EP 2
永田町の妖怪が下した「太陽の決断」
ダダダダダダダダンッ!!
ポポロ特区の広場に、耳を劈くような乾いた銃声が響き渡った。
ハガルの号令と共に突撃しようとした五千の獣人兵の足元——そのわずか数センチ手前の地面を、上空の無人機から発射された威嚇の機銃掃射が、一直線に抉り取ったのだ。
「……止まれ」
ハガルが短く命じると、猛り狂っていた獣人たちはピタリと動きを止めた。彼らの目は上空の『見えない鉄の鳥』を睨みつけ、喉の奥で獰猛な唸り声を上げている。
「警告する。これ以上の前進は特区への武力侵攻とみなし、防衛行動(殲滅)に移行する」
スピーカーから、無機質な自衛隊の警告音声が流れる。
ハガルは長剣を構えたまま、冷たく言い放った。
「我々の目的は王族の奪還のみ。そちらが大人しく姫を引き渡せば、血は流さん。……返答の猶予は、日が中天に昇るまで(あと数十分)だ」
一触即発の睨み合い。
特区の防衛司令室では、信長がインカムを握りしめ、東京からの「交戦許可(ROE)」を今か今かと待ちわびていた。
同時刻。地球、東京・総理官邸。
分厚い防音扉に閉ざされた極秘の地下会議室は、紫煙と、重苦しい沈黙に包まれていた。
「……相手は五千の精鋭。一切の死を恐れず、経済の揺さぶりも通じない『誇り』の獣どもですか。厄介なことになりましたね」
会議室の隅で、出雲艦隊の坂上提督がブラックコーヒーを啜りながら呟いた。
円卓の中央に座っているのは、日本政府の実質的トップ——若林幸隆幹事長。
そして彼の斜め後ろには、内閣府の若き政策ブレーン、日野輝夜が、手元のタブレットに視線を落としながら静かに控えていた。
「幹事長。特区の防衛部隊(信長)から、ROEの確認が来ています。大家であるキャルル村長を保護し、敵対勢力を排除しますか?」
防衛省の官僚が焦った様子で尋ねる。
だが、若林は灰皿に『ピース』を押し付け、ゆっくりと首を横に振った。
「排除? 冗談じゃろう。たかが異世界のウサギ一匹を守るために、我が国の自衛隊員に血を流させろと言うんか?」
「え……? しかし、彼女はポポロ特区の『大家』であり、我々の重要なビジネスパートナーです!」
「ビジネスパートナーじゃからこそ、『損切り』が必要なんじゃよ」
若林のその言葉に、部屋の空気が一気に氷点下まで冷え込んだ。
輝夜が、ハッと顔を上げて若林の背中を見つめる。
「いいか、お前ら。よう考えろ」
若林は立ち上がり、巨大なモニターに映る「レオンハート獣人王国」の広大な地図を指差した。
「相手は人口7000万を抱え、死を恐れん武闘派国家じゃ。真正面からやり合えば、勝てたとしてもウチの弾薬と税金がいくら飛ぶか分からん。……孫子も言うとるじゃろうが。百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして勝つのが最上じゃと」
「……まさか、キャルル村長を彼らに『引き渡す』と?」
輝夜が、静かな、しかし確かな怒りを込めた声で問いかけた。
若林は振り返り、底知れぬ老狸の、いや——「国を背負う怪物」の目をした。
「ただ引き渡すのではない。……『火種』としてくれてやるんじゃ」
若林は、新たなタバコに火をつけながら、極めて冷酷な算盤を弾き始めた。
「あのウサギの娘は、次期近衛騎士隊長の座を巡る『王族の権力闘争』から逃げてきたんじゃろう? ならば、娘が王国に戻れば、当然、彼女を担ぎ上げようとする派閥と、排除しようとする派閥で『内乱』が起きる」
「……ッ!」
その恐るべき発想に、官僚たちが息を呑む。
「獣どもが『誇り』とやらで勝手に殺し合い、国力が疲弊しきったところへ、我が日本が『平和維持軍』として介入する。……両陣営に食料と武器を高値で売りつけ、担保として王国の『魔石鉱山』を丸ごといただく」
これが、永田町の妖怪が導き出した、最も血が流れず、最も利益を生む「完璧な国家戦略」だった。
「……幹事長。それはあまりにも非人道的です」
輝夜が、真っ直ぐに若林を見据えて口を開いた。
