EP 8
獣の誇りと、不殺の番犬(そして飯テロ)
「グゥゥゥゥゥ……ッ!!」
ポポロ特区の広場を包囲する五千の獣人軍。その陣形のあちこちから、腹の虫が鳴る音が、地響きのように鳴り響いていた。
獣人たちの嗅覚は、人間の数万倍から数十万倍とも言われている。
極限の飢餓状態にある彼らの鼻腔に、アツアツの和牛ハンバーグの肉汁の匂いと、出汁が完璧に効いた豚汁の暴力的な香りが、ダイレクトに、かつ無慈悲に叩き込まれていた。
「……た、耐えろ! これは人間の罠だ! 食糧庫を焼いて出陣した我らの誇りを、こんな泥水のような飯で汚すわけには……!」
ハガルが、涎を垂らしそうになるのを必死に堪えながら、部下たちを怒鳴りつける。
だが、その声はひどく掠れていた。
「泥水だと? ふざけんな」
コンテナの山の上に座り込んだ力武義正が、ハンバーグを箸で割り、溢れ出す肉汁をカメラ(上空のサイラス)に見せつけるように掲げた。
「これはな、ウチの国が誇る最高の食品メーカーが、ミリ単位で旨味成分を計算し尽くして作った『究極の兵站』だ。……お前らの誇りがどれだけ高かろうが、生物である以上、タンパク質とアミノ酸の誘惑には絶対に勝てねえ」
力武は、ニヤリと悪魔のような商社マンの笑みを浮かべた。
「さあ、食え! 武器を捨てた奴から順番に、この温かいメシを無料で配給してやる! 資本主義が誇る『究極の価格破壊』の味を堪能しな!」
上空で旋回していたサイラスが、舌打ちをした。
「……えげつない。物理的な兵糧攻めに対し、人間の根源的欲求(食欲)を刺激して軍の規律を内部から破壊する気か! ……全軍、あのコンテナを破壊せよ! 悪魔の食物を我らの陣地に持ち込ませるな!!」
サイラスの冷酷な指令が下る。
ハガルは葛藤の末、血の滲むような声で「突撃!」と叫んだ。
理性を失いかけた数百の獣人兵たちが、涎を撒き散らしながらコンテナへ向けて殺到する。
だが、その「飯の山」の前に、黒いタクティカルベスト姿の男が立ち塞がった。
「悪いな。ここから先は『食堂の厨房』だ。土足で上がり込む奴は、俺が叩き出す」
坂上信長だ。
彼は、刃こぼれした小太刀とサバイバルナイフを逆手に構え、突進してくる獣人たちの群れに単身で飛び込んだ。
「邪魔だ人間!!」
熊の獣人が、丸太のような腕で大斧を振り下ろす。
「大振りすぎる!」
信長は最小限の動きで斧を躱すと、その手首の関節をナイフの柄で正確に打ち据え、武器を落とさせる。さらに、バランスを崩した巨体の足首を払い、地面に優しく(しかし確実に)転がした。
「次!」
信長は、殺到する槍や剣の軌道を『北辰一刀流』の柔らかな足捌きで全て「いなし」、次々と獣人兵の急所(鳩尾や顎)を打撃のみで無力化していく。
一切の血を流させない。誰も殺さない。
それは、自らの命を危険に晒す、戦場においては最も非効率で狂った戦い方だった。
「なぜだ……! なぜ斬らん!!」
ハガルが、次々と気絶させられていく部下たちを見て叫んだ。
「お前ら人間は、我々獣人を野蛮なケダモノと見下しているはずだ! ならばなぜ、自分の命を危険に晒してまで、我々を殺さずに止める!!」
信長は、襲い来る豹の兵士を投げ飛ばし、息を荒げながらハガルを睨み返した。
「……俺の親父は、兵士は地獄に浸からなきゃ国民を守れないって言った。……俺も、ずっとそう思ってた」
信長は、背後で力武の横に座り、震える手でハンバーグ弁当を抱えているキャルルを一瞥した。
「でもな! この村の大家は、敵であるお前らの怪我を治すために、自分の血を吐いたんだ!! 霞が関にいる俺のダチ(輝夜)は、クビを懸けてお前らを助けるためにメシを送った!!」
信長の咆哮が、戦場に響き渡る。
