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EP 3

月の光と、狂い始めた歯車

「……ガリッ!!」

ポポロ特区の司令室に、冷徹なまでの破壊音が響いた。

力武義正が奥歯で噛み砕いたのは、単なる飴玉ではない。それは、彼がこれまで信奉してきた「合理性」という名の殻だった。

「力武……? お前、その顔……」

胸ぐらを掴んでいた信長の手が、思わず緩む。

そこには、さっきまでの飄々としたフィクサーの姿はなかった。

数千億のディールを冷酷に沈めてきた元商社エースの、剥き出しの「眼光」がそこにあった。

「信長、手を離せ。……若林幹事長の算盤は確かに100点だ。だが、あの大家キャルルの流している血は、俺の帳簿じゃ『プライスレス』なんだよ。損失ロスが出てからじゃ遅いんだ」

力武は、返り血を浴びたように真っ赤な警告灯が点滅するモニターに向き直ると、超高速でキーボードを叩き始めた。

「何をする気だ」

「若林のクソ親父が『太陽』として全てを焼き尽くして国を救うってんなら、俺は『月』の味方をして、夜の闇から奴の喉元をかっ切ってやる。……ポポロ・ネットの管理者権限、一時的に奪取ハックするぞ」

力武の指が、残像を残して動く。

彼は、早乙女蘭が構築した完璧な独占ネットワークの「裏口」を、商社時代のコネクションと独自のアルゴリズムでこじ開け始めた。

「特区内の全自動防衛タレット、およびドローン群の制御系統を偽装ステルスモードに切り替える。……公式な記録上、自衛隊は『後退中』だ。だが、現場の自律AIには『キャルルの周囲10メートルを不可侵領域として死守せよ』と命令を書き換える」

「……軍法会議どころか、国家反逆罪だぞ、それは」

信長が息を呑む。

だが、その言葉とは裏腹に、彼の目には強い光が宿っていた。

「上等だ。親父には『地獄を歩け』と言われたが……輝夜さんが言ってた『みんなが夜に笑って酒を飲める世界』に地獄は要らねえ。……俺も行く。特区の指揮権を一時的に放棄し、一人の『不服従の兵士』として大家を守る」

信長は、黒いタクティカルベストを締め直すと、サバイバルナイフを抜き、司令室を飛び出した。

同時刻。東京・霞が関、内閣府の一室。

「……そうですか。幹事長は、彼女を『火種』にするおつもりですね」

日野輝夜は、窓の外に広がる無機質な官庁街の夜景を見つめながら、静かに受話器を置いた。

彼女の瞳には、かつて故郷の山村が消えていった時と同じ、深い哀しみと、それを超えた「決意」が宿っていた。

「若林先生。貴方の『太陽』はあまりにも眩しすぎて、足元で震えている小さな命を見ようとしない。……でも、光が強ければ強いほど、影もまた深くなることを忘れないでください」

輝夜は、デスクに積まれた「特区向け追加軍事予算」と「医療・食料支援物資」の決裁書類の束を手に取った。

それは、若林が獣人王国を疲弊させるための「武器」として送ろうとしているものだ。

彼女は、その書類の一枚一枚を、官僚としての完璧な知識でチェックし始めた。

だが、そのペン先は、承認の判を捺すためではなく、「致命的な事務的ミス」を仕込むために動いていた。

「……この項目の参照条文を、わざと旧法のものに書き換えます。そして、こちらの予算執行の決裁ルートを、わざと遠回りの部署へ回す。……これで、若林先生の『非情な計画』に必要な補給は、法的に最短でも一週間の遅延ディレイが発生する」

霞が関という巨大な迷宮。そのルールを誰よりも知り尽くしている彼女だからこそできる、音のない反逆。

それは、前線で剣を振るうのと同じくらい、過酷で、孤独な戦いだった。

「私は太陽にはなれない。でも、暗闇で迷う彼らの足元を照らす『月』でありたい……」

彼女が仕掛けた「ハンコの遅延」が、後にポポロ特区の数千の命を救うことになるとは、この時の若林はまだ気づいていなかった。

再び、ポポロ特区。血の匂いが漂う広場。

「キャ、キャルル姫……! お、お止めください! なぜ、我ら敵の兵士にまでその力を……!」

放たれた矢を背中に受けたまま、キャルルは膝をつき、倒れていた獣人の兵士——自分を撃った者と同じ隊の若者に、その小さな掌を当てていた。

「ハァッ……ハァッ……。いいの……。だって、アンタのその傷……そのままじゃ、腕が動かなくなっちゃうでしょ……?」

キャルルの体から、淡く、それでいて温かい月の光のような闘気が溢れ出す。

彼女が血を吐くたびに、獣人兵の砕けた肩の骨が、魔法のような速度で繋がっていく。

「大家はね……店子たなこが怪我してたら、放っておけないのよ。……アンタも、ポポロ村に来たら……美味しい人参、食べさせてあげるから……っ」

「……っ!!」

ハガル率いる五千の獣人兵たちは、その光景に戦慄し、武器を構えたまま凍りついた。

彼らが信奉する『血の掟』では、弱者は切り捨てられ、敗者は屈服するのが当然だった。

だが、目の前の少女は、自分たちを「敵」としてではなく、単なる「怪我人」として、命を削って救っている。

「……何をしている! 構わん、姫を拘束せよ!」

ハガルの怒声が響く。だが、最前線の兵士たちの足は、見たこともない「無償の愛」の前に、一歩も動かなかった。

その時だった。

「——そこまでだ、ケダモノども!!」

爆音と共に、広場の屋上から一人の男が飛び降りた。

坂上信長だ。

彼は銃を構えず、北辰一刀流の正眼の構えで、ハガルとキャルルの間に割って入った。

「自衛隊(日本)は後退したはずだ! 貴様、死にたいのか!」

ハガルの長剣が信長の喉元を指す。

「ああ、国は逃げたよ。……だがな、俺はこの村の大家に、まだ『カレーの作り方』を教わってねえんだ。……ここからは、命令じゃない。俺個人の『意地』だ」

信長の後方、特区の各所に隠されていた全自動機銃タレットが一斉に起動し、獣人たちの頭上の空を威嚇射撃で切り裂いた。

力武が裏で書き換えた、「私的な防衛システム」が牙を剥いたのだ。

「……ほう。日本の番犬の中にも、噛み付く勇気を持つ者がいたか」

ハガルが獰猛な笑みを浮かべ、剣を振りかざした。

太陽の覇道(若林)を裏切り、月の理想(輝夜・キャルル)に賭けた、はみ出し者たちの反逆。

誇りと、算盤と、理想が激突する、ポポロ特区最大の夜が今、幕を開ける。

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