EP 11
神曲の余韻と、最狂の不可侵条約
福岡市内の超高級ホテル、最上階のプレジデンシャル・スイート。
眼下に広がる美しい博多の夜景すら、今の彼女にとってはただの「背景」に過ぎなかった。
「……あぁ、尊い。ライブの終盤、月人きゅんが客席に投げたこの『銀テープ』。私の重力魔法で空中の軌道を捻じ曲げて、なんとか三本確保できたわ……。家宝にするから、帰ったら防腐処理と純金コーティングを施しなさい、ルーベンス」
ベッドの上に正座した魔王ラスティアは、戦利品である無地の銀テープを、まるで世界樹の葉でも扱うかのようにピンセットで慎重にアクリルケースに収めていた。
「(……あのドームの特等席で、たかがビニールのテープを獲るためだけに高位魔法を使っただと……?)」
壁際で控える軍師ルーベンスは、主君のあまりのスケールの無駄遣いに眩暈を覚えながらも、ただ無言で頭を下げた。
彼の胃痛は、今はすっかり嘘のように消え去っている。
無事に「祭典」が終了し、魔王が完全に満たされた状態(賢者モード)に入っているからだ。
コンコン、と。
控えめなノックの音と共に、豪奢なオーク材の扉が開いた。
「——失礼するよ。魔王様におかれましては、本日の祭典、大層ご満足いただけたようで何よりじゃ」
入ってきたのは、若林幹事長と坂上提督だった。
若林の背後には、SPとして信長がジュラルミンケースを持って控えている。
「ええ、日本のトップのオジサン。貴方たちの国の『エンターテインメント』という概念は、魔法よりも奇跡的ね。……それで? 用件は何かしら。私、これから月人きゅんのファンクラブ限定生配信を見なきゃいけないんだけど」
ラスティアがスマホを片手に退屈そうに視線を向ける。
若林はニヤリと老狸の笑みを深め、信長から受け取った分厚い書類の束を、大理石のテーブルの上にドンと置いた。
「長居はせんよ。……単刀直入に言おう。我が大日本帝国と、アバロン皇国との間で『包括的不可侵・および独占貿易条約』を結びたい」
若林の言葉に、ルーベンスの目が鋭く光った。
「……我々の背後に、関税の防壁で囲った『ポポロ特区』のシステムを呑ませようという腹か。我々アバロンがそれに署名するメリットはなんだ」
ルーベンスが軍師としての牽制を入れるが、若林は余裕の表情を崩さない。
「メリット、じゃと? そんなものは、すでに魔王様が一番よくご存知のはずじゃがな」
若林が指を鳴らすと、信長がもう一つのジュラルミンケースを開けた。
中に入っていたのは、金塊でも宝石でもない。
『朝倉月人 過去全公演の未公開バックステージ映像入り・特製ブルーレイBOX』
『某コンビニチェーン謹製・エビマヨおにぎり(最新の冷凍保存技術で梱包)』
『そして、今後10年間の【朝倉月人ライブVIP席・最前列永久保証パス】』
「…………ッ!!」
ラスティアの背後で、凄まじい闇のオーラ(歓喜の魔力)が爆発した。
ホテルの窓ガラスがミシミシと悲鳴を上げる。
「条約の内容は極めてシンプルじゃ。アバロン皇国は日本国およびポポロ特区に対して一切の軍事的干渉を行わず、また大陸の資源取引において日本を最優先とする」
若林はピースに火をつけ、美味そうに紫煙を吐き出した。
「その見返りとして、日本政府は魔王様の『推し活』を国家主導で完全バックアップする。新曲のデモ音源の先行共有、限定グッズの優先納品、そして……週に一度の、エビマヨおにぎりの空輸じゃ」
経済と軍事という国家の根幹を、アイドルのグッズとコンビニ飯で買い叩く。
あまりにもふざけた、だが、今の魔王にとっては世界征服よりも重い絶対的なディール(取引)だった。
「……ルーベンス」
ラスティアは、ブルーレイBOXを愛おしそうに抱きしめながら、冷徹な君主の顔で軍師を振り返った。
「ここにサインしなさい。今すぐ」
「……御意に」
ルーベンスは、一切の抵抗を見せずに書類にサインし、アバロン皇国の国璽をバンッと押し付けた。
彼とて、この条約が意味する「恐ろしさ」は完璧に理解している。アバロンは今後、日本の『文化』なしでは生きられない体になってしまうのだ。
だが、主君のメンタルを安定させ、不毛な戦争を避けるための「必要経費」と考えれば、これほど安く、確実な安全保障はない。
「カッカッカッ!! 商談成立じゃ!!」
若林が腹の底から笑い声を上げ、ルーベンスと固い握手を交わした。
「それにしても、恐ろしい男だ。武力と経済で相手をねじ伏せるのではなく、相手の『欲望』を完全に満たすことで鎖に繋ぐ。……我々は、心地よい黄金の鳥籠に入ったというわけか」
ルーベンスが自嘲気味に呟く。
「人聞きの悪いことを言うな軍師殿。これは『ウィン・ウィン』という奴じゃよ。……互いに利益をもたらし、共に栄える。それが一番確実で、長続きする平和じゃ」
若林のその言葉には、一切の淀みがなかった。
理と利を重ね合わせ、道徳と計算を完全に一致させる。それこそが、この老政治家が長年培ってきた「究極の統治技術」だった。
「さて、大きな仕事も終わったことじゃ。……シン! 冷えた酒を持て! 今夜は朝まで、異世界の友人たちと飲み明かそうじゃないか!」
「了解じゃ。ルームサービスに、極上のツマミを頼んでおいたぞ」
坂上が、氷の入ったグラスに琥珀色の酒を注ぎながら笑う。
「あ、オジサンたち。飲むのは勝手だけど、絶対に静かにしてよね。今から配信が始まるんだから」
ベッドの上の魔王が、スマホにイヤホンを繋ぎながら鋭く睨みつけてきた。
「「「はい、すいません」」」
日本の妖怪も、鬼提督も、天才軍師も。
絶対君主(のオタ活)の前では、ただの静かな中年男になるしかなかった。
かくして。
武力と魔法が支配するはずだった異世界大陸は、日本の「兵站」「経済ルール」、そして何より「アイドルの笑顔」という現代社会のシステムによって、極めて平和的に、かつ容赦なく包囲されていくこととなる。
博多の夜景を見下ろすスイートルームで、世界の命運は、一枚のブルーレイディスクと共に、ひっそりと決定づけられたのであった