「女たちが、必死に『地獄』を終わらせようとしてるんだ!! 男の俺が……兵士である俺が、これ以上、誰かに地獄を見せてたまるか!!」
信長は、ナイフを地面に突き刺し、丸腰になって両手を広げた。
「俺は誰も殺さねえ! ……だからお前らも、もう意地張るのはやめて、メシを食え!!」
その真っ直ぐな言葉と、一切の殺気を持たない信長の姿に、獣人たちの足がピタリと止まった。
「……ハッ、ハッ……」
最前列にいた若い獣人兵——先ほど、キャルルの『月光薬』によって砕けた肩を治してもらった兵士が、ガタガタと震えながら剣を取り落とした。
ガラン、と。
広場に、武器が落ちる乾いた音が響く。
「……隊長。俺、もう無理っす……」
若い兵士は、泣き出しそうな顔でハガルを見た。
「あのウサギの姫様は、俺の肩を治してくれた。あの人間の戦士は、俺たちを殺さないように必死に手加減してくれた。……なのに俺たちだけが、誇りだの掟だの言って、この人たちを殺そうとするなんて……そんなの、絶対に間違ってます……!!」
兵士は膝から崩れ落ち、力武が足元に滑らせた『豚汁』の入った紙コップを、震える両手で掬い上げた。
そして、一口啜った瞬間。
「……うぅっ……うぁぁぁぁぁん!! あったかい……! あったかくて、美味えよぉ……!!」
大粒の涙を流しながら、豚汁とハンバーグを貪り食い始めた。
その姿を見た他の兵士たちも、次々と武器を投げ捨て、炊き出しの列へと雪崩れ込んでいく。
「やめろ……! 誇りを忘れるな……ッ!」
ハガルが声を振り絞るが、もはや誰の耳にも届かない。
武力による殲滅でもなく、経済による支配でもない。
「温かいメシ」と「一切の血を流さない覚悟」が、7000万を誇る武闘派国家の精鋭部隊の心を、完全に武装解除させたのだ。
「……俺たちの算盤(負け)だ、内務官殿」
コンテナの上で、力武がホッと安堵の息を吐きながら、上空のサイラスを見上げた。
「『無償の愛』なんていう非合理的な変数が混ざっちまうと、どんな完璧な軍隊も、どんな完璧な経済封鎖も、こうやって崩れちまうんだよ。……これが、俺たちの『月』の力だ」
サイラスは、悔しげに嘴を噛み合わせ、タブレットを叩き割った。
「……人間の軟弱な感情が、我らの血の掟を凌駕したというのか……!!」
獣人軍は完全に戦意を喪失し、ポポロ特区の広場は、敵味方が入り乱れて和牛ハンバーグを貪り食う、奇妙で温かい「巨大な食堂」へと変貌していた。
——だが。
この平穏が、永遠に続くはずがなかった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!!
突如として、ポポロ特区の周囲の空気が、異常な密度で圧縮され始めた。
タレットの銃撃音よりも、キャルルの雷鳴よりも重く、深く、魂の根源を揺さぶるような『絶対的な恐怖の波動』。
「……な、なんだこのプレッシャーは……息が……!」
信長が、見えない重圧に耐えかねて片膝をつく。
食事をしていた獣人兵たちが、一斉に顔面を蒼白にし、地面に額を擦り付けて平伏し始めた。
ハガルも、サイラスも、震えながらその方向へ向かって深々と頭を下げる。
「……まさか」
キャルルが、ウサギの耳を恐怖にペタンと伏せ、震える声で呟いた。
地響きと共に、特区の入り口の土煙が晴れる。
そこに立っていたのは、ただの一人の男だった。
燃え盛る太陽のような黄金の鬣。
見上げるほどの巨躯と、全身から立ち昇る、周囲の空間そのものを支配するような「王の覇気」。
「——随分と楽しそうな宴を開いているではないか。人間の子供たちよ」
レオンハート獣人王国、絶対君主。
【獅子王】アーサー。
国家の誇りを守るため、自国の食糧庫すら笑って焼き払う狂気の覇王が、ついにポポロ特区へその足を踏み入れた。




