに表示された。
1 / 13
俺は。
ふと。
嫌な考えに辿り着いた。
「……まさか」
「何?」
女が見る。
「十三話」
「……」
「この物語」
俺は。
音楽プレイヤーを見る。
「十三個。
あるんじゃないか」
「何が?」
「願い」
女が。
黙った。
老人も。
黙った。
俺は。
続けた。
「金持ちになる。
その願いを叶える代わりに。
何か一つを食べられた」
「……」
「それが。
十三回あるんじゃないか」
女は。
しばらく。
俺を見ていた。
そして。
小さく笑った。
「惜しい」
「……何が?」
「十三個なのは。
願いじゃない」
「じゃあ」
女が。
音楽プレイヤーを見る。
「物語」
「……」
「ガルガンチュアの物語が。
十三個ある」
俺は。
意味が分からなかった。
「それが何で」
「分からない?」
「何が?」
女は。
音楽プレイヤーを指差す。
「これ。
今まで。
何人の声を聞いた?」
「……」
俺は。
思い出す。
祖母。
そして。
老人。
昨日の女。
いや。
違う。
老人の話の中に。
声があった。
ガルガンチュアの物語。
それは。
誰かが語ったもの。
「この声」
俺は。
呟いた。
「誰なんだ?」
女が。
答えた。
「知らない」
「またそれ?」
「でも」
女は。
音楽プレイヤーを見る。
「この人。
たぶん」
少しだけ。
笑った。
「この物語の主人公だよ」
俺は。
音楽プレイヤーを見た。
古い機械。
傷だらけの筐体。
祖母からもらった。
ただの音楽プレイヤー。
そう思っていた。
昨日までは。
そして。
画面に。
新しい文字が浮かぶ。
次の再生まで――
24:00:00
カウントダウン。
一秒。
また一秒。
減っていく。
俺は。
その数字を見つめながら思った。
この物語は。
十三個ある。
そして。
俺たちはまだ。
一つ目の途中にいる。
ガタン。
ゴトン。
遠くで。
列車が走っている。
その音が。
何故か。
あの夜の駅を思わせた。
老人が。
窓の外を見る。
そして。
誰にも聞こえないくらい小さな声で。
呟いた。
「……母さん」
今度はその声に
悲しさはなかった。
代わりに
何かを思い出そうとする人間の
ほんの少しの
期待があった。
ご拝読ありがとうございました♪