「彼女は、自分の血を吐いてでも他者を癒すような、心優しい少女です。彼女を権力闘争の生贄にするなど……。私たちは、そんな他国の不幸を貪るような真似をしてまで、この国を豊かにしたいのですか」
「当たり前じゃ」
若林は、輝夜の青臭い理想を、圧倒的な「覇道」の論理で一刀両断した。
「輝夜。お前は長野の山奥で、村が消えていくのを見たんじゃろう。……今、この日本全体が『消えゆく村』なんじゃよ。少子高齢化、資源の枯渇、沈みゆく経済。このままでは、1億2千万の国民が飢えて死ぬ」
若林が放つ気迫は、私利私欲など微塵もない、純粋で狂気的な「愛国心」そのものだった。
「ワシは、日本国民の腹を膨らませるためなら、異世界の連中がどれだけ地獄を見ようと知ったことではない。……暗闇を優しく照らす『月』の光じゃあ、この冷え切った国は暖められんのじゃ。すべてを焼き尽くし、日本だけを照らす『太陽』にならねばならん!」
若林は、卓上のマイクのスイッチを乱暴に叩き入れた。
『——特区司令室。ワシじゃ。作戦の変更を伝える』
マイク越しに、信長と力武に直接指令が飛ぶ。
『ポポロ特区の防衛線を全面解除せよ。……自衛隊は一切の戦闘を禁ずる。そのウサギの娘を、獣人どもにくれてやれ』
『そのウサギの娘を、獣人どもにくれてやれ』
ポポロ特区の司令室に響いたその通信に、信長は耳を疑った。
「なっ……親父!? いや、幹事長! 一体何を言ってるんだ! 彼女は俺たちの……!」
『これは決定事項じゃ。逆らえば軍法会議ものだぞ、信長。……特区の資産だけ守って、あとは静観しろ』
通信が一方的に切られる。
信長は「ふざけるなッ!」と拳でコンソールの壁を殴りつけた。
「……落ち着け、信長」
傍らで、ずっと沈黙していた力武義正が、ゆっくりと口を開いた。
彼の脳内では、若林の意図した「最悪のシナリオ(内乱誘発と利益の独占)」が、すでに完璧な計算式として組み上がっていた。
「……日本の損害ゼロ。得られる資源の期待値は天文学的数字。……なるほど、これが『国家の算盤』か。道徳を完全に切り捨てた、極めて合理的で美しい解答だ」
力武の目は、冷徹な商社マンとしての光を宿していた。
彼の哲学——資本の論理に従えば、ここでキャルルを見捨てるのが「100点満点」の正解なのだ。
「力武! お前、まさか幹事長に従う気か! あの大家を見殺しにするって言うのか!!」
信長が胸ぐらを掴みかかるが、力武は無表情のまま答えなかった。
だが、彼らの視線の先。
モニターに映る広場では、信じられない光景が繰り広げられていた。
自衛隊が後退し、防衛線が解かれたと見るや、ハガルの部下の一人が、功を焦ってキャルルへ向けてボーガンを放ったのだ。
「危ないっ!!」
キャルルは、自分のすぐ後ろで逃げ遅れていた「ポポロ村の子供」を庇い、その背中に深々と矢を受けてしまった。
鮮血が舞う。
だが、キャルルは痛みに顔を歪めながらも、自分の傷など一切気にせず、恐怖で泣き叫ぶ子供の頭を撫でていた。
『大丈夫。……私が、みんないい子にしてあげるからね』
彼女は、口から血をこぼしながら、懐から取り出した『陽薬草』を握りしめ、自身の命の力を注ぎ込み始めた。
それは、自らの寿命を削って他者を救う、月兎族の究極の自己犠牲。
信長が信じる『軍の論理』でも、力武が信奉する『資本の論理』でも、絶対に説明がつかない、狂おしいほどの「無償の愛」。
「…………」
モニターを睨みつけていた力武の口の中で。
ずっと転がしていた硬いハードキャンディが、奥歯で挟まれた。
——ガリッ!!
鋭く、硬質な音が、司令室に響いた。
「……信長」
力武義正の声は、これまでの飄々としたものではなかった。
腹の底からドス黒い怒りと、完璧な計算式を組み上げた『本物のフィクサー』の冷気を漂わせていた。
「あのタヌキ親父の算盤は、確かに国家としては完璧だ。……だが、俺の『個人的な美学』には反する」
力武は、ノートパソコンのキーボードを超高速で叩き始めた。
「そんな非効率で美しい自己犠牲(無駄)を、政治の道具にして使い潰すなんて……俺の算盤が許さねえ。……日本の国益ごと、俺がこの手でひっくり返してやる」




